ヨハネのブログー聖書の預言と希望

主に私たちの将来に希望を与える聖書の預言を説明しています

アルメニアは移動先としてどうか・アルメニア人は異教の帝国の支配下でどのように行動するべきだったのか

【見出し】
(1)銅の国の山岳部のどこに移動するかさらに検討する

(2)アルメニアの不安要素
(3)アルメニアで宣べ伝えたふたりの使徒たちタダイのユダとバルトロマイ
(4)使徒の殉教の後アルメニアに何が起きたか
(5)クリスチャンのアルメニア人は異教の帝国の支配下でどのように行動すべきだったのか






(1)銅の国の山岳部のどこに移動するかさらに検討する


 聖書は、中東と中央アジアの銅の国の山間部に大きなクリスチャンのコミュニティーが現れることを予告していると思います。では、銅の国の山岳部のどこにコミュニティーの拠点を置いたらいいのでしょうか。

 イランやトルコなどの
イスラム教圏の国々は、キリスト教の宣教をすると政府によって捕まる危険もありますし、戦闘がひんぱんに勃発するので、命を脅かされる危険があり、行くことができないと思えます。


 それで、私は取り合えず、世界で最初のキリスト教国となったアルメニア共和国に移動して宣教したいと考えました。




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アルメニア

 

 

 

 

 

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アルメニアジョージアとトルコとアセルバイジャンにはさまれた山国

 

 

 アルメニアは人口290万人の小さな国です。とりわけ、アララト盆地にある首都エレバンノアの箱船が最初に降り立った山で有名な高さ5,165メートルのアララト山を見上げる位置にあります。(創世記8:4)箱船の山アララト山をいつも眺めて暮らすことは、きっと信仰を鼓舞する経験となることでしょう。

 

 

 

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アルメニアの首都エレバンから見たトルコのアララト山

 

 

 

  でも、調べてみるとアルメニアでは、紛争が今後とも勃発しかねないことが分かりました。

 

 

 

 

 

(2)アルメニアの不安要素

 

 アルメニアは治安の点で不安要素があります。19世紀後半にアルメニア人は、オスマン帝国の支配に反発して、トルコ人民族主義者との対立が激化しました。

 

 そのため、20世紀初頭に至るまで多くのアルメニア人が虐殺され、生き残ったアルメニア人も多くは欧米に移住するかロシア領に逃げたのだそうです。



 それで、アルメニアは、隣国トルコに対して平和を保つ努力をしているものの、強い反感を抱いていて、トルコとの関係が緊張して紛争に巻き込まれる可能性も皆無ではありません。

 

 さらに、1988年にも隣のアゼルバイジャンにあるカラバフ自治アルメニアに帰属を求めるアルメニア人の運動が起こり、これに反発したアゼルバイジャンと衝突し、両国の間の本格的な紛争があったそうです。アゼルバイジャン人との紛争は現在も続いているようです。

 その後、1991年ソ連邦が解体して、アルメニアは、ソ連から独立しました。

 

 しかし、1999年10月には、国会内で首相、国会議長など8名が死亡した銃撃事件が起こったそうです。政府が十分治安を保てない状況にあることが分かります。

 

 

 それで、アルメニアは、トルコとの平和な関係に努力をしているとは言え、トルコやアセルバイジャンとの軍事紛争が起きる可能性があり、しかも、国内でも政治問題のために、治安が非常に悪化する可能性があります。

 

 もちろん、わたしはクリスチャンのアルメニア人が虐殺されてしまったことを気の毒に思います。しかし、このことは、アルメニアの人々がキリスト教国にもかかわず、殺人や流血を避けるという決意、神の是認を求めて神に忠実を保つ気持ちが少し弱いことを意味しているかもしれません。

 

 

 しかし、サウル王がイスラエル人の中で神に奉仕していたギベオン人を不当にも虐殺して絶滅させようとしたことをエホバ神が不快に思われてイスラエルに三年間飢きんをもたらしたことがありました。(サムエル第二21:1-6)ですから、確かに神の目に不当な虐殺も起こり得ることが分かります。
 

 

 しかしながら、聖書の中では、一見、不当に見える大勢の人々の虐殺が起きた事例を調べると、それらの人々の霊的な状態がとても悪かったために、神がそれが起きることを許された事例もありました。(サムエル第一22:18,19;2:31-33;3:11-14)

