ヨハネのブログー聖書の預言と希望

主に私たちの将来に希望を与える聖書の預言を説明しています

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(2)統治体が聖書の解釈で間違っている時どのように対応したらいいですか

 わたしはエホバの証人の統治体の兄弟たちは、聖霊で油そそがれたクリスチャンの長老であると考えています。わたしは彼らの聖書解釈が聖書と調和している部分も多いと考えています。しかし、もし、彼らの聖書の解釈が間違っている場合、他の聖霊で油そそがれたクリスチャンや、地的な希望の「大群衆」は、どのように考えたらいいですか。どのように対応するべきですか。


 今回は、シリーズの(2)で「統治体が聖書の解釈で間違っている時どのように対応したらいいですか」というテーマです。「イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察のシリーズ(1)統治体の権威に逆らうことはモーセの権威に逆らうことと同じですか」の続きです。(1)も読んで、この記事の理解の土台にされてください。


 さらに、次回、シリーズ(3)で「大群衆と女性が統治体の聖書の解釈の間違いを指摘するのはエホバ神に受け入れられますか」という記事を出したいと思います。


(1)どのようにイエス・キリストの権威に従うことができますか


 昔のイスラエル人は、エホバの代表者であったモーセの権威を尊重することが求められていました。このことは、今日、わたしたち、とりわけ、天的な希望を持つクリスチャンたちがイエス・キリストの権威を尊重して、イエスの言葉に忠実を示さなければならないことを意味しています。イエスは、モーセのような権威を与えられた預言者だからです。


 神はモーセのような預言者であるイエス・キリストがエホバの「名によって話す」言葉に「従わない人に責任」を問われます。(申命記18:18,19新世界訳改訂版)ですから、私たちは、とりわけ、新約聖書にしるされているイエス・キリストの言葉や指示に従うように最善の努力を払うことが求められています。


 イエスの命令の中には、イエスの追随者たちが互いに愛し合うこと(ヨハネ13:34新世界訳改訂版)、剣をとって戦うことを避けること(マタイ26:52新世界訳改訂版)、淫行や偶像崇拝などの神の律法の違反を犯さないこと(啓示2:14,20新世界訳改訂版)、「人間の伝統」ではなく「神のおきて」に従うこと(マルコ7:8新世界訳改訂版)、「記念」式を守り行うことなどの命令があります。(コリント第一11:24新世界訳改訂版)


 この要求は、第一の要求です。確かにクリスチャンは長老たちや男性の頭の権に従い敬意を払うことが求められています。「皆さんを教え導いている人たちに従い,進んで応じてください 」と勧められています。(ヘブライ13:17。コリント第一11:3新世界訳改訂版)それは、ひとつの神のご要求です。


 しかしながら、もし、聖霊で油そそがれたクリスチャンの長老あるいは男性のクリスチャンが神に不忠実になる時は、その点では、その不忠実な長老あるいは男性のクリスチャンに従うのではなく、エホバ神とイエス・キリストに第一に従うことが求められます。(使徒5:29新世界訳改訂版)



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クリスチャンは地上の人間ではなくエホバ神に従うイエス・キリストに第一に従う必要があります







 なぜなら、昔、モーセとアロンの権威が表していたのは、イエス・キリストの持たれる第一の権威だからです。天的あるいは地的な希望を問わず、また男女を問わず、クリスチャンは、エホバ神とイエス・キリストの権威に第一に従うことが求められています。そうしなければ、イエスによって裁かれてしまいます。


 また、頭の権の原則も、女性が、男性に従うことは相対的な要求です。女性も人間の男性よりも神とキリストに従わなければなりません。(コリント第一11:3新世界訳改訂版)神はキリストの頭なので、神に従うことは絶対的なご要求です。


 実際、女性が男性の頭の権に敬意を払うのは、女性が神に従うためです。(使徒5:29新世界訳改訂版)ですから、エホバの証人の統治体が、万が一、神の律法や原則に従わないように教える場合は、彼らに従うべきではありません。


