ヨハネのブログー聖書の預言と希望

主に私たちの将来に希望を与える聖書の預言を説明しています

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(22-1)パートナーの利点と長老が個人のルームメイトを妨げるべきでない理由

  ヨハネです。今から、約二十数年前のことですが、英語講師を始めていたエホバの証人の会衆で、わたしはルームメイトを組むという個人的な計画を大群衆の長老から妨害されて、わたしの収入からすると高額なマンションの賃料をひとりで払わなければならない状況に追い込まれました。


 そして、その当時自分が交わっていた会衆の長老たちのわたしに対する話の仕方から、異なる会衆の長老たちが協力して、わたしを経済的な困難に追い込んだのではないかと疑いを持っています。その疑いは今でもぬぐいきれません。


 もちろん、昔経験した経済的な困難にこだわっていても、意味がありませんが、わたしの経験は、会衆の長老が成員にどのように助言をするべきかということにも関係しているので私の経験を話しました。


 その当時、自分の会衆のある姉妹が、私が長老に相談して長老が取り決めたパートナーだったら良かったけれども、個人的にパートナーを組んだからいけなかったというようなことを言われました。今回の記事では、聖書中のルームシェアをした事例やルームメイトを組んでいた事例を検討します。そして、パウロの事例から長老がわたしがルームメイトを組むのを妨げる理由はなかったことを述べたいと思います。


(1)長老たちは会衆の成員に神の律法や原則に基づいて助言を行うべきむ


 まず、霊的に資格のある人が与える助言は、聖書に基づいていなければなりません。テトス書には、監督は「神の信頼できる言葉にしっかり従った教え方をしなければなりません 」とあります。(テトス1:9新世界訳改訂版)


 ですから、まず第一にその若い姉妹に助言したその長老はどんな聖書の原則に従って助言されたのでしょうか。その当時、その若い姉妹には、少なくとも契約を交わしてもいいか確認して、入居の契約を交わしたことを知らせました。記憶が不確かなのですが、その後、おそらく入居して、姉妹の到着を待っていたと思いますが、その姉妹の入居の時期が遅くなっていって結局入居をキャンセルされました。


 そのために、わたしは高い家賃のマンションにひとりで入ることになり、経済的に楽になりたいと思ってしたことが、かえって経済的な困難を招きました。若い姉妹が約束を守らなかったので、わたしは高額の賃料を自分一人で払わなければならない状況に追い込まれました。


 その長老は、聖書中の「『はい』は,はいを,・・・意味するようにしなさい。それ以上のことは邪悪な者から出るのです。 」という聖書の原則に従うようにその姉妹に勧めても良かったのではないかと思います。(マタイ5:37新世界訳改訂版) さらに、「愛があれば,隣人に対して悪いことを行いません。」という助言も聖書にあります。(ローマ13:10新世界訳改訂版)


  ですから、わたしが経済的に困った状況に陥らないように愛に基づいて約束を守るように助言をしても良かったのではないかと思います。もちろん、その時、その長老は、何らかの聖書の原則に反すると考えられたのかもしれません。でも、わたしはその姉妹の会衆の長老とその問題で話をしていないので、どのような原則に反すると考えられたのかは確認してはいません。また、その兄弟がどのような聖書の原則に基づいてその姉妹に助言なさったのかは分かりません。


 もちろん、その姉妹とわたしはずっとルームメイトを続けられたかどうかは分かりません。どんな人間関係も、結婚関係、家族関係に関しても、問題は生じます。考え方や性格の違いで、ずっとはうまくいかないこともあります。でも、実際、同性のルームメイトの場合は、男女の結婚の取り決めとは違います。パウロバルナバがパートナー解散をしましたが、解散してはならないというしばりがあるわけではありません。(使徒15:39,40)それで、結婚の場合よりは、もっと気軽にルームメイトを組むことができます。


 でも、後で解散することになるとしても、それは別問題で、良い人間関係を保とうとする努力の中で、人は成長していくと思います。


(2)ルームメイトを組んだりルームシェアをする利点


 確かに、一人暮らしは、研究に専念できるという利点がありますが、わたしは、基本的に人は「孤立」するよりも、互いに助け合って暮らす方が、総合的に益があると考えています。(格言18:1新世界訳改訂版)わたしはどちらかというと独身の賜物がある方なので、結婚は考えませんが、ルームシェアには、さまざまな利点があると思います。

 



    使徒の活動によると、当初11人の使徒たちは、道徳的な基準を守りながら、クリスチャン会衆の設立当時、助け合って集団で暮らしていました。


 「ペテロ,ヨハネヤコブとアンデレ,フィリポとトマス,バルトロマイとマタイ,アルパヨの子ヤコブと熱心な人シモン,ヤコブの子ユダ」また、「何人かの女性,イエスの母親マリア,イエスの弟たちも一緒だった。」と記されています。(使徒1:13,14)男女で一緒に暮らしていても、彼らはなんらかの仕方で、性の不道徳に陥らないような算段をしていたのでしょう。




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使徒たちは貞潔な仕方で共同でルームシェアをして生活していた

 

 




