ヨハネのブログー聖書の預言と希望

主に私たちの将来に希望を与える聖書の預言を説明しています

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(16-2)会衆の二人の証言が関係が食い違う場合にものみの塔誌で勧められていた事と聖書が勧める対処策

 

  この(16-1)では、わたしが以前交わっていた会衆で、長老たちの前で、わたしと他の姉妹の証言が食い違ったという出来事を話しました。そのために、わたしは偽証したとされ、長年、補助開拓者や正規開拓者として奉仕することが認められませんでした。

 

 今回は、ふたりの証言が食い違う場合の、対処方法としてエホバの証人の出版物に載せられていたこと、さらに、わたしがそのような問題の場合、どのようにするように聖書が勧めていると考えているかを説明したいと思います。

 

 

(1)会衆内で二人の人の証言が食い違う場合のものみの塔誌に出ていた対処の仕方


  ずっと後ですが、そのような状況がある場合に、どのように対応すべきかということについての指針がものみの塔誌にあるのを見つけました。それが、今回ものみの塔ライブラリーで見つけようとしますが、たぶんわたしの検索語句が違っているためだと思うのですが、ものみの塔誌のどこにそうした記事があったのか示すことができません。


 とにかく、その記事の中で触れられていたことは、会衆内で、二人の人の証言が食い違う場合の対応方法に言及されていました。その場合、どちらが正しいことを言っているかは分からないかもしれません。その場合、両者が偽証をする可能性があるという公平な見方で裁きをしなければならないということが書かれていました。


 確かに、一方だけを偽証をしたと決めつけるならば、片方だけに差別的に不公正な誤った裁きをしてしまうことになります。そして、後になってから、以上のようにものみの塔誌に書かれていることに気づいたのですが、わたしは立場もない伝道者でしたし、会衆も違っていたので、そのことを長老たちに指摘する事もありませんでした。


 その後、わたしは結局大いなるバビロンの実体に関する解釈の違いで、証人の組織から排斥されたので、そのことについて長老たちに言う機会も全くありませんでした。


 以下は、その記事に書かれていたことではありませんが、昔は、ペテロがアナニヤとサッピラの偽証を奇跡的に見抜きました。しかし、現代では、そうした聖霊の奇跡的な導きはなくなっているので、普通、長老たちが誰が偽証をしているかということを見抜くことができなくなっています。(コリント第一13:8)


 確かに、会衆内の立場や長老と良い関係があるという理由で、えこひいきをしてある人の証言だけを無条件に受け入れるというのでは、正しい裁きはできないことになります。


 実際、その独身の正規開拓者の姉妹は、たぶんその時、主宰監督だったと思うんですが、その既婚者の兄弟のお宅に泊まりに行くくらい親しくしておられました。ですから、その姉妹の言葉に全幅の信頼を寄せておられたんだと思います。でも、自分が親しい人だけを信頼するならば、判断を間違い得ます。



  それで、そうした問題が起きた場合、とりわけ、証人がいない場合、エホバの御手に任せるしかない場合があるのではないかと思います。誰かふたりが何かについて異なる証言する場合、その信頼度はどちらも同じだと判断するのが妥当なのではないかと思います。


 わたしは後になって、再び、会衆の姉妹の偽証のために、会衆で正規開拓者を降ろされるという経験をすることになりました。しかも、次の時には、わたしの方には他の人の証言もあったのですが。


(2)人間関係が壊れた場合の聖書の勧めている対処の仕方


 しかし、その問題は、何かの重大な神の律法違反ではなく、主に人間関係が壊れたという問題に過ぎなかったと思います。それで、長老たちは別の扱い方もできたのではないかと思います。パウロは、ユウオデアとスントケの間に不和の問題が生じた時に、どちらかに肩入れするのではなく、両者に「同じ持ってください」仲良くするよう勧めました。(フィリピ4:2,3新世界訳改訂版)長老たちもそのような方向に持っていくだけでも良かったのではないかと思います。


 わたしは、その姉妹が奉仕や注解に熱心だったので、好意を持っていて、その姉妹にわたしのお気に入りのワンピースをプレゼントをしました。そのワンピースはその姉妹にとてもお似合いでした。それで、わたしはその正規開拓者の姉妹と仲良くしたいという願いもわりと持っていました。でも、私はその姉妹の若い兄弟と私に対するひどくみ下げた言葉にカチンときました。 


 でも、以下のような状況ももしかするとあるかもしれません。わたしは若い時には記憶力が今よりも良かったですが、今は、少し前にしたことを忘れることがあったり、勘違いをすることが多くなっています。ですから、会衆内で二人の人の証言が食い違うという問題が起こる場合、記憶忘れや記憶違いが原因になる場合もあります。