 

 それを今日、神の目に正しく判断するのは、事情を良く調べないととても難しいと思います。


 でも、アルメニアで、紛争が起こるならば、わたしも他の土地に逃げることを強いられる難民にならなければならない可能性があるかもしれません。

 

 

(3)アルメニアで宣べ伝えたふたりの使徒たちタダイのユダとバルトロマイ

 

 

 アルメニア共和国は、昔、アレクサンドロス大王の四人の将軍の1人セレウコスの王朝によって西暦前二世紀には支配されていたそうです。ですから、確かに銅の国の一部です。


  しかも、アルメニア国土の90%において標高1,000 - 3,000メートルの山国です。確かに「山」です。

 

 

 また、アルメニアは西暦301年世界で最初にキリスト教国となりました。そのようになったきっかけは、伝承によると、1世紀頃には十二使徒のタダイと呼ばれたユダとバルトロマイアルメニア宣教したからです。

 

 タダイとバルトロマイは、マタイによる書のなかで十二使徒の名前として挙げられています。(マタイ10:3)

 

 

 

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エスの親族で十二使徒のひとりのタダイのユダはアルメニアで宣教した

 

 

 

 タダイと呼ばれたユダは、イエスに従った婦人の一人クレオパの妻マリアの子であったと言われています。クレオパはイエスの初期の弟子のひとりでした。(ルカ24:18)

 

 

 またクレオパの妻マリアはイエスの母マリアのいとこだったそうです。それで、タダイのユダは、イエスの親族であったと考えられています。

 

 このタダイと、『ルカによる福音』において「ヤコブの子ユダ」と記された人物は、伝統的に同一人物のものとして解釈されているそうです。(ルカ6:16)

 

 

  主の兄弟とされるユダについては、ペルシャで殉教したとする伝承もあるそうです。

 

 

 

 

 

  もうひとりのバルトロマイ(Bartholomew)に関する有名な言い伝えによると、彼はインドに福音を宣べ伝えた後、大アルメニアに行き、タダイのユダと一緒にキリスト教を伝えました。

 

 ヨハネによる福音書の弟子のリストでバルトロマイの名前はなく、代わりにナタナエルという人物があげられていることから、伝統的にバルトロマイの本名がナタナエルであるという見方がされています。(ヨハネ21:2)

 2世紀にはアルメニア高地の各地にキリスト教徒がかなりの数に上ったとカエサリアのエウセビウスは伝えています。(『教会史』)

 

 

 

 この二人は、アルメニア使徒教会守護聖人とみなされています。彼らは、アルメニアの王でさえ改宗させて、多くの改宗者を作りました。それで、四世紀の初めには、アルメニアキリスト教を公式に国教として採用しました。

 

 しかし、ひとつの言い伝えによると、使徒バルトロマイは、アルメニアのアルバノポリス(クリヤ)で、生きたまま皮をはがされ首を打ち落とされて処刑されたそうです。

 

 

 他の伝承によると、アルメニアの王を改宗させたために、バルト

ロマイは、さかさまにはりつけされて殉教したとされています。

 

 

 

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エスから高く評価された使徒バルトロマイアルメニアで効果的な宣教をして残虐な仕方で殉教を遂げた


 

 それで、さまざまな言い伝えからすると現在のアルメニア、あるいはその周辺でバルトロマイが殉教したのは史実だと思います。

 

 

 諸国民の間でも、こうした残虐な仕方で、キリスト教の宣教者を殺害するのは比較的にまれではないかと思いました。キリスト教の宣教者、それも、イエス・キリストと直接かかわりのあった十二使徒のひとりを、それも非常に残虐な仕方で扱うというのは、真っ向からエホバ神とイエスに敵対しています。

 

 聖書は、土地柄というものが確かに存在することを述べています。確かに、アルメニアは、イエスの直弟子が宣教するという特権に恵まれましたが、熱心に宣教を行った十二使徒たちを迫害して少なくともそのひとりを残虐な仕方で殺害しました。

 

 

 でも、おそらく、イエス使徒たちが宣べ伝えて改宗したアルメニア人のクリスチャンたちにもアルメニアの人々は同じ扱いをしたのではないでしょうか。確かにバルトロマイによって改宗した王やその娘が殺されたと言い伝えられています。

 

