ヨハネのブログー聖書の預言と希望

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どのように太平洋戦争が始まったのかについての昭和天皇の考察-昭和天皇拝謁記

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昭和天皇はご自分のもとで行われた日中戦争と太平洋戦争に深い悔恨と反省の念を抱いておられた



 昭和天皇は戦後、ご自分のもとで日中戦争と太平洋戦争が行なわれたことに関して深い悔恨と反省の念を抱いておられました。そのことは、戦後に宮内庁長官昭和天皇と会話した記録である昭和天皇拝謁記から分かります。

 

 

()昭和天皇は本意は平和を望んでおられたが太平洋戦争の開始をとめることができなかった

   昭和27年5月28日の拝謁では「東條は政治上の大きな見通しを誤ったといふ点はあったかも知れぬ」としたうえで、「強過ぎて部下がいふ事をきかなくなった程下剋上的の勢が強く、あの場合若し(もし)戦争にならぬようにすれば内乱を起した事になったかも知れず、又東条の辞職の頃ハあのまゝ居れば殺されたかも知れない。兎に角(とにかく)負け惜しみをいふ様だが、今回の戦争ハあゝ一部の者の意見が大勢を制して了(しま)つた上は、どうも避けられなかつたのではなかつたかしら」と語られたと記されています
 

 建前は御前会議で、天皇が戦争を開始し、終了することに関して、最終決定をすることになってはいました。しかし、実際には、大本営会議や御前会議では、天皇はほとんど発言をされなかったようです。さらに、実際の決定は御前会議の後の閣議で決定されました。それで、日米開戦に関する御前会議では、昭和天皇が和平解決を第一に望まれることを発言されましたが、数日後の近衛内閣の閣議で、天皇の希望は退けられ、日米開戦が決定されたということです。

 

 

 それで、昭和天皇の権力がお飾りの部分があったことの背景を考えてみると、父親の大正天皇が脳膜炎を患っておられて、寝たきりの時が多かったので、昭和天皇が若くして摂生になつておられました。それで、大正天皇の時から、政治上の実務は、内閣が行なうということが慣例になっていて、昭和天皇も実際の発言や行動は、周囲の実務家任せであったという状況があったかもしれません。

 

 

 さらに、昭和天皇は、近衛文麿に三度組閣をさせました。しかしながら、近衛文麿は、最初は日中戦争に関して、不拡大方針をとりましたが、実際は、中国の軍部の行動を追認し、日米開戦を推進する立場でした。さらに、昭和天皇は、東條英機が軍部を抑えられると考えて、東條に組閣をさせました。しかし、東條英機も開戦論者でした。



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昭和天皇は戦争支持者の近衛文麿に三度組閣させたのは間違っていた





 それで、確かに昭和天皇は、平和を望まれて、そのために努力も行われたのですが、戦争推進論者の近衛文麿東条英機に組閣させたのは、間違いであったと思います。

 

 

 しかし、昭和天皇は建前上、最高権力者であったので、平和を願っておられた昭和天皇がもっと断固とした態度をとっておられたなら、日米開戦を防ぐか、あるいは太平洋戦争の終結をもっと早くすることができたのではないかと思います。

 

 

 そして、昭和天皇が、もっと平和のための断固とした政治的な方策をとっておられたならば、日本全土が焦土となり、原爆をふたつも落とされる事態も防げた可能性もあったと思います。実際、昭和天皇は、拝謁記の中で、日中戦争がはじまった初期の時点で、ご自分がもっと断固とした行動をとらなかったことを非常に悔やんだと語っておられます。

 

 

 また、もうひとつの点として、日中戦争の初期、また、太平洋戦争の初期に日本は、戦闘に勝利を収めていました。しかし、確かに、戦争は、勝利を収めればいいというものではありません。戦争をすることは殺人をすることを意味しています。無差別殺人は基本的に悪です。

 




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日清戦争-戦争はたとえ勝利しても殺人であり悪です



 

 その点で、昭和天皇は、東條英機が見通しを誤ったと語っておられますが、昭和天皇ご自身も、最初は、日本が無惨な敗北に至るとはお考えにならず、東條英機のように勝利をおさめていればいいという考え方をされていた部分があったのではないかと思います。

 

 

(2)太平洋戦争は近衛文麿が始めたという拝謁記の昭和天皇の発言について考える

 

 

 さらに、昭和27年4月5日の拝謁では、「太平洋戦争ハ近衛が始めたといつてよいよ」とも述べ、られ、日米開戦を防げなかった責任は開戦時の総理大臣だった東條英機の前任の近衛文麿にあるという認識を示されたということです

 

 

 確かに、昭和天皇はどのように日本が日中戦争・太平洋戦争に動いていったかを一番ご存知だったはずです。昭和天皇は、東條英機ではなく、近衛文麿に、太平洋戦争を始めた責任があると言っておられますが、確かに戦前の日本の歴史の流れを見てみると日中戦争を始めて、太平洋戦争を始める国家機運を作るのに近衛は中心的な役割を果たしたということが分かります。

 

 

 以下は、近衛文麿の項目のWikiの記事を簡単にまとめたものです。近衛文麿の内閣の時に、日本が日中戦争を始めました。彼は、最初、45歳という若さで総理大臣になりました。彼は、昭和天皇に任命され、三回、組閣をしました。そして、中国で関東軍が軍事行動を行うと、口では事変の不拡大方針を唱えましたが、現地で停戦工作が行われているにもかかかわらず、中国への派兵を決定しました。さらに、関東軍の軍事行動のために、巨額の軍事予算を政府として拠出の決定をしました。

 

 

