ヨハネのブログー聖書の預言と希望

主に私たちの将来に希望を与える聖書の預言を説明しています

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(33)イエスの兄弟たちは力ある業を行っていても不法を避けなければならない

(1)真正な油そそがれたクリスチャンには不法を避けていることが求められる


 エホバ神の真の崇拝者である真正な油そそがれたクリスチャンの場合は、そのクリスチャンが「不法」つまり、「罪」を退けていることが必要です。(ヨハネ第一3:4)


 現代は、聖書に対する信仰や信頼が弱くなっています。また、聖書の神とその律法を無視して、自由に生きたいと願う人も数多くいます。また、聖書が述べる事、聖書の預言が気に入らないという人も多いです。ですから、人々は聖書が広められることを気に入らないかもしれません。しかし、一般の人々に不人気であったとしても、不法、つまり罪を退けることを唱道することが求められます。


 つまり、淫行、殺人、偶像崇拝、心霊術、悪魔崇拝、盗み、飲酒などの神の律法に違反する業を断固として退ける努力を払うことが必要です。(啓示21:8)また、そのことが神から求められていることを人々に教えることが必要です。


 ある人がエホバ神の選ばれた者であり、イエスの霊的な兄弟であると主張していても、その人が婚前交渉、不倫、同性愛などの性の不道徳や殺人や流血、また、偶像崇拝を行っていれば、その人は、エホバ神から是認されている油そそがれたクリスチャンではありません。聖書は「偽キリスト」が存在すると述べています。(マタイ24:24新世界訳改訂版)

 

 

不倫などの性の不道徳などの罪を犯すならその油そそがれた者はイエスから退けられてしまう

 



 最初に述べたように、わたしヨハネは、神の律法に違反することは避けるように努力を払っています。エホバ神とイエス・キリストに是認されるように性の不道徳や偶像崇拝、心霊術、悪魔崇拝などの神の律法違反に陥らないように努力を払っています。


 聖書の預言は、エホバ神の律法と結びついています。世界で、災いとなるある出来事が起きることになる原因のひとつは、政治指導者たちや宗教指導者たちや一般の人々が、神の律法に違反するために起きます。ですから、聖書中にある否定的な災いは、神の律法「違犯」のために起きます。(ダニエル8:13)そのためにも、エホバ神に是認される聖霊で油そそがれたクリスチャンは神の律法の遵守が求められます。



(6)強力な行いやしるしがイエスの是認を証明するか


 油そそがれたクリスチャンが行なう強力な行いやしるしには、さまざまな種類のものがあると思います。それは、はなばなしいもので、人々の注意を引くものかもしれません。そして、聖書によるとそれは、多くの人々を死に至らせたり、あたかも天から火を降らせたりというような種類の人々の注目を集める出来事かもしれません。(啓示13:11-13)


 しかし、多くの人々の注目を集めること自体が、エホバ神の是認を証明しません。キリスト教会が是認している奇跡の中には、非常に大勢の人が目撃した奇跡などもあります。カトリック教会が公認しているようなファティマの聖母の奇跡などのように大勢の人が見た奇跡もあります。けれども、こうした奇跡は大勢の人々に目撃されたとしても、それ自体が聖書の神の後ろ盾を証明するものとはなりません。


 さらに、聖書は悪魔が天から火を下らせることができることを示しています。(ヨブ1:16)子羊のような二本の角のある野獣は、「大きな奇跡を行い,人類の前で火を天から地に降らせることさえする。」と預言されています。(啓示13:13)しかし、 その野獣は、「偽預言者」と呼ばれます。(啓示19:20)


  ですから、その業が人目を引くものであっても、人々の命を奪ったり、世界の環境を破壊したりというものであれば、それは、聖書の神の是認を得ているとは言えません。


 しかしながら、それらの油そそがれたクリスチャンによって行われる行いが人々を助けるものであったり、信仰の仲間や一般の人々に対する愛や親切を表わすものである時、それは確かに、それがイエスの是認を得ていることを示すものにはなり得ます。イエスは、ご自分の弟子たちに、仲間同士愛し合うように、また、他のすべての人に良いことを行うことを奨励されたからです。(ヨハネ18:34。テサロニケ第一5:15)


 そして、良い木か悪い木であるかどうかは、その生じる実によって見分けられるとイエスは言われました。(マタイ7:17,18)ですから、ある油そそがれたクリスチャン、あるいはあるキリスト教の組織が行なっていることが、愛や親切や平和を産み出している時、それは、エホバ神とイエスの是認を得ていることを示すかもしれません。


 しかしながら、そうした良い行いをする時に、上記で指摘したような神の律法違反を伴うことのないように努力する必要があります。例え、良い行いや「多くの強力な行い」をしていても、「不法」を働いているならば、否認される場合があると言われました。(マタイ7:21-23)ですから、良い行いをしている人たちが、神の律法に「故意に」繰り返し違反しているならば、エホバ神の是認が得られているとは言えません。(ヘブライ10:16) 


 でも、わたしたち人間は弱く不完全な罪人なので、誰もが罪を犯します。(ローマ3:23)故意に繰り返し行われる罪でない罪は、イエスの贖いの犠牲に頼って、エホバ神に罪の許しをお願いし、神とイエス・キリストに是認された状態を保つ必要があります。


 ですから、この記事では、奇跡は真正な油そそがれたクリスチャンであることを証明するものとはならないということを説明しました。ある個人、あるいはキリスト教のグループが行なう強力な行いに関しては、識別力を働かせて、判断する必要があります。


 その奇跡に見える業や力ある業が、まことの神とイエス・キリストの是認を得ているかどうかは、さまざまな条件を満たしている必要があります。その業が単に「強力な行い」であるだけでなく神の律法に調和して行われていることが求められています。