ヨハネのブログー聖書の預言と希望

主に私たちの将来に希望を与える聖書の預言を説明しています

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(30)なぜ原水事件の時地元の会衆の長老は間違った判断をしたのか

 

 

   なぜ、エホバの証人の長老たちは、原水事件の時に、わたしと別の姉妹が異なる主張した場合に、証言の信頼性の度合いは同じはずなのに、その姉妹の方の言葉だけを正しいとして受け入れたのでしょうか。しかも、わたしの方には、証拠があったにもかかわらずにです。


イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(26)わたしヨハネは原水事件のために再び正規開拓者から降ろされる


 わたしがその主宰監督の兄弟に最初に原水事件について話した時に、原水を飲まされたことくらい小さなことだから、無視してそのままにしたらと最初に言われましたが、そのような仕方で解決を図るようにされた方が良かったと思います。

 原水事件が起きた時、地元の会衆の長老たちは、その当時表象物にあずかり始めていた私の証拠もある証言を退けて、なぜ不公正な裁定をくだしたのでしょうか。今回はその原因を考えてみます。


(1)最大の原因は統治体の指導のため-油そそがれたクリスチャンに対する処遇が永遠の命かどうかを左右するという認識の欠如



 やはり、新たに表象物にあずかる人は、勘違いで表象物にあずかっているのではないかというものみの塔誌の注解は、長老たちの新たに表象物にあずかった私に対する処遇に大きな影響を与えたと思います。

 

 何度も指摘しましたが、エホバの証人1914年説のために近年、新たに表象物にあずかった人に対しては、疑いを抱いて、思い込みであずかったとみなされる傾向が強いです。


 新たに表象物にあずかる人たちに対する疑いはわたしが表象物にあずかり始めた二十数年前頃だけでなく、近年のものみの塔誌にも記載されています。ものみの塔20161月研究記事にも、表象物にあずかった人の数には,自分が油そそがれていると誤解している人の数も含まれています。」とあります。

 

 そして、表象物にあずかる人たちに見方について注解したものみの塔誌の記事は、その人に対する扱いが永遠の命か永遠の死かを分けることになるというイエスの言葉にほとんど注意を向けていません。(マタイ25:40,45,46)




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エスは永遠の命か死かはイエスの霊的な兄弟たちに親切に協力するかどうかにかかっていると言われた




 実際、表象物にあずかっている人の数が、オーバーブッキングになっているのは事実だと思います。イエスも、「招かれる人は多いですが,選ばれる人は少ない 」と言われました。(マタイ22:14)それで、神の王国をめざす多くの人の中で目標に達する人はその一部に過ぎません。


 ですから、新たに表象物にあずかった人が、エホバに召されているかどうか、神に是認されているかどうか分からないかもしれません。しかし、その中には真正な油そそがれたクリスチャンも含まれているでしょう。

         その表象物にあずかる人が能力があって、目立つか目立たないかは重要ではありません。イエスは、「これら最も目立たない人の1人にしなかったのは,それだけ私にしなかったのです。この人たちは永遠の死を迎え」ますと言われているからです。(マタイ25:40,45,46)


(2)表象物にあずかる人は自分を吟味しなければならず他の人はその人が神に忠実であるかどうかを見ながらその立場を尊重できる


 確かに、表象物にあずかる人は、自分を吟味しなければ、「自分への有罪判決を食べて飲む」と書かれているのは事実です。その言葉の意味は、食事をするように「不適切な態度で」気軽に表象物にあずかってはならないということも意味しています。(コリント第一11:27-29)それで、確かに表象物にあずかることの意義を十分認識しないで食事をとるような仕方で「不適切な態度で」表象物にあずかるならば、当人はエホバに罪を犯すということにはなると思います。




 イエスの霊的な兄弟たちは、聖霊を注がれ、聖霊バプテスマを受けます。(使徒1:5)エホバ神は、ご自分の霊的な子は特別に扱われ、特別に支援されます。(ローマ 8:28)それで、イエスの霊的な兄弟たちは、自分が油そそがれた神の子であるという自覚を持っています。(ローマ 8:14-16。ガラテア4:6)他の人は、そのような状況をすべて判断できるわけではありません。



 今日では、一世紀のように聖霊を頭の上の火として見ることができるわけではありません。(使徒2:3,4)また、聖霊がそそがれている証拠として、奇跡を行うこともできません。





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今日天的な召しを受けた人に異兆があったり奇跡が行なえたりすることはない