 では、悪意ではなく意図的でもなく、エホバの証人の統治体の兄弟たちが、聖書を間違って解釈している場合は、どうしたらいいでしょうか。


(2)大群衆は間違いをすることもある聖霊で油そそがれたクリスチャンに対してどのような立場をとるべきですか


 エホバの証人の統治体の兄弟たちが、創造者に対する敬意を育み、神の言葉を学び続けるよう奨励し、神の律法の重要性を大群衆に教える点で、大きな働きをされていることは、感謝するべきことだと思います。





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統治体の兄弟たちが創造者への信仰を育み神の律法を守るよう教え聖書を教えてくださいのは感謝すべきこと




 また、エホバの証人の集会では、聖書がたびたび参照されるので、それに出席すると聖書に精通していくように助けられます。ですから、エホバの証人の統治体の兄弟たちがみ言葉から教えるために払われる努力に従ったり協力するのは妥当な事だと思います。


  立派に監督している長老た,とりわけ一生懸命に話したり教えたりしている人たちは,深い敬意を受けるに値します 」と述べられています。(テモテ第一5:17)


 しかし、そのイエスの兄弟たちも、完全無欠ではなく、間違いをすることもあるでしょう。聖書は地的な希望を持つクリスチャンたちがイエスの「兄弟たち」にどのように接するように勧めているでしょうか。


 聖書は、第一にイエスに敬意を払う必要があるということを強調していますが、イエスに対して敬意を表すために、イエスの兄弟たちに対しても、クリスチャン愛を示して協力するように求めています。羊のようなクリスチャンたちは、王国の希望を持つイエスの「兄弟」たち、男女を含む天的な希望を持つクリスチャンたちに、自発的に協力したり助けたりすることによって永遠の命を受けることができます。(マタイ25:40新世界訳改訂版)




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羊かやぎに分けられるのはイエスの兄弟たちに愛のゆえに自発的に協力するかどうかによる





 この要求は、イエスの弟子たちが互いに愛し合うようにという命令と調和しています。(ヨハネ13:34新世界訳改訂版)それは、イエスの兄弟たちが霊的な食物を分配したり、聖書の音信を宣べ伝えるために専心しているからです。(マタイ24:45ヘブライ13:7,17)エスに対する敬意のゆえに、イエスの兄弟たちに愛を示し、協力することが求められています。


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クリスチャンは互いに愛し合うことが求められています






(3)エホバの証人の統治体の兄弟たちの聖書の解釈の間違いが起こることがあります


 私自身も神の言葉に対する敬意と神の律法に従う重要性は、エホバの証人の統治体の兄弟たちから教えられてきたと思います。また、エホバの証人と交わり、聖書朗読を励まされて、聖書に精通するよう助けられてきました。


 しかしながら、エホバの証人の統治体の兄弟たちも、聖書の解釈で間違っている部分もあると思います。さらに、エホバの証人の統治体の兄弟たちも、個人的な振る舞いや判断の点で、失敗する場合もあるでしょう。


   確かに、わたしも含めて聖霊で油そそがれたクリスチャンが決して、判断の間違いをしないというわけではありません。聖書を初めから完全に理解している人はひとりもいません。詩編に「誰が間違いを見分けられるでしょう。気付かずに犯した罪を許してください。 」とあります。(詩編19:12新世界訳改訂版)



 ですから、自分の間違いを見分けることはとてもむずかしいものです。大抵は、誰もが自分で正しいと思うことを行ないます。クリスチャンであれば、自分の目から聖書的に正しいと思うことをします。



 ですから、統治体の兄弟たちにしても、その時点の聖書の知識と理解の範囲で、正しいとみなすことを行なわれているでしょう。ですから、聖書の解釈で、聖霊で油そそがれたクリスチャンが間違いをすることは起こり得ます。それも、たびたびそうなるかもしれません。 


 とりわけ、一世紀のように聖霊の助けにより奇跡的に「預言する能力」は過ぎ去ってなくなってしまうことを聖書は予告していました。(コリント第一13:8新世界訳改訂版)


