豊臣秀吉はどのような宗教観を持っていたか・迫害をしていなかった時状況はどうだったか
日本は、徳川時代や、明治時代、大正時代、昭和時代に神のみ前に大きな罪を犯してきました。日本では戦国時代を終わらせて天下統一をした豊臣秀吉は、1587年にはバテレン追放令を出して、宣教師の国外退去命令とキリスト教宣教の制限を課しました。
後になって、秀吉はヨーロッパからのキリスト教の宣教者たちを含めクリスチャンたちに残酷な迫害を加え、殺害しました。しかし、今回の記事は、もともと豊臣秀吉が神道と仏教を重んじる宗教観を持っていたことを説明します。
そして、バテレン追放令を出す頃は、事実上、キリスト教の宣教を大目に見ていたことを説明します。表立った迫害はありませんでした。そして、その時に、秀吉の状況がどうであったかも調べたことを説明したいと思います。
そのような日本の歴史は今日に至るまで影響しているでしょう。日本の過去の歴史、とりわけ豊臣秀吉の時代を振り返ってみましょう。
(1)日本人の宗教の歴史的な背景
日本は、伝統的に中国や東アジア発の仏教の情報から長い間影響されてきました。日本では、6世紀の終わりごろから7世紀初めに、推古天皇のもとにあって聖徳太子が積極的に、仏教を取り入れました。そのように昔から、日本は神道と仏教が並行して行われていました。
キリスト教が日本に伝わるのは遅く、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが1549年に薩摩の鹿児島に来てキリスト教を伝えました。
豊臣秀吉は元来、主君の織田信長の政策を継承し、1586年には大坂城でイエズス会宣教師と会って、イエズス会に対して布教の許可証を発給しました。 豊臣秀吉は、1591年に東北地方の奥羽を平定して天下を統一し、戦国時代を終わらせたとされています。
しかし、秀吉は、九州遠征の途上、現在の福岡博多で、住民の強制的なキリスト教への改宗や神社仏閣の破壊、さらにポルトガル人により日本人を奴隷として売買するなどといったことが行われていたこと、また長崎がイエズス会領となっていることなどを聞きました。
それで、1587年に秀吉は通商の責任者とイエズス会の責任者を呼び出して、福岡の博多においてバテレン追放令を発布しました。バテレンとは、「神父」の意味です。それは、宣教師の国外退去命令とキリスト教宣教の制限を表明するものでした。
Hideyoshi Edict of expulsion of the Christian Padres September 18, 1587
秀吉は1587年にキリスト教の宣教者追放命令を出した
昭和8年に伊勢神宮の神宮文庫からバテレン追放令とされる文書と調和する日付の一日前の11か条の覚書が発見されたそうです。
その覚書の大意としては、大名に領地を治めさせているが、寺や百姓たちに、キリスト教徒になることを強制するのは道理に合わない、大名がキリスト教になることは、秀吉の許可を得れば許可するし、領土が狭いなら、大名は自由にキリスト教徒になっていいとしていました。そして、下の身分の者がキリスト教徒になることは問題にならないとしていました。でも、その覚書は、身売買は禁ずるとしていました。
ですから、この覚書の段階では、事実上、キリスト教の強制改宗は容認しないものの、大名や身分の下の者が自由にキリスト教徒になっていいとする、信仰の自由を認めたものでした。
でも、実際は、イエズス会は日本人を奴隷として売買することを禁止するようにポルトガルに呼びかけていましたし、すでに、1571年にポルトガル国王は奴隷交易がカトリック教会への改宗に悪影響を及ぼすことを懸念して日本人の奴隷交易の中止を命令していたそうです。そのことを秀吉は知らなかったかもしれません。
そして、1587年の覚書の次の日付のバテレン追放令の第一条では、「日本は自らの神々によって護られている国であるのに、キリスト教の国から邪法をさずけることは、まったくもってけしからんことである。」と書いています。
ですから、秀吉は、日本は自らの神々によって守られている国であって、キリスト教を邪法と言っています。ですから、秀吉は、この段階で、神道の古事記の神話の記述、すなわち、イザナギ、イザナミの夫婦の神が日本の国土を造り、イザナギが穢れを清めた時に、日本を守る神々が生まれたという記述を信じていたということが分かります。
またその時に、秀吉は、大名は天下からの法律を守るべきだと言っていました。その方針は、聖書とも調和していました。聖書は、神の律法に反しない限り、上位の権威に服するようにと指示していたのですから、それに関する何らかの法律が制定されていたのであれば、大名が寺社を破壊するのは間違っていたでしょう。(ローマ13:1)
また、第2条では、「宣教師は・・・日本の仏法を破っている。日本にキリスト教宣教師を置いておくことはできない」と述べ宣教師が20日間のうちに、国に帰るようにと指示しています。