 そして、そのことは若い人でも起こることがあると思います。それで、その姉妹は、若くても、衝動でつい語った言葉を忘れたということもあったかもしれません。


       さらに、私たちは皆後で後悔するような言葉を語ることがあります。伝道の書には次のような言葉があります。「人々が話す言葉一つ一つを心に留めてはならない。さもないと,あなたは,召し使いがあなたに不幸が生じることを願うのを聞くだろう。あなたは,自分が何度も,他の人たちに不幸が生じることを願ったのをよく知っている。」(伝道の書7:21,22新世界訳改訂版)



 それで聖書は人間は、実際に口であるいは心の中で他の人について消極的なこと、批判的なことを言うことがあると認めています。それで、私たちは、深く考えないで、他の人の悪口を言うことがあります。そうした言葉一つ一つを問題にしないようにと聖書は助言をしています。


 ですから、私も、彼女の言葉を問題にしないようにもできました。しかし、わたしはその時は、そうしませんでした。それで、聖書は他の人に対する悪口をあまり重大視しないように言っているので、やはり、長老たちはそうした言葉を言った言わないということを重大問題にするのではなく、仲良くするように指導をすれば良かったと思います。



 聖書はさらにわたしたちは、「舌を従わせることは」「できません。」「舌は手に負えない有害なもので,死をもたらす毒で満ちています 」と述べています。(ヤコブ3:8新世界訳改訂版)私たちは誰も舌を従わせることができないので、後で後悔することを言います。そして、わたしも自分が行ったことを訂正したいと思うことがあり、実際わたしも後で自分の言葉を訂正して謝罪することもあります。


 それで、たぶん、長老たちはその正規開拓者の姉妹がわたしとその若い兄弟に対してそうした思いは持っていませんと私に語るようにもっていくことができたのではないかと思います。そうするならば、たぶん、わたしもそのようなことを言ったことを謝罪することになったのではないかと思います。


 それで、その言葉を言った言わないが問題にされたために、その姉妹に偽証させる結果になり、わたしの立場も一方的に悪くなる結果になったと思います。


 それで、神の律法やビジネスの契約条項などが関係していなかったり、何かの犯罪を立証する必要があったわけでもなく、それが致命的な悪い結果を産みださない場合は、どちらかが偽りの証言をしたという裁定をするよりも、関係者の和解という形で、問題解決に持っていく方が良かったのではないかと思います。


 それで、これは、何十年も前のことですが、わたしはそれらのことについてずっと黙っていました。今回、そのことがあってから、およそ三十年くらい、排斥されてから十年以上たつと思いますが、ネットでそうしたことがあったことに初めて言及しています。

 

 しかし、ある長老はその出来事があった後に会衆で陰口が悪いという話をされた時に、わたしはその話はわたしを念頭において話していたのではないかと感じました。でも、事実に基づいて語った陰口と、偽証とは違うと思います。

 しかしながら、確かに陰口には違いがなかったので、わたしがそのように言ったことによって、いわゆる罰を受けるのも当然なことではあったかもしれません。ただ偽証ということになったので、不当に私に対する裁定が厳しいものになりました。


 でも、確かにわたしの側の陰口には違いがないので、その姉妹が悪く裁定されることも望むわけでもありません。でも、その当時、反対にその姉妹が偽証した、あるいは悪口を言ったということで、助言されるようなこともありませんでした。


 それで、わたしはその長老たちの裁定が不当であったことをエホバ神の前で証言できます。確かに、大群衆の長老たちはイエスの右手の上にある七つの星ではなく、長老たちの裁定や判断が、いつも自動的に奇跡的に正しいものになるわけではないと思います。


 ところが、わたしの裁きにかかわって後ほど誤りを個人的に認めてくださった長老兄弟でさえ、長老に何かのことについて相談していない場合、自由にできるけれども、何かの助言を求めた場合は、必ずその長老の助言に従わなければならないとわたしに、言われました。わたしはその長老兄弟の考え方は間違っていると思います。


 ですから、その兄弟は、イエスの右手の上にある七つの星は監督たちすべてであるという出版物の説明があったのでそのように言われたんだと思います。そして長老たちの言うことは、キリストの権威や指導を表わしているとみなされていたと思います。ご自分たちの指導が、奇跡的に自動的に正しいものになるのだと考えておられたのではないかと思います。




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七つの星が大群衆の長老であるという間違った解釈のために証人の会衆内で問題が起きているのではないか





 その教えのために、証人の会衆の中では、長老たちの権力の乱用があることがあります。

 

 

  結局、長老たちの裁きが正しいものとなるかどうかは、どの程度、その長老たちが聖書の律法と原則に従うか、あるいは、知恵を働かせるかにかかっています。


 そのような事例は他にも挙げられます。監督たちは、間違った裁き、もしくは賢明でない裁きをされることがあります。それは、クリスチャンは皆、判断で間違いをすることがあるからです。(ローマ5:12)それで、長老たちもご自分たちの間違いのために、キリストの贖いの犠牲を許していただかなければならない立場にあります。(レビ4:22)