 わたし"ヨハネ"は決して、イエス十二使徒たちに勝っていないと思います。イエス十二使徒たちから、イエスについて直に話を聞くくらい信仰を鼓舞する経験はないでしょう。それなのに、アルメニアの人々は、バルトロマイに残虐な扱いをしました。

 

 アルメニア人が、先祖のやり方を受け継いでいるとしたら、わたしがアルメニアで、神の言葉を自由に宣べ伝えたら、反動で厳しい迫害を受ける可能性もあるかもしれないとも思いました。

 

 

(4)使徒の殉教の後アルメニアにどんなことが起きたか

 

 

 エホバ神は、アルメニアの子孫に対して怒りを抱かれないだろうかと思いました。 (出エジプト20:5,6)エホバ神は、何十年何百年も生きておられるので、ある出来事をずっと覚えておられます。忘れはしません。

 

 

 13世紀になってバルトロマイの殉教に地とみなされているバスプラーケン( Vaspurakan, Greater Armenia トルコの南東)に有名な修道院が建設されたということです。

 

 エホバ神が過去にイスラエルを扱われた仕方から考えて、アルメニア人の子孫は、後になって先祖が殺害した預言者の記念となる墓や修道院を建てても、何にもならないのではないかと思いました。先祖が犯した預言者を殺害した罪の報いを刈り取ることは免れられないだろうと思いました。

 

 

 イエスが、このように言われたことがありました。「偽善者なる書士とパリサイ人たち,あなた方は災いです! あなた方は預言者たちの墓を建て,義人たちの記念の墓を飾りつけて, こう言うからです。『我々が父祖たちの日にいたなら,彼らと共に預言者たちの血にあずかる者とはならなかっただろう』と。

 

  それゆえあなた方は,自分が預言者たちを殺害した者たちの子であることを,自ら証ししているのです。それなら,あなた方の父祖たちの升を満たしなさい。」(マタイ23:29-32)

 

 そして、イエスが言われた通り、代々預言者を殺害してきたエルサレムユダヤ人たちには、エホバ神の激しい怒りが臨みました。

 

 イエスは、「義なるアベルの血から,あなた方が聖なる所と祭壇の間で殺害した,バラキヤの子ゼカリヤの血に至るまで,地上で流された義の血すべてがあなた方に臨む」と言われました。(マタイ23:35)それは、アベルやゼカリヤの殺害から、何百年も経ってからイエスが殉教された1世紀に起きました。

 

 

 

 一世紀のイエス・キリストと彼の追随者のクリスチャンたちに対する迫害と流血の後、西暦70年には110万人のユダヤ人がローマ軍によって殺されることになりました。(マタイ23:35)

 

 

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預言者たちとイエスとイエスの弟子たちを殺害したエルサレムユダヤ人に西暦70年に恐ろしい滅びが臨んだ

 

 

 

   確かに、エホバ神はご自分に忠実な預言者たちが残虐な仕方で殺されたことについて黙ってはおられませんでした。確かに復しゅうをされました。「復しゅうはわたしのもの,わたしが返報する」とエホバ神は言われています。(ローマ12:19)

 

 ある場合は、数十年後、ある場合、何百年も後になりましたが、エホバ神は確かにご自分の忠実な弟子たちの殺害を大目に見ることはなく復しゅうをされました。

 大アルメニア王国は、西暦前一世紀に設立されました。そして、一世紀にイエスの直弟子がアルメニアで宣教しました。アルメニアに信者は増えたのですが、アルメニア人の偶像崇拝者は、イエスの直弟子を殺害しました。

 しかし、その後、大アルメニ王国は西暦四世紀初頭に、キリスト教を国教にして、一時的に繁栄しましたが、ローマ帝国によって滅びました。その後も、アルメニア人は、周囲の帝国に圧迫されて、国家として、独立したり滅びたりを続けました。

 

 

 さらに、小アルメニア王国が建設されましたが、オスマン帝国によって、滅びてしまったためアルメニア人は、オスマン帝国の各地で、暮らすことになりました。そして、商活動により、物質的に繁栄したコミュニティーを作りました。

 そして、アルメニア人は、宮廷、中央官庁に仕える者も多く、イスラム教のオスマン帝国内で、
中央政府と共存共栄する共同体でした。

 

 

 