ですから、秀吉は、日本の仏法、すなわち仏教も擁護していました。ですから、この時代から、神道と仏教の2つを擁護するというあいまいな姿勢が日本に根付いていたことが分かります。しかし、秀吉は、貿易のために外国人が行き来をすることは認めていました。
それで、豊臣秀吉は、完全に状況を把握していたとは言いがたいかもしれませんが、状況を調べてその状況に反応したということはできます。しかし、しばらくの間、キリスト教の宣教師は、禁令下にもかかわらず、その活動は黙認されていました。
1583年、秀吉は、大坂本願寺の跡地に大阪城を築きました。島津氏の問題を訴えるために大坂城を訪れた豊後のキリシタン大名・大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚いたということです。
そして、この後、秀吉は島津氏と戦うために、 九州に遠征をすることになり、そこで、キリシタン大名の状況を知り、バテレン追放令を出すことになりました。
秀吉は、1587年にバテレン追放令を出しました。しかし、秀吉はその時には、ある意味、キリスト教の信仰の自由を大目にみており、キリスト教徒を表立って迫害はしていませんでした。
秀吉は、1588年、平安京に朝廷の臣下として、豊臣氏の本邸を構え「聚楽第」と名付けました。1588年4月14日には聚楽第に後陽成天皇を迎え華々しくもてなしました。そして、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせました。そして、他の有力大名も完全に秀吉に服従する意を表しました。秀吉は、全国に法律を施行しました。
後陽成天皇は秀吉の本宅に招かれもてなしを受けた
イエズス会の宣教師たちは、この1588年の段階で、「この暴君はいとも強大化し、全日本の比類ない絶対君主となった。」と述べています。「この五百年もの間に日本の天下をとった諸侯がさまざま出たが、誰一人この完璧な支配に至った者はいなかったし、この暴君がかち得たほどの権力を握った者もいなかった。」と記しています
秀吉は自分の本宅に天皇を招いてもてなし権勢を誇った
さらに、豊臣が天皇を敬意を払って、自分に権威づけをしたこと、天皇が豊臣家を認め、それによって、他の大名が、豊臣家にある程度敬意を払ったことは、当時でさえも、天皇は武士よりも格が上だとみなされて権威を持っていたことが分かります。そして、秀吉は、神道の天皇を重んじることが自分にとって当然、有利であると考えたことでしょう。
また、秀吉や諸侯の軍人たちは、古事記などの神話を信じていて、日本が天皇の先祖の神によって造られたということや、天皇が神の子孫であるという記述を信じていたことが分かります。今日の日本の状況とあまり差がないのかもしれません。
(4)秀吉はスペインの遭難船の事件をきっかけにしてキリスト教に対して態度を硬化させる
1596には、今の高知・土佐国にスペインの船サンフェリペ号が漂着しました。その船には、七名の司祭が乗り組んでいたそうです。その時、乗組員は、船の修繕許可と身柄の保全を求めて使者に贈り物を持たせて秀吉の元に派遣しました。
秀吉は奉行を差し向けました。秀吉は、船は海賊に違いなく、ペルー、メキシコ、フィリピンを武力制圧したように日本も武力制圧を行うため、測量に来たに違いないこと、このことは都にいるポルトガル人ほか数名に聞いた という文書を奉行に持たせていました。
奉行は、乗組員の持ち物を没収してしまいました。そして、船の乗組員が、奉行に世界地図を見せて、スペインの欧州、南北アメリカ、フィリピンにまたがる領土を示したようです。それで、奉行が、どうしてスペインはこのように広大な領土を持つに至ったのかを尋ねました。
すると、乗組員は、スペインの王は、宣教師を世界中に派遣して、布教とともに征服することを事業としていると言いました。まず、スペインは、その土地の民を教化して、その後信徒を従わせて、兵力をもってその領土を加えてきたと説明したようです。これは、日本側の記録には、ありませんが、スペイン側の記録にあります。
成員がスペインなどのヨーロッパ諸国がキリスト教の布教と武力制圧をして国土を広げる政策をタイアップしていたことを認めてしまい、ポルトガル人の話を確証することになりました。ですから、秀吉が危機感を抱いて、外国に門戸を閉ざす政策をとったことにも、もっともな反応であったかもしれません。
しかしながら、そのスペイン船は海賊ではなかったので、それは秀吉の不当な判断でした。そして、船員が話したことは実情を話していたかもしれませんが、誠実な動機で、神に仕えていたキリスト教徒に迫害と苦難をもたらすことになりました。
これがきっかけとなって、豊臣秀吉によるキリスト教徒への迫害である日本二十六聖人殉教が起きました。