 断言はできませんが、おそらく使徒の多くはまだ独身で、ルームシエアをしていた可能性が高いでしょう。


 なぜなら、イエスが、弟子たちを宣教旅行に遣わした時に、いつも、二人一組にして派遣しました。(マルコ6:7。ルカ10:1)聖書は夫婦が互いの性的な必要を顧みるように勧めていて、夫婦が離れて暮らすことを勧めていません。(コリント第一7:3-5,12,13)

 

 それで、イエスが最初ふたり一組になって弟子たちを派遣した時も、妻から離して既婚の弟子を派遣するということはおそらくなかったと思います。当初は、おおむね独身の弟子をパートナーを組ませて派遣したでしょう。




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エスは夫婦の絆を強調され引き離さないようにと言われたので・・・




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エスはおそらく独身のクリスチャンをペアにして宣教に派遣したと考えられる

        後になると夫婦のペアも含まれることになったでしょう







 彼らは独身でしたが、彼らはもちろん同性愛をしていたわけではありません。彼らは宣教旅行をしていた時、ルームメイトになっていたと考えられます。それで、一世紀のイエスの弟子たちは、独身男性のふたり一組で貞潔に生活することに慣れていました。


 おそらく、夫婦がペアになって派遣されたケースもあるのではないかと思います。また、女性がパートナーを組んで派遣されたかもしれません。これは、書かれてはいませんが、否定する根拠もないと思います。

 

 

 でも、パウロは、みなそれぞれ賜物が違うと言って、性的な必要がある人には結婚するように勧め、使徒たちの一部は、後になって結婚したと思われます。(コリント第一7:9,36)ですから、パウロによると、後になっておそらくケファ、つまりペテロを初めほとんどの使徒たちやイエスの兄弟たちは、妻を持っていました。


 また、パウロも一時的に結婚していたかもしれません。(コリント第一9:1,5)パウロまたサウロの場合も、おそらく、パウロが男やもめになった後だと考えられますが、バルナバと共にパートナーを組んだり、シラスとパートナーを組んだりして生活しました。(使徒13:2,3;15:35,40)



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独身のパウロは独身のバルナバとパートナーになって宣教を行った




 エホバの証人はこの点、聖書の教えに従っていて、この世の企業と違って宣教者や特開者が単身赴任ということはありません。単身赴任は、夫婦のどちらかが性の不道徳に陥る危険があり、また、配偶者同士の責任、また、子供ができると子供に対する教えて育てる責務を果たせなくなります。(コリント第一7:5)


 余談ですが、エホバの証人は、ローマカトリック教会のように僧職者に独身を強制することもありませんし、一般の企業のように、単身赴任をさせることもありません。(テモテ第一4:1-3)おおむね、夫婦ふたりで組として扱うので、他よりも淫行に陥ったり、離婚になる率は低いと思います。



 それで、使徒たちは、とりわけ独身の時に、ルームシェアをして助け合っていました。また、結婚した後は、夫婦の単位で、複数で暮らし続けたかもしれません。


 世間とは異なる基準を持つクリスチャンたちが助け合ってルームシェアで暮らすことはさまざまなメリットがあったでしょう。経済的な支えや節約、精神的な支え、霊的な励まし合いなどのメリットがあったでしょう。(格言4:9)


 それで、クリスチャンの間でルームメイトを組むことは、神の律法に反していません。ルームメイトを組むのは、誰かと結婚することを決めるような個人的なことであり、メリットがあり、そうすることは生活の問題に対処する知恵の表れです。ですから、その当時、その長老兄弟がわたしとその若い姉妹がルームメイトを組むのを妨げる理由はなかったのではないかと思います。


(3)長老たちは神の言葉に従って教え自分の個人的な意見に対する従順を強制するべきではない




 もちろん、生活上のある分野は、長老に相談することもできますが、個人的に決定し行動しても全然かまわないことです。それを長老に相談しないで個人的にしたという理由で、邪魔をしたというのであれば、不当なことだったと思います。


 今もそうだと思いますが、その当時、エホバの証人の長老たちの権力は強いものがありました。そして、成員の生活を困難にしても、個人が自由に判断したり、行動したりしてもいい分野に干渉して、自分たちに従わせようとすることがありました。その長老たちのしたことは、決してキリストの愛に基づいていなかったと思います。


 しかも、別の記事でも述べましたが、ある長老は、長老に相談していない場合は、自由にしても構わないが、長老に相談したら最後、個人的な決定や選択の分野でも、長老の言うことに絶対従わなければならないと言われました。その長老の考え方は間違っていると思います。


 神の律法に関係しない場合は、成員の生活上の自由な選択を認めるのが正しいです。ルームメイトを組むことは基本的に神の律法に関係しません。長老はただ単に自分たちの権威に従うことを強調して、自分が成員の生活を支配するべきではないと思います。そうなると、「弟子たちを引き離して自分に付かせようとして曲がった事柄を言う」ことにつながります。(使徒20:30新世界訳改訂版)


                               イエスはこう言われました。「国々の支配者が威張り,偉い人たちが権威を振るうことを知っています。あなたたちの間ではそうであってはなりません。」(マタイ20:25) 威張らないとか権威を振るわないということは、聖書の律法と原則と関係のない個人的な意見に盲従することを強制しないことを意味すると思います。


0nation political leader
クリスチャンは世の政治指導者のようには権威を振るうべきでないので神の律法に関係のない個人の意見に盲従することを強制するべきでない