 アルメニア人はオスマントルコに服する立場にとどまっていれば良かったと思います。でも、アルメニア人は、西ヨーロッパ諸国やロシア帝国の支援を受けて、アルメニア人の間で民族主義が高まっていきました。

 そして、民族主義に染まったアルメニア人の中には、オスマン官吏を狙った爆弾攻撃を行って抵抗する者たちが現れ始めました。そのようなことは、クリスチャンであると自称するアルメニア人がするべきことではありませんでした。

 

 

 それで、トルコ人やクルド人の間で、アルメニア人を国内にありながら外国と共謀して「テロ」を行う危険分子と見なす敵愾心が強まり、引き続いて何度かのアルメニア人の虐殺が起きることになりました。

 

 

 

 それで、十九世紀から二十世紀の変わり目に何度もアルメニア人虐殺がトルコにより行われ、アルメニア人の死者数は、一般的に100万から150万人の間であると考えられています。

 

 これは、決してエホバ神がご自分の民を守る力がないのではなく、エホバ神はアルメニア人の先祖が犯した罪に対して責任を問われた部分があったのではないかと思いました。すなわち、1世紀あるいは2世紀のイエス使徒たちの殺害に対するエホバ神の復しゅうだったのではないでしょうか。

 

 


 さらに、アルメニア人が聖書の中でクリスチャンに対する迫害があった時に、イエスが言われた物事の解決方法に頼らなったので起きたと思います。

 

 

(5)アルメニア人は異教の帝国の中でどのように行動すべきだったのか

 

 

 

 アルメニアは世界で最初のキリスト教国を作って一時は大いに繁栄しました。でも、ローマ帝国によって大アルメニア王国が滅ぼされてしまったために、アルメニア人は、各地に離散しました。でも、異教徒に寛容なペルシャ王朝のもとで繁栄していました。

 

 

 聖書の中でも、エホバ神を崇拝していたユダヤ教エステルやモルデカイなどがペルシャの王権に服し協力して平和に過ごし繁栄していたことが記されています。(エステル9:29-31;10:2,3)

 

 そして、箴言にも、「我が子よ,エホバと王を恐れよ。変化を求める者たちと掛かり合いになるな。 彼らの災難は余りにも突然に起こるので,変化を求める者たちの消滅にだれが気づくであろうか。」という言葉があります。(箴言24:21,22)

 

  それで、王が異教の政権であっても、軍事的に蜂起したり、暗殺などの方法で政権の転覆を求める人は突然の消滅というような災難が起きると警告されています。

 

 

 モルデカイもエステルもこの聖書の箴言の言葉を知って従っていたはずです。ですから、エステルやモルデカイがペルシャ帝国の中で特権を与えられたとしても、ユダヤ人たちはペルシャを倒して、自分たちが政権をとったり、ペルシャユダヤ人の王国にしようとは考えなかったのです。

 

 さらに、ペルシャ政府の役人だったハガイやネヘミヤもペルシャの支配権に服して、ペルシャの王と協力してエホバの崇拝を推進しました。

 

 さらに、1世紀にイエスは、ローマ帝国支配下にあったユダヤ人に対してローマ帝国に対して反抗して剣をもって戦うことを戒めました。

 

 イエスは剣をとって戦ってご自分の捕縛を妨げようとしたペテロに対して次のように命じられました。「剣を元の所に納めなさい。すべて剣を取る者は剣によって滅びるのです。」(マタイ26:52)

 

 

 

 

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エスは剣をもって戦ってご自分を守ろうとしたペテロに剣を用いて戦うことのないようにと戒められた

 

 

 

 クリスチャンは、剣をとって戦って他の人を傷つけたり、殺したりすることを禁じられています。そして、ローマ帝国にふさわしい税金を払って平和的に服するようにと勧めました。(ローマ13:7)


 また、イエスはピラトに証言された時に、ご自分の王国が「この世のもの」ではないと言われました。


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クリスチャンの王国は目的を達成するために剣で戦うことはしない





 そして、「わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。」と言われました。(ヨハネ18:36)


 戦争をして戦闘能力で強い者が政権を奪取するのは、サタンの世の王国の方法です。しかし、イエス・キリストはクリスチャンに対して武力をもって政権を奪取するというようなことを決して勧めなかったのです。