 ただ、今日は、ネットの検索ツールや聖書や考古学に関する知識や情報の歴史的な蓄積を利用できる状況になっています。知りうる限り古い聖書の写本もネット上で確認できます。それらは、昔の奇跡的な助けの代わりになります。


 それらの助けは、聖書を正確に解釈するのにかなり貢献します。そのために、最終的には、聖書についての「真の知識は満ちあふれる」ことになるとは思います。(ダニエル12:4新世界訳改訂版)しかし、それでも、最初のうちは奇跡的な助けはないので、解釈の間違いは起こりうると思います。


(4)聖霊で油そそがれたクリスチャンの聖書の解釈の間違いは許されますか


 聖霊で油そそがれたクリスチャンが間違いを犯す時、例えば、聖書の解釈で間違いを犯す時、許されるのでしょうか。昔の祭司は、キリスト時代の天的な希望の祭司を表していました。


   ヘブライ書に、「皆さんはそのもと(主のもと)に来て,自分たちも生きた石として,聖なる力によって建てられている家を構成しています。聖なる祭司となり,聖なる力に導かれつつ,神に受け入れられる犠牲を,イエス・キリストを通して捧げるためです。 」(ペテロ第一2:4,5新世界訳改訂版)それで聖霊で油そそがれたクリスチャンは地上にいる間も比ゆ的な祭司となることが説明されています。


   さらには、レビ記には、「選ばれた祭司が罪を犯し ・・・たのであれば」 という言葉があり、祭司が罪をおかす場合があることを認めています。(レビ4:3新世界訳改訂版)



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祭司も罪を犯しましたが罪の捧げ物によって罪が許されました





 しかしながら、そういう場合の対処策をモーセの律法は指示していました。昔、祭司が罪を犯した場合は、「犯した罪のために」、「若い雄牛を罪の捧げ物として」捧げるようにと指示されています。それは、他の「イスラエルの民全体が意図せずに罪を犯して」た場合と同じ「若い雄牛」の捧げ物でした。(レビ4:13新世界訳改訂版)


 ひとりの祭司の罪が、民全体の罪と同じ捧げ物が求められたのですから、祭司が罪を犯す時、それは、重大な問題であったことが分かります。祭司の罪のための捧げ物は、「長の1人」あるいは、「民の誰か」の罪のための捧げ物 よりも、価値の高い捧げ物を捧げることが求められました。(レビ4:22,23,27,28新世界訳改訂版)


  ですから、祭司級が間違いをすることがあり、それは他のイスラエル人個人の罪よりも重大な問題ですが、その間違いは贖いの犠牲によって許されることが、モーセの律法によって予示されていました。


 聖書は、今日、わたしたち聖霊で油そそがれたクリスチャンと「全人類」の罪がイエス・キリストの贖いの犠牲によって許されえることを示しています。(ヨハネ第一2:2新世界訳改訂版)


 それで、エホバの証人の統治体が間違いをすると、それは重大な結果を引き起こしてしまうとはいえ、キリストの贖いの犠牲に基づいて、その罪は許され、かなりの期間、聖霊で油そそがれたクリスチャンとしての立場にとどまることが許されると思います。



(5)聖書の正確な知識を退けるなら最後には神の是認と命を失うかもしれない


 しかしながら、十分長い時間をかけて、聖書から論じたにもかかわらず、聖書の正確な知識を受け入れない場合は、残念ながら、エホバの証人の統治体の兄弟たちも、最終的に神の王国に入る特権を失ってしまうと考えられます。


  その場合は、聖書の正確な知識に基づいて解釈している聖霊で油そそがれたクリスチャンの側に立つしかないでしょう。
例えば、油そそがれた者であるサウル王が、エホバ神に不忠実になった時に、少しずつ油そそがれた者であるダビデ王の側に立つイスラエル人が増えていきました。



 一世紀にも、パウロは当時のユダヤ教の宗教指導者たちが神に対して大変「熱心」であることを認めました。しかしながら、パウロは彼らが「正確な知識」に欠けていることを、とても残念に思っていました。(ローマ10:2新世界訳改訂版)そして、パウロの聖書の正確な知識に基づく論議を退けたユダヤ教の宗教指導者たちの多くは、最後には、西暦70年のエルサレムの滅びの際に、命を失いました。