 それで、基本、その証拠は、当人が神の律法を守り忠実に宣教を行って神のご意志を行っていることでしか見分けることはできません。それで、表象物にあずかる当人は確かに自分を厳しく吟味しなければならず、それが分かるのは、表象物にあずかる当人だけかもしれません。



 そして、昔の事例を考えるとダビデは、油そそがれた者サウルが死ぬまで、できる限り「油そそがれた者」として敬意を払いました。(サムエル第一24:6)また、パウロエルサレムの長老団がエホバ神のみ前で霊的に危険な状態にあった時も、できるだけ敬意を払い、そのことはイエス・キリストに受け入れられました。




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ダビデが油そそがれた者サウルに敬意を払ったことは神に是認された





 このことを考えると、厳しく吟味するのは、当人だけであって、他の人の場合は、その人が神に忠実であろうとする努力が見られ、表象物にあずかっているのであれば、その立場を尊重することで、間違いがないのではないかと思います。


 油そそがれた者サウルの場合、エホバに非とされてからも、エホバ神に忠実を示す部分もありました。例えば、サウル王はモーセの律法の要求通り、霊媒イスラエルから除き去ることもしました。(サムエル第一28:3。レビ20:27)それで、サウル王は王位を失うことになっていましたが、それでも長く王位にとどまりました。


 しかし、サウル王は晩年はエホバに完全に信仰を失い不忠実になって、霊媒に相談に行きました。(レビ20:6。サムエル第一28:7,8)それで、エホバの是認を完全に失っていました。



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サウルは霊媒を除いたにもかかわらず霊媒に相談に行き神に不忠実になったことを完全に示した





 サウル王がエホバに不忠実になっていることを見ることができていたのに、それでも、サウルに付き従っていた人々は、サウルに率いられてフィリスティア人と戦った時、命を失いました。サウルと共に、あの忠実な信仰のあるヨナタンでさえ、時ならぬ死を迎えました。(サムエル第一31:1,6)


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ナタンは最後まで不忠実な油そそがれた者サウルについていたのでサウルと共に命を失ってしまった





 ですから、その油そそがれたクリスチャンが基本、神に忠実であるのであれば、極力その立場に敬意を払って、親切をすることには何も間違いがないと思います。その聖霊で油そそがれたクリスチャンが確かに、聖書中に要求されている事項に従っているのかどうかということをよく見て、判断する必要があります。


 反対に、忠実であるよう努力している天的な希望を表明する人に対する否定的な見方のために何もしないどころか、不親切な扱いをする人は、永遠の命と復活の見込みを失います。ですから、そのような危険を犯すよりは、親切にしている方がましだと思います。


 クリスチャンは、誰かに親切にすることによって何か間違いをすることにはなりません。クリスチャンは互いに愛し合うようにと命じられているわけですから。(ヨハネ 13:34,35)


 それで、天的な希望を持っていることを表明しているクリスチャンたちに対しては、注意を払って、親切に協力する方がいいのではないかと思います。それで、その立場が少なくとも地元の会衆では知られているのがいいのではないかと思います。


 

(3)物質的な贈り物やもてなしは判断を間違わせることがある



 原水事件の会衆の主宰監督は、自分を好意的にもてなしてくれる姉妹の言うことは、正しいことを言っていると考えやすかったと思います。人は、自分に物質的な贈り物をしてくれる人の証言の方を、どうしても、正しいものだと考えがちです。

 聖書の中にも、自分によくしてくれる人が他の人を中傷をした時に、あの神を恐れたダビデがその人に不公正に有利な裁定を下したという例があります。



 ダビデが逃亡状態から再び王として戻ることができた時に、サウル王の家の僕ヂバは、いち早くダビデにたくさんの贈り物をしました。そして、ヂバはサウル王の息子メピボセテに関して中傷しました。ヂバは、メピボセテについて、ダビデが苦難にあったことが自分に有利になると言っていたと、うそを言いました。(サムエル第二16:1-4)


 ダビデはヂバの証言の方を信頼しました。後で、ダビデはメピボセテの弁明を聞きました。メピボセテは、ダビデを心配して一緒に行きたいと思っても、足がなえていたのでダビデの支援に行けなかったと言いました。(サムエル第二19:24-27)そして、メピボセテはヂバが自分を中傷したと言いました。


 しかし、ダビデは、本来メピボセテのものであった資産の半分を、ヂバにやるようにとメピボセテに命じました。そのようにして自分に贈り物をしたヂバの言葉に基づいて裁定をくだしました。(サムエル第二19:29)