 イエスの追随者たちは、王国の良いたよりを宣べ伝えることにより、エホバ神とイエスキリストに従って平和的に生活します。


 イスラエルが神との特別な契約関係にあった時には、イスラエルは異教の諸国家と戦って政権を確立しました。


 でも、イエスが到来された後は、特定の国家、もしくは特定のグループが軍事力によって政権をとることはクリスチャンに勧められませんでした。


 人々がどこの国家や民族に属していようと、まず、第一にエホバ神とイエスに従い、第二に自分が生活している地域の人間の上位の権威に従うことによって、神の取り決めに従うのが、クリスチャンのやり方です。

 
聖書はクリスチャンに対して、次のように勧めています。

 

「すべての魂は上位の権威に服しなさい。・・・ したがって,権威に敵対する者は,神の取り決めに逆らう立場を取っていることになります。それに逆らう立場を取っている者たちは,身に裁きを受けます。」(ローマ13:1,2)

 

 

 

 ですから、上位の権威が、宗教が異なり異教であっても、軍事クーデターや暗殺などによって上位の権威に逆らう立場をとることのないようにと助言されています。聖書は上位の権威に服するようにと勧めています。

 

 

 ですから、聖書は、クリスチャンが離散して異教のある帝国のもとで暮らしている場合、その中で独立して国家を作ることを勧めてはいません。キリスト教の国家を建設する必要はありません。

 

 現存する上なる権威の王に軍事的に反抗するようなことは勧めていません。かえって王を恐れるようにと勧めています。

 年長者たちの話し合いや投票などで政権に立つ人を平和的に決めたりなど物事を決めるという方法は、聖書の中で認められている方法だと思います。

 さらに、権威のある人にお願いをするという平和的な方法も認められています。(ルカ18:2-5)

 神の王国の希望を持っていたアリマタヤのヨセフは、イエスを処刑するという行動をする投票をしないことによって自分の立場を明らかにしました。(ルカ23:50,51)聖書は自分の立場を表明する方法として投票を容認しています。

 それで、投票が行われて民主的な方法で物事が決められていくことに聖書は反対していません。民主的な方法で、イエスを死刑にすることが決められたとしても、イエスはそれに武器をとって反対しようとはされませんでした。


 「助言者が多いところには、救いがある/達成がある」という言葉があります。(箴言11:14;15:22)「相諮ることによって計画は堅く建てられる」とあります。(箴言20:18)ですから、ひとりで決めるのでなく、複数で話しあって決める方が成功につながりやすいと聖書は述べています。

 ですから、委員会や議会で平和的な話し合いで政策を決めていくことも聖書は認めています。

 聖書はそのような平和的な方法で物事を決めて進めていくということは認めていますが、武力や権力で、血を流して無理やり政権を奪ったり運営することは勧めていません。


 では、もし、クリスチャンがどこかの都市で迫害されたり、軍事攻撃を受けて命を脅かされるなら、どうしたらいいでしょうか。イエスは、「人々がある都市であなた方を迫害するときには,別の都市に逃げなさい。」と助言されています。(マタイ10:23)

 ですから、フランスのビシー政権がナチスが攻撃してきた時に、パリから逃げ出しましたが、それは聖書にも調和していました。そして、結果的にフランスは国家が滅亡することもありませんでした。

 

 それで、どこか外国あるいはどこかの人々により、迫害されたり、軍事攻撃を受けるならば、それらの軍隊あるいはグループに軍事的に立ち向かうのではなく、その場所から他の場所に逃げることをイエスは助言されています。

 これが、殺人という神に対する罪を犯さない方法です。命さえあれば、また、別の土地で、新しい生活を築くこともできます。以前よりももっと自由で産出的な生活を送れるかもしれません。

 それで、異教の人々から迫害や攻撃を受けても、向かい打って戦うことなく、共存共栄するか、あるいは逃げて平和に過ごす生き方を聖書は勧めています。

 でも、アルメニアではそのような方法がとられることなく、聖書で勧められていない方法が取られてきました。その結果、キリスト教国家が設立されて滅びるということが歴史の中で繰り返されています。

 ですから、わたしがアルメニアに行くと同じことがまた起きて、わたし自身が難民にならなければならなかったりするかもしれないと思います。

 

 

 それで、とりあえず、アルメニア以外の国々、中央アジアやその他の中近東の国々や地域も移動先として検討してみたいと思います。