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多くのパリサイ人は熱心でしたが正確な知識に欠けていたため西暦70年に命を失ってしまった







 ですから、聖書に基づくと主張される教えは、それが聖書と調和しているかどうかを時の経過と共に試されることになるでしょう。それは、いずれ、明らかになることでしょう。



     格言にはこうあります。「人には正しい道に思えて,最終的に死に至る道がある。」(格言14:12新世界訳改訂版)ですから、間違いは確かに贖いの犠牲に基づいて許され得ますが、自分の目に正しい道と思えても、もし、聖書の正確な知識に調和していないならば、最後には死に至る結果になるかもしれません。



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自分の目に正しく見えても最後には災いと死に至る道があります
 





 ですから、聖書の解釈の間違いは、聖霊で油そそがれたクリスチャンと彼らに従うクリスチャンたちの命を奪う結果になりえます。(テモテ第一4:16新世界訳改訂版)


(6)祭司級が聖書の解釈で間違う場合特に他の祭司級が間違いを指摘する必要がある


     聖霊で油そそがれたクリスチャンが聖書の解釈で間違った時に、他の聖霊で油そそがれたクリスチャンがそれを聖書から指摘して、間違いを正したことがありました。


 一世紀の「エルサレムにいる使徒や年長者たち」の一部がクリスチャンが割礼を受けることが必要だと主張しました。ヤコブに主催されていた時のエルサレムの年長者団の中には、「割礼組」のクリスチャンがいたことを聖書は述べています。(使徒16:4。ガラテア2:12新世界訳改訂版)


 その時に、パウロは、聖書のさまざまな根拠を指摘して、非ユダヤ人のクリスチャンが割礼を受ける必要がないことを論じました。そのことは、ローマ書やガラテア書やコリント第一の書などで論じられ、諸会衆でパウロのそれらの手紙は読まれました。(ローマ2:28,29;3:30;4:10,11。コリント第一7:18,19。ガラテア5:6;6:15。コロサイ3:11新世界訳改訂版)



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聖霊で油そそがれたクリスチャンのパウロは他の聖霊で油そそがれたクリスチャンの聖書的な間違いを指摘した






 ですから、エホバの証人の統治体が聖書の解釈で間違う場合は、主に他の聖霊で油そそがれたクリスチャンが聖書に基づいて間違いを指摘する責任があります。


 さらに、教えることには、大変重要な責任が伴うこと、それに間違うと「より厳しく裁かれる」危険があると述べています。(ヤコブ3:1新世界訳改訂版)


 ですから、第一に聖書から論じる責任があるのは、祭司級のクリスチャンです。実際そのような形で、イエス口から出る長い剣 」で戦うことでしょう。(啓示2:16新世界訳改訂版)ご自分の口の「霊の剣」、すなわち「神の言葉」によって、間違っている聖霊で油そそがれたクリスチャンと戦われるでしょう。(エフェソス6:17新世界訳改訂版)



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聖書の解釈についての間違いをイエスに従って聖書の剣を用いて辛抱強く論じる必要がある





 それで、クリスチャンは、第一のイエス・キリストの権威に従わなければなりません。そのため、とりわけ、聖霊で油そそがれたクリスチャンがエホバの証人の統治体の兄弟たちの聖書の解釈の間違いを指摘する必要があります。



 しかしながら、たいていの場合、クリスチャンは、自分の観点からは聖書に従っていると考えて、自分では正しい道を歩んでいると考えます。そのために、聖書の解釈の間違いを指摘することは、十分時間をかけて辛抱強く行われる必要があると思います。


 そのようにすることによって「真理の正確な知識を得る」よう助けることができるかもしれません。 (テモテ第二2:24,25新世界訳改訂版)


 では、大群衆と女性がエホバの証人の統治体の聖書の解釈の間違いを指摘するのは、神の目に受け入れられますかという点については、次回の記事で扱いたいと思います。