ヨハネのブログー聖書の預言と希望

主に私たちの将来に希望を与える聖書の預言を説明しています

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(19-2)雑魚寝事件の姉妹はなぜ性の不道徳がなくても排斥されたのか

 

  ヨハネです。このシリーズの17で話した「エホバの証人の会衆での雑魚寝事件」の後、証人の組織に復帰された姉妹が、性の不道徳は行っていなかったけれども、排斥になったと言っておられました。今回は、聖書でみだらな行ないとは何を意味するかを聖書から考察してみます。みだらな行ないは、聖書的に、性の不道徳よりも、広い範囲の意味を持っています。その雑魚寝事件で排斥された姉妹は、「みだらな行ない」という理由で排斥されてしまったのかもしれません。

 

 

 

(1)その姉妹が性的な不道徳がなかったのになぜ排斥されてしまったと考えられるか


 その姉妹はなぜ下半身の性的な結合という性的な不道徳がなくても、排斥されてしまったのでしょうか。彼女に対する会衆の扱いは不適切なものだったでしょうか。 

 

 会衆のある成員が、雑魚寝事件で処置が行われる前に、会衆に不道徳な空気が流れていたと言われました。その人はその長老姉妹が次から次に独身の兄弟との交わりを求めてあからさまに親しくするという態度を不愉快に感じておられたのではないかと思います。


 実際のところ、その長老姉妹が、その雑魚寝事件がある前に、お仕事をして得たお金を使って、その会衆に以前いた独身の特開者の兄弟たちと頻繁に交わりをされていたということをお聞きしたことがあります。


 わたし自身は、その雑魚寝事件で、面談での証言を求められなかったのですが、それまでの姉妹のそうした行動や態度全体を他の経路で巡回監督が耳にすることになり、総合的にものみの塔の指針の中で非とされている態度だと判断されたのかもしれません。しかもその姉妹がその交わりについて反省の色がなかったので、排斥になったのかもしれません。


 一般的な良識で判断すれば、若者であれば、とりわけ、狭い一部屋で一晩、男女で雑魚寝をすれば、乱交や性の不道徳につながりかねないというのは分かることです。そして、世間一般で許されている慣行と同じことがクリスチャンの間で許されるべきではないです。


 ふさわしくない身体的な接触が一切がなかったのか、ある程度はあったのかは私は知りません。でも、その交わりの仕方は、決して聖書に従うクリスチャンにふさわしいものではなかったのは事実です。


 これは、調査と審判に当たった監督たちの裁量になると思います。でも、もし、淫行と汚れが一切なかったのであれば、それは、主催者が賢明で適切な処置でなかったと言うことを認めてひたすら謝罪をすれば、不快な事ではあっても、排斥する必要はなかったのかもしれません。でも、その姉妹は、最後にわたしが排斥になればいいんでしょみたいな反省のない言い方をされたと本人から聞いています。


 それで、性的な不道徳行為がなかったとしても、それまでの姉妹の全体的な態度が考慮され、若い人の交わりが賢明でなかったということを認めてひたすら謝罪するという態度でなかったので、排斥になったのでしょうか。  

 

 その兄弟の判断は、厳しいものでしたが、結果的に、聖書にかなっていたと言えるかもしれません。わたしには、実情は十分分かりませんが、お聞きしている範囲では以上のように思います。


(2)淫行がなかったのであればご主人の再婚についてどのように考えるべきか


 ヨブの言葉によると、既婚者が、配偶者以外の異性に対して恋心を抱いて、最終的には性的な関係を結ぼうとする目的で、過度に交友を追い求めることも、ヘブライ語のzim・māh ジンマー「みだらな行ない」です。ですから、その姉妹が排斥に値すると監督が判断されたことは聖書にかなっていたかもしれません。


 しかしながら、それは、淫行ポルネイア、すなわち、文字通りの身体的接触が関係していなかったのであれば、聖書的な離婚の根拠とはならず、主宰監督の兄弟は再婚の自由はなかったということになると思います。聖書が認めている離婚と再婚の根拠は淫行、文字通りの身体的な性的な結合を意味する性の不道徳だからです。(マタイ5:31)


