イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(22-2)長老が自分と異なる成員の意見を尊重するべき理由
ヨハネです。 会衆の長老が成員が自分と異なる意見に基づいて、神の律法に違犯しない決定を下す場合、それを尊重するべきであることを考えてみたいと思います。エホバ神がご自分の導きに反するパウロの決定を受け入れられたことがありました。
(1)長老たちは自分の意見と異なる決定を下す成員の判断を尊重するべき
聖書の原則は幾つもあります。そして、その中で、人によって重要だと考える聖書の原則が異なります。それで、会衆の成員が長老が重要だと考える聖書の原則と異なった原則に基づいて判断・決定する場合があります。ですから、成員が長老たちの考えと異なる決定をくだすこともあります。しかし、長老がこのようにするべきだと考えることと、成員が異なった決定をする場合でも、その成員は、神に従っているという場合があります。(使徒5:29)
長老は、そのことを認めるべきだと思います。次に説明するパウロの事例は、エホバ神がご自分の導きに従わなかったパウロの自由選択を尊重されたことを示しています。神は、パウロの異なる原則、あるいは考え方に基づいた判断と行動を尊重されました。
(2)各成員の自由意志と自由選択をエホバ神が認められることを示すパウロの事例
エホバ神は神の律法に関係しない分野では、わたしたちクリスチャンの自由選択や自由意志をかなりの程度認めてくださいます。神の導きがあってそれに従うこともできますが、それに従わなくても、それでも是認されるということさえあります。もちろん、通常、神の導きに従った方が、問題が少ないと思います。
洞察の本によると、パウロの三回目の宣教旅行の終わりに近い時期に、パウロに対してエルサレムを訪問するならば苦難が待っているのでエルサレムに足を踏み入れないようにと聖霊の導きがありました。「弟子たちは聖なる力によって知らせを受け,パウロに,エルサレムに足を踏み入れないようにと繰り返し告げた」とあります。また、預言者アガポもエルサレムでパウロに苦難が待ち受けていることを預言しました。 (使徒21:4,10,11)
パウロは、基本的に「異国の人々への使徒」 としての任務をイエスから与えられていました。(ローマ11:13新世界訳改訂版)また、パウロはヤコブやペテロと区域分けをして、エルサレム会衆の長老団は、ユダヤ人に、パウロを初めアンティオキア会衆は、諸国民への宣教に力を入れるということで合意がありました。(ガラテア2:9新世界訳改訂版)
しかしながら、パウロはユダヤ人でパリサイ人の出身でした。(使徒23:6)それで、パウロは同族のユダヤ人に対して強い愛を抱いていて、「自分が代わりにキリストから引き離されて災いを被ってもいいとさえ 」思っていました。(ローマ9:3)そのため、パウロは、「徹底的に」証しをしてユダヤ人を助けたいという願いのために、たとえ、エルサレムで拘束されたり、死んだりしたとしても構わないとまで考えて、エルサレムを訪問することにしました。(使徒20:24;21:13)
パウロが神殿でモーセの律法のしきたりに従おうとした時、エルサレム中に騒動が起き、また、サンヘドリンの前で証言した時には、騒動が起きそうになりました。でも、パウロは自分の身を危険にさらしながらも、エルサレムで「徹底的に」証しをすることができました。
パウロはエルサレムで危険な目にあいながら徹底的に証しをするという自分が望むことをした
その後に、イエスはパウロに奇跡的に現れて、「勇気を出しなさい! あなたは私についてエルサレムで徹底的に知らせてきました。同じようにローマでも知らせなければなりません」と伝えました。 (使徒23:11)それで、イエスはある意味神の導きに従わずに問題に巻き込まれていましたが、それでも徹底な証しをして神のご意志を行ったパウロを是認していることを示しました。
それで、エホバ神がパウロの願いを尊重して、パウロがエルサレムに入らないようにという神の指示に従わなかったパウロを受け入れられたのであれば、長老たちも、たとえ自分たちが述べる聖書の原則に従わなくても、兄弟姉妹が聖書とエホバ神に従って行動している場合があることを認めるべきだと思います。ですから、長老たちは、自分たちの勧めとは異なる決定を下すことのある会衆の成員を尊重するべきです。
(6)パウロはエルサレム会衆の長老団より正確な知識を理解していたため神に用いられた
パウロがエルサレムに足を踏み入れる前に、パウロにエルサレムを訪問しないようにという神の導きは、その当時、エルサレムにとどまっていた使徒たちと長老団とのコンタクトが必要でないことをも意味していました。このことは、使徒たちと長老団が、ある程度神の是認を保つ点で、危険な状況にあったことさえ意味するかもしれません。
実際、パウロがエルサレムに行って、エルサレムの長老団と会見した時、ヤコブは、ユダヤ人のクリスチャンの信者たちが、パウロが「律法を守っていることを知る」ように処置を講ずるようにとパウロに指示しました。(使徒21:24)それは、パウロが「異国人の間にいるユダヤ人全てにモーセからの背教」 を説いているといううわさをなくすためだとヤコブは言いました。(使徒21:21)
しかし、パウロは、ローマ人への手紙の中で、「キリストは律法の終着点であり,信仰を抱く人は皆,正しいと見なされるのです。」「 ユダヤ人とギリシャ人とに違いはありません。 」と述べています。(ローマ10:4,12新世界訳改訂版)エホバ神がご自分の民を是認される方法は、モーセの律法を守ることから、キリストに信仰を抱くことに移り変わりました。パウロはこのことを理解していました。
ですから、実際、キリスト教の体制は、ある意味、モーセの律法からの背教とも言えました。キリストは贖いの犠牲に基づいて、モーセの律法を廃しました。ダニエル書にも、メシアが、「週の半ばに犠牲と供え物を終わらせ」ることが預言されていて、メシアがモーセの律法を終わらせることが預言されていました。(ダニエル9:27)モーセの律法を守る必要はなくなったのです。
それで、パウロが教えていることをモーセの律法からの背教であるとみなされることが良くないとするヤコブの見方に問題があったかもしれません。
実際、新しく設立されたキリスト教は、ある意味、モーセの律法からの背教とも言えました。神に是認されるためにモーセの律法の務めをすべて守らなければならないという神のご要求はなくなったのです。クリスチャンは、罪の許しのために、キリストに信仰を働かせて、キリストの贖いの犠牲に頼らなければならなくなりました。
当時のエルサレム会衆の長老団のヤコブの指示は、この新しい真理を、あいまいにする危険性がありました。それで、ヤコブの指示は、クリスチャンがモーセの律法を守る必要があることを強制することになりかねませんでした。すると、モーセの律法によってではなく、キリストの贖いの犠牲によって罪が許されることになったという真理が明らかになるのを弱める危険性がありました。
クリスチャンはモーセの律法を守る義務はなくイエスの贖いに頼るべきだったがヤコブはパウロに律法を守っていることを示すように求めた-エルサレムの長老団はある程度霊的に危険な状態にあったかもしれない