第五のラッパの後に出て来るいなごには、地のさそりが持つのと同じ権威が与えられます。(啓示9:1,2)いなごは地の草木や緑のものも損なわないように告げられます。(啓示9:3)しかし、「額に神の証印のない人々」だけを損ないます。(啓示9:4)

 今回はこの部分を解釈するように努めてみます。

(1)いなごはさそりと同じ権威を持ちに神の証印のない人々を責め苦に遭わせる


 啓示9章によると、いなごは「地のさそりが持つのと同じ権威」を持ちます(啓示9:3)なごは「額に神の証印のない人々」を殺すことではなく、五カ月のあいだ責め苦に遭わせることが許されます。(啓示9:5)

 「さそりが持つのと同じ権威」とは何を意味しているのでしょうか。すでに、「第四の封印を開いた時」に登場する「青ざめた馬」とその乗り手に「権威」が与えられています。どんな権威かというと、「地の四分の一」を「殺す」という権威です。(啓示6:7,8)


 一方、「いなご」の場合は、権威が与えられた対象と、許されていることが違います。いなごには、「額に神の証印のない人々」を「殺す」ことではなく、「五か月のあいだ責め苦に遭わせる」という権威が与えられています。(啓示9:5)ですから、いなごは、人に致命傷をもたらしませんが、ひどい痛みをもたらします。


 「洞察の本」によると、さそりは、人にひどい痛みをもたらしますが、ふつうは、致命傷にはならないということです。さそりは、長くて細い尾の先端曲がっ毒針を持っています。そしてさそりは、夜に、必要なら毒針で刺して、くもや昆虫を食べます。






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さそりの尾の毒針で刺されると普通人は死なないがひどい痛みをもたらす





 ネットの情報によると、サソリは世界約1000種類ぐらいあり、その中で実際に人命に関わるような猛毒を持つサソリはわずか25種だそうです。 パレスチナとシリアにも聖書時代から現在に至るまでさそりがいます。(申命記8:15


 エゼキエル書の中には、神に対して「イスラエルの子ら」やエホバに「反逆した反逆の国々の民」を「さそり」と呼んでいる箇所があります。そして、そのさそりのような者たちを、「顔が不遜で,心の固い子ら」、「かたくなな者たち」と呼んでいます。(エゼキエル2:3-6)



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聖書はエホバに反逆した不遜な国々の民をさそりと呼んでいる





 それで、聖書中で、「さそりが持つのと同じ権威」を持っているのは、決して神の民の奉仕者ではありません。神に反逆している諸国民を意味しています。(エゼキエル2:3。啓示9:5)このことからも、いなごの軍勢を、聖霊で油そそがれたクリスチャンの奉仕者とみなすのは正確な解釈でないことが分かります。



(2)いなごは誰から権威を与えられたのか



 いなごは、さそりが持つような権威を誰から与えられたのでしょうか。普通、権威とは上位の者から下位の者に与えられます。啓示の書によると、「権威」はみ子キリスト・イエスから与えられる場合も、悪魔サタンから与えられる場合もあります。(啓示2:26)啓示13章によると、「龍は自分の力と座と大きな権威をその野獣に与え」ました龍は悪魔サタンです。(啓示12:9)




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いなごは龍悪魔サタンから権威を与えられる
 




 悪魔サタンが「大きな権威」を与えた野獣とは、昔のバビロニア帝国から始まり、メディア・ペルシャ帝国、それに続くギリシャ帝国、またそれに続くローマ帝国とその後継国の領土にある諸国家を歴史の後から振り返って表現しています。


 その野獣は、ローマ帝国の後継国である米国を含んでいません。すなわち、中東、北アフリカ、ヨーロッパの一部、西・中央アジアを含む地域です。それらの諸国家を歴史の後から振り返って聖書時代も含めて総括して表わしているものだと思います。その諸国家の中には、南の王から二度目の紛争で、「致命的」に見える敗北をしてしまう北の王も含まれています。(啓示13:3)