 それで、近衛が本当に中国での不拡大方針を貫きたいと望むなら、軍事費を予算案から削れば、軍部は中国で日中戦争を続行できませんでした。しかし、確かに、中国で軍部が独走していたのですが、拡大作戦が可能な軍事費を閣議で決定して帝国議会で可決させました。そして近衛は、軍に同調してナチスばりの政権を樹立したい意向がありました。園遊会で彼はヒトラーの仮装をしたそうです。近衛は、ヒットラーのような独裁政治を行いたいという意向があったと察せられます。

 

 

 そして、彼の第一次内閣のもとで、不拡大方針を破棄して、日中戦争は全面戦争に拡大しました。19381には、御前会議ドイツの仲介による講和を求める方針が決定されましたが、近衞はその三日後には、和平交渉の打ち切りを閣議決定しました。 4月に国家総動員法公布して経済の戦時体制を導入しました。 近衛が作った戦時体制は、ソ連の経済体制やヒットラー率いるナチス党をみならったものでした。

 

 

 そして、第一次近衛内閣の次の内閣の時、ドイツがポーランドに侵攻して、第二次世界大戦が始まりましたこの時、日本は、欧州で破竹の進撃を続けるドイツが勝利すると考えていました。近衛は、ソ連共産党ナチス党をモデルにした独裁政党の結成を目指しました。

 

 

 そして、戦争機運の高まりを憂慮した昭和天皇が近衛以外の海軍の良識派に組閣させましたが、陸軍が好意を示さず、その内閣は総辞職をせざるを得ませんでした。変わって、昭和天皇は二度目に近衛に組閣を命じました。

 

                                           

 近衛は、2次近衛内閣を組織した後、1940年7に「大東亜共栄圏の確立をはかる」構想を発表しました。日本帝国をアジアに打ち立てようとしていたのです。そして、全政党を自主的に解散させ、日本に政党が存在しなくなりました。そして、1940年に、三国軍事同盟を締結しました。 それで、近衛は同盟国のドイツに信頼しており、勝利をえると考えていました。



 19411には、近衛は対米戦決意を明らかにしました。さらに近衛首相らは、対米戦気運を醸成するめに、大政翼賛会対米戦に備える国民運動を組織化することを決めました。

 

 

  それで、日本では、太平洋戦争前に中国で軍部が独走していました。しかし、近衛内閣も日本軍が勝利を収めている間は、それを追認し、支持し奨励し、日本を中心としたアジア支配を念頭において事を進めました。そして、昭和天皇が言われたように、確かに対米開戦の戦争機運を国家的に醸成していったのは、近衛内閣の時でした。東條内閣の時には、もうその路線がひかれていたというのが事実であったと言えます。

 

 

 そして、昭和天皇はある程度、戦争の早期解決を図られましたが、軍部によって、その努力はくじかれました。軍部は政府が和平のために派遣しようとした特使を捕まえて使命を果たせないようにもしました。


  近衛文麿は、戦後、戦争責任を問われてA級戦犯として極東軍事裁判で裁かれることになりました。そのため、近衛は戦犯として裁かれることに耐えられず、最後には54歳の若さで青酸カリの服毒自殺を遂げました。




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近衛はA級戦犯として裁かれることに耐えられず54歳の若さで服毒自殺を遂げた

 

 

(3)当時の誰を総理大臣として据えるかという点での昭和天皇の選択の間違い

 

 

  確かに、天皇制は、ある意味、お飾りにすぎず、戦争を推進する軍部が実権を握っている部分があり、さらに、実務は、内閣が行なっていました。内閣は、日本軍が勝利を収めている間は、軍部の行動を追認し、推進したという構図があったと思います。軍部は内閣の和平のための努力にも反対しました。また、近衛内閣は、ドイツのナチス党やソ連共産党の支配のような天皇を中心とした独裁政治を目指しました。

 

 

 どうして、その当時の陸軍や海軍は暴走したのでしょうか。明治天皇大正天皇の支配のもとで、日本は日清戦争日露戦争で勝利しました。また、大正天皇のもとでも、日本は戦勝国の側に立っていました。そのために、軍部は、ごう慢になり、自分たちの軍事力に頼るようになりました。自国は神国であると信じていたでしょう。

 

 

 それで、天皇を崇拝して、そのもとで日本国の国土と影響力を拡大しようと考え方を持っていたのでしょう。それで、自国が敗北するというような現実的な考え方をするのが大変難しくなっていました。

 

 

 それで、軍部の独走があったのですが、やはりその当時、昭和天皇は最高指導者だったのですから、首相を選ぶ点で、もっと賢明であれば、日本の事態をもっと深刻なものにならないようにできたのではないかと思います。

 

 

 昭和261217日の拝謁で昭和天皇ご自身、このように言われています。「終戦で戦争を止める位なら宣戦前か或(あるい)はもつと早く止(や)める事が出来なかつたかといふやうな疑を退位論者でなくとも疑問を持つと思ふし、又首相をかへる事ハ大権で出来る事故(ことゆえ)、なぜしなかつたかと疑ふ向きもあると思ふ」と述べられたと言うことです。

 

 

 田島長官が「それは勿論(もちろん)あると思ひます」と述べると、昭和天皇は「いやそうだらうと思ふが事の実際としてハ下剋上でとても出来るものではなかつた」と答えたとのことです。

 

 

 しかしながら、昭和天皇は、平和を望んでおられたのですから、日中戦争を支持し、基本的に日米開戦論者であった近衛内閣を三度組閣させたのは間違いでした。そのために、日中戦争が始まり、太平洋戦争が始まってしまう体制づくりに力を貸してしまいました。また、日中戦争と日米戦争両方の推進論者であった東条英機に組閣させたのも致命的な間違いでした。



  だれもが人間であれば、判断の誤りを避けられないのです。