 ヂバはメピボセテの僕であって、彼が持っていた資産は、サウル王やヨナタン、またメピボセテの資産でした。ヂバは、その資産を用いてダビデに物質的な贈り物をすることができました。それでダビデの裁定はメピボセテに対して、不当で間違った裁定でした。(サムエル第二19:29)そして、ヂバは贈り物はメピボセテと自分からのものだと言うこともできました。しかし、ヂバは偽証しました。おそらく、ヂバは、身障者のメピボセテに見下していて、ダビデから好意を得て、自分の立場を良いものにしたかったのでしょう。


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ヂバのたくさんの贈り物のためにダビデはヂバの偽証を信じた





 ヂバは油そそがれた者ダビデに実際的な援助を与えたことに対して、報いを得たとは言えます。(サムエル第二19:17)でも、ダビデは、ヂバの偽証を信じた、あるいはうそを見逃しました。


         物質的な贈り物は、ダビデのような賢明な人の判断でさえ盲目にならせて間違わせがちだというのが現実なのではないかと思います。聖書は「賄賂によって,賢い人も目が見えなくなり,正しい人の言葉もゆがむ」と述べています。(申命記16:19)



(4)長老たちの間違った判断につながった男性としての感情


 そのマンションに住んでいたわたしに原水を分けた姉妹は、長老たちから好意を得たいと願っていて、以前特開者として任命されていた長老たちを自宅で食事に招いていました。それは、間違ってはいないと思います。長老たちに感謝を表明するのはふさわしいです。


 その後、片方の特開者の兄弟は別のところに移られ、もうひとりの特開者の兄弟は正規開拓者になって会衆に残りました。その当時、その正規開拓者の兄弟が主宰監督だったと思います。


 その兄弟は、わたしをできるだけ目立たなくさせようとされていたと思いますが、わたしが奉仕をがんばっていたことは気づいておられました。そして、わたしはまだその当時、若かったので、その兄弟はある程度、わたしに異性としての関心を持たれたのではないかと思います。


 その当時は、何度も会衆の群れの編成があって書籍研究が行われたのですが、わたしを含めて独身の姉妹たちは、そのたびにいつもその独身兄弟と同じ書籍研究の群れに割り当てられました。


 わたし自身としては、その兄弟に異性としての関心は、全然なかったので、いやだなと感じていました。それで、その兄弟はわたしの意向に気づいたと思います。そのことも、その長老兄弟がわたしに不利になる裁定をすることにつながったかもしれないと思います。


 聖書の中で、求愛が受け入れられなかったり、抵抗されたりすると怒りを生じさせると言う例が記載されています。


 ボテパルの妻は、端正な顔立ちをしたヨセフに情欲に基づいた愛を抱きました。そのため、その妻は何度もヨセフに言い寄りました。ヨセフは何度も主人の妻の求愛を退けました。


 ある日、その妻は、ヨセフに一緒に寝るよう迫り、ヨセフはその衣を彼女のもとに残して逃げていきました。それで、その妻は、ヨセフに対する怒りを表わしました。そして、ヨセフが自分を犯そうとして、衣を残して逃げて行ったとうそを言って、ヨセフが投獄されるようにしました。(創世記39:7-20)



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ボテパルの妻はヨセフに拒まれたので彼への愛は怒りに変わった





 ですから、ボテパルの妻は、ヨセフに対する求愛が退けられたので、彼女のヨセフに対する愛は、憎悪に変わりました。情欲に基づく愛は、拒まれると怒りを生じさせます。


 他にもタマルをレイプをしたアムノンがタマルに徹底的に抵抗され、タマルが正しいことを言ったたために、アムノンのそれまでのタマルに対する愛が憎悪に変わったことも聖書に書かれています。(サムエル第二13:12-15)



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アムノンはタマルを愛していたがタマルから抵抗され正しいことを言われたのでタマルを憎むようになった




 それで、普通、男性は、自分の好意に応じる女性に対しては、好意をもって応じますが、異性としての好意を退けられたり、もっともな正しいことを言われると相手に対して怒りを抱くようになることがあります。職場で、上司が異性の部下に関心を示して、それを断ると職場での待遇が悪くなるというような経験を聞きます。


 それで、ある程度、権威のある立場にある男性はその怒りのために権威を不当に乱用することがあると思います。こうしたことは、結構、普通に起こることなのではないかと思います。


 それで、わたしがその独身長老兄弟に好意を抱いていれば、良い待遇を受けられたのかもしれませんが、そうでなかったので、わたしに不利な裁定がくだされたのかもしれません。