 ですから、私は、その姉妹の言葉が万が一、ほんとうであるとすると、その兄弟の再婚は、本来許されるべきことではなかったということになると思います。それは、兄弟の再婚は姦淫になるので、兄弟が何らかの審理処置を受けるべきだったということになります。


 もし、万が一、その姉妹の言葉がほんとうであれば、姉妹は淫行がなかったのに、離婚されてしまい、苦労をされたかもしれず、お気の毒だった思います。でも、わたしにはその姉妹の言葉が本当だったかうそだったかは確信が持てません。また、姉妹が性の不道徳の聖書的な正確な意味を理解されていたのかどうかも分かりません。

 

 

(3)聖書の性の不道徳に関する高い基準をどのようにして当てはめるか


  それで、聖書が私たちクリスチャンに求める基準はこの世一般の基準よりとても高いと思います。でも、このヨブの言葉に関する説明がものみの塔の出版物に掲載されているわけではありません。しかしながら、単に性的な身体的な結合以上のことを排斥の根拠にしているエホバの証人の指針は、聖書と調和していると言えます。


 ですから、聖書によると、性的な不道徳を追い求めようとする傾向やプランも非としていて、裁かれて処罰される過ちであることを述べています。ですから、エホバの証人が単に淫行や汚れ以上のこと「みだらな行ない」を排斥の根拠とするということは、聖書的だと思います。



 しかし、私たちの心の中の動機や欲望まで分かるのはエホバ神だけですし、「みだらな行ない」について聖書が述べることを、排斥の根拠とするには、判断をする監督が十分調査をして状況や関係者の動機を十分把握することが求められると思います。さらに、心の中の問題は、とりわけ、当人の反省や後悔があれば憐みを示すことができると思います。




 しか、わたしたちがエホバ神とイエスから是認されたいと願うならば、たとえ排斥はされなくても、わたしたちの心の中の状態を清いものにするよう懸命な努力を払うことが求められます。既婚者は、配偶者以外の人に対する性的な欲望を燃やさないようにする自制が求められます。


 そして、結婚している人は配偶者との関係を良いものに保つように努力して、共に相手が性関係を求めたならばそれに応じることによって、互いに性の不道徳に陥らないようにする助け合いが求められると思います。(コリント第一7:5)



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結婚している夫婦は互いの性的な必要を配慮することが求められる






  さらに、独身の賜物のない人は、ふさわしい配偶者を見つけて性的な欲望を充足させて、通常は異性に対して清い思いを持てるようにすることが必要だと思います。(コリント第一7:8,9)



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独身の賜物のない人は情欲に燃えるよりは誉れある結婚をするのが勧められます

 



(4)エホバの証人の間で道徳的な清さを守る努力が払われていること


 それで、神の律法に関連したエホバの証人の統治体の指導であるものみの塔の指針は、聖書と調和していて、正しい場合も多いと思います。さらに、その排斥理由が、聖書に基づいている場合、その排斥処置は正しいもので会衆の清さを保つのに貢献して良い結果をもたらす場合もあると思います。何よりも、そのようにするならば、会衆に対するエホバ神の是認を保ちます。


 いずれにしても、エホバの証人の会衆の中では、児童の性的虐待が長い間放任されていたこともありましたが、この雑魚寝事件で示されているように会衆によっては会衆の道徳的な清さを守るための努力も払われているというのも、事実だと思います。


 最近、ある姉妹が部外者の意見は気にとめないようにしたいと思いますと集会の注解で言われました。確かに、わたしはエホバの証人ではないので、部外者です。しかし、エホバの証人が、聖書を神の言葉として受け入れていると宣言しているので、わたしはエホバの証人か聖書に従っているかどうかに関心があります。わたしも聖書は神の言葉であると信じていて、それに従う努力をしたいと願っているからです。


 しかし、わたしがその当時地元の会衆で起きたことを日本支部に伝えたので、その会衆に厳しい処置が行われたとみなされたのかもしれません。しかし、わたしはその事件に対する裁定を左右できたわけではありません。裁定に当たったのは、実情を調査された監督たちです。


 しかし、わたしは後になってこのことが原因で、大群衆の監督たちによって、ルームメイトを組むのを邪魔されて経済的な苦労をすることになったのかもしれないと考えています。