 このいなごは、北の王によって設立される「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」であると考えられます。(ダニエル11:31)ですから、このいなごは、北の王によって設立される野獣の像です。ですから、このいなごの持つ権威は、もとをたどれば、悪魔サタンから来ていることになります。



 それで、いなごは、悪魔サタンにより、「額に神の証印のない人々」を損なう権威を与えられていると考えられます。
しかし、悪魔サタンが存在することをエホバ神は許されています。ですから、大きな意味では、いなごの「権威」は神から来ていると言えます。



(3)いなごは主要なキリスト教僧職者たちに対する限定的な権威を与えられる


 いなごは、「さそりが人を襲うとき」と同じように人を責め苦に遭わせる力があると描写されています。(啓示9:5)いなごは「額に神の証印のない人々」だけを損ない、彼らを殺すことではなく、五カ月のあいだ責め苦に遭わせることが許されます。(啓示9:3-5)


 いなごは、「額に神の証印のない人々」だけを損なうのですから、聖霊で油そそがれたクリスチャンであると自称しながら神の基準に不忠実になっている人々だけを損なうように規制されているようです。


 それで、いなごは、神の律法に不忠実になり、自ら剣をとって戦うか、あるいは、信者に剣をとって戦うことを奨励したキリスト教の僧職者たちだけを損なうことが許されることになるのでしょう(マタイ26:52)しかし、額に神の証印のない人々」は、責め苦に遭う時、死を求めますが決してそれを見い出せません。死にたいと思っても、死は彼らから逃げて行く」と啓示9章は預言しています。(啓示9:6)


 それで、聖書は、それらの僧職者たち、「額に神の証印のない人々」が、北の王に率いられている軍勢によって、生きながら南の王の土地に捕らわれとして連れていかれることを預言しているのではないかと思います。


(4)いなごは地の草木や緑のものを損なわないように告げられる

 いなごは地の草木やどんな緑のものもどんな樹木も損なわないように告げられます。(啓示9:3)これは何を意味するのでしょうか。

 緑の草木とは何を意味しているのでしょうか。「緑」も「草木」も「樹木」もそれが何を意味するか示唆することばは啓示の書にはないように思います。しかし、詩編の中には、「悪を行なう者たち」や「不義を行なう者たち」が、すぐに枯れる「草」や「緑の若草」に例えられています。また、「邪悪な者」が「自生地に生い茂った木」になぞらえられている箇所があります。(詩編37:1,2,35 )


 しかしながら、詩編の中では、イスラエル人が「ぶどうの木」に例えられていたり、また、神を恐れる者たちが、「ぶどうの木」や「オリーブの木」になぞられられています。(詩編80:8,14;128:3)さらに、義なる者が「やしの木」や「レバノンの杉」に例えられている節もあります。(詩編92:12)


 ですから、聖書の中では、草や木は、義者であるか邪悪な者であるとにかかわらず比ゆ的に人々を表わす場合があります。それで、いなごは、「額に神の証印のない人々」以外の人々は、損なわないようにするのではないかと思います。


 「額に神の証印のない人々」は、前の記事で検討しましたが、神の王国に入るという希望を持ちながら、実際は神の律法に違反していて、神の崇拝者であるという証拠のないキリスト教の聖職者たちを意味しています。



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いなごは神の律法に違反している僧職者だけを損なう
 

 このようにいなごが与えられる権威は、悪魔サタンからものであり、限定的なものです。しかし、後の記事で詳述するように、「額に神の証印ない人々」が神の律法に「違反」をするために、エホバ神は、彼らにそうしたことが起こることを許されることになります。


 しかしながら、「額に神の証印のない人々」の命が容赦されることは、エホバ神の憐みだと思います。そのようにして、後になって彼らがエホバ神の崇拝を再興する道が開かれることになります。わたしたちは、キリスト教の本拠地が攻撃され、クリスチャンが全世界で迫害されることになっても、エホバ神の崇拝を決してやめないようにしましょう。