 さらに、普通女性は立場が低く権威がないので、長老などの資格のある人との結婚は、その女性の立場を向上させるという考え方があります。それは、現実かもしれませんが、わたしの場合は、独身の立場で、聖書を研究して神のみ前で霊的な報いを得ることや神への奉仕をすることに何よりも喜びを見出していました。



 さらに、わたしに起きたことは、エホバの証人の間で、大群衆の長老が過度に高められていること、彼らのすることが自動的奇跡的に正しくはならないということを証明していると思います。


  それで、統治体の兄弟たちは、大群衆の長老たちに信頼しているために、彼らがいつも神を恐れて聖書の原則に調和して行動していると考えています。しかし、会衆の大群衆の長老たちは、統治体の兄弟たちの信頼にこたえる長老もいれば、聖書の原則を考慮しないで、自分たちの権威を乱用したり、間違った判断を下す長老たちが存在するというのが現実であると思います。


(5)新たに引っ越したアパートであからさまに注目されていたこと


 原水事件の起こった私の住んでいたマンションは、とても快適だったのですが、そのマンションでストーカーの問題が起きました。そのため、その近隣の賃料の少し安いアパートに引っ越しました。それで会衆は、原水事件の起きた隣の会衆に移りました。アパートの部屋は狭くなりましたが、賃料が安くなったので、わたしは経済的に少し楽になりました。


 新たに引っ越したアパートでは、わたしのアパートの部屋の窓に向かって近くにあからさまにカメラが設置されました。それは、はっきりと見えました。統治体の依頼でそのことが行われたのか、あるいは統治体の依頼で以前のマンションで盗撮をしていた一般の業者が自主的にそうしたのかもしれません。分かりません。それで、わたしは何らかの形で、ネットにのっていたのではないかと思います。


 でも、たぶんわたしに良くしようと考えておられた統治体の兄弟たちも数少なくてもおられたのではないかと思います。それが、出版物に書かれていることや、周りで起きることから感じました。引っ越したその会衆にその当時おられた既婚者の長老の一人は、そのような形でわたしが注目されていたことをご存知だったように思いました。


 いずれにしても、統治体の兄弟たちは、様子を見てみようと考えておられたのかもしれません。また、次に詳細に検討したいと思いますが、統治体の兄弟たちは、エホバの証人の組織だけが、唯一の神の組織だと考えておられたので、わたしが真正の油そそがれたクリスチャンであれば、組織の中で、頭角を表わしてくるのかもしれないと考えておられたのではないかと思います。


 そして、もし、真正な油そそがれたクリスチャンでなければ、組織から排斥されることになるのだろうと考えて、様子を見ていこうと考えたのかもしれません。このことは、また、別の機会に考えてみます。


 わたしは近隣の別の会衆で、以前の会衆のことに一切触れないで新生活を始めました。わたしは以前の会衆で起きたことを一切説明したり、訴えようとも思いませんでした。新たに交わり始めた会衆の長老たちは、親切で常識的な長老たちに見えましたが、わたしの話をまったくまともに聞いていただけない可能性も高かったからです。


 確かに、七つの星が大群衆の長老ではなく、油そそがれたクリスチャン男女を表わしているというわたしの聖書の理解は、統治体と異なるものだったので、そこの長老たちにも受け入れられない可能性があったと思います。(啓示1:20)


 わたしは以前の会衆で起きたことを話しませんでしたし、わたしに関して否定的な会衆の申し送りの書類が後で届いたはずですか、ある長老とは普通に話すことができました。


(6)七つの星の実体は大群衆の長老ではなく油そそがれたクリスチャン男女であるという事は受け入れられていなかった 


 また、実際わたしはエホバの証人であった間には、自分がエホバの証人の会衆の中で経験したそうした不当な扱いを話しませんでした。今、排斥されて十年以上経ちますが、初めて説明しています。


 また、実際、大群衆の長老のすることは、何でもイエスの導きで行われることで、自動的奇跡的に正しいことになると考えられていたので、たとえ説明しても理解されなかったと思います。


 そして、今でもエホバの証人の間では、イエスの右手の上にいる七つの星は大群衆の長老であるとみなされていると思います。(啓示1:20)わたしはエホバの証人の出版物の中で、七つの星は聖霊で油そそがれたクリスチャン男女であるという説明は見たことがありません。


(7)誰が偽預言者とみなされるか


 ものみの塔20161月の記事の中には、『サタンは,「偽預言者」を起こし,「できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとして」いるのです。(マタ 24:24)』という 記載があります。ですから、新たに表象物にあずかり始めたクリスチャンがサタンによる影響を受けた「偽預言者」であることが示唆されています。 


 わたしは聖書の預言の解釈についてエホバの証人とは異なったことを主張しています。でも、わたしが偽預言者であることはまだ、証明されていません。なぜなら、わたしはダニエル書や啓示の書の預言が今から先将来にわたって成就していくと解釈しているからです。また、わたしはおおむね聖書預言のあらすじは理解しているとは考えていますが、まだ聖書の預言全体を解釈し終えていません。


 一方、エホバの証人の統治体は、初代の会長CTラッセル兄弟の頃から、すでに世の終わりと千年統治の始まりを何度も予告されました。しかし、統治体の兄弟たちの予告は何度もはずれました。それで、わたしはエホバの証人の統治体が、エホバ神への信仰に関して誠実だと考えたいと思っていますが、現状は、エホバの証人の統治体の方がエホバ神から「偽預言者」とみなされかねない状況になっていると思います。

 



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ラッセル兄弟は聖書の真理をかなり回復させたが世の終わりに関する預言に関しては偽預言者となった




 それで、エホバの証人の統治体の新たに表象物にあずかり始めた人に対する否定的な見方が当時、その原水事件の起きた会衆の大群衆の長老たちに影響して、証人や証拠さえあったわたしの証言に疑いを抱かせたのではないかと思います。



 

 それで、わたしを正規開拓者から降ろした長老たちは、わたしの油そそがれた姉妹であるという立場を疑問視して、わたしが、表象物にあずかるのを妨げる、あるいはできるだけ他の人の目に触れないところで表象物にあずかるようにされたと思います。


 しかしながら、原水事件は、今からおよそ17年前になると思います。それで、関係者の長老たちや姉妹が今起きたことを正直に認めるかどうかは疑わしいです。でも、彼らが否定しても、わたしは本当のことを話しています。



 わたしは必ずしもエホバの証人の組織の反対者ではなく、良いところは認め、間違っていることははっきり指摘するという立場です。証人たちの神エホバと聖書に対する信仰は間違っていないと思いますし、彼らが、神の律法を守る努力や宣教を忠実に行う努力を払っていることを高く評価しています。


 わたしは、証人の組織について偽りを語って自分がエホバ神に非とされたいと思っていませんし、エホバ神と聖書に対する信頼を損なおうとも思っていないからです。それで、わたしがもし真正な油そそがれたクリスチャンとして最後まで忠実を保ち、イエスの是認を保つことになれば、原水事件の関係者に神の是認と永遠の命はないと思います。


(8)個人的に中小都市から東京に引っ越す


 わたしが原水事件の後に引っ越した会衆の成員はとてもまじめで良心的で慎み深い成員が多かったので、そこにとどまっていたら良かったかもしれないです。でも、そのアパートでも、詳細は述べませんが、問題が起こりました。簡単に言うと、引き続きストーカーの問題がそこでも起きました。


 そのストーカーの問題があり、また、中小都市や田舎にしか住んだことがなかったので、都会のビジネス街の奉仕をしてみたいという動機もありました。まだ気持ちが若くて新しいことにチャレンジしたいという気持ちがありました。


 わたしが英会話の講師の仕事をしていた公共施設の男性職員が、わたしがその地域で英会話の講師としてうまくやっていけているのは、例外的な事で、他ではそうはいかないと言われました。その男性職員の言う通りでした。経済的な観点だけから見れば、まだ、その中小都市にとどまって、英語力の研さんに励んでいれば良かったです。


 その中小都市では、英会話の生徒が割と多く、英会話の講師としてはうまくやっていました。そして、生徒さんの男女を組織して、一緒にニューヨークに旅行して、メトロボリタン美術館や国連を尋ねたり、自由の女神像を周遊する船に乗ったり、エホバの証人の本部を訪問したりしました。それは良い思い出になりました。生徒さんが割といたその地域にとどまって英語の研さんに励んでいた方が経済的には賢明でした。


 わたしは東京に引っ越しました。そして、東京で、エホバの証人の会衆に交わりながら、私は聖書朗読を毎日続けました。希望通り、ビジネス街の奉仕ができました。そして、わたしは東京で聖書の預言の解釈について新しい啓発をエホバ神から受けることになりました。


 それは、先回の記事イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(29)わたしヨハネは大いなるバビロンが米国であることにどのようにして気づいたかで述べた通りです。