ヨハネのブログー聖書の預言と希望

主に私たちの将来に希望を与える聖書の預言を説明しています

どうしたらエホバ神に祈りを聞いていただけますか

 


​(1)どうすればエホバ神との良い関係を築き祈りを聞いていただけますか​
 
 
 
 エホバ神の是認と助けを得るためには、個人的にも会衆毎にも、神の律法を守って、淫行や殺人や心霊術や偶像崇拝などの神の律法違反がクリスチャン会衆に絶対に起きないように努力をすることが求められます。(啓示21:8)
 
 
 
 神の律法の違反があると、神との関係が損なわれるので、神の保護を得ることができず、生存率が悪くなります。神の律法違反があると、わたしたちが神の助けを呼び求めても聞いていただけないからです。格言は、「律法を聞こうとしない人,その人の祈りさえ忌まわしい。」と述べています。(格言28:9新世界訳改訂版)
 
 
 
 
江戸村のとくぞう   伊勢神社参り
 
​​エホバ神以外の神を崇拝したり・・・​​
 
 
 
 
​死者の霊が存在すると考えて死者を崇拝するならエホバ神の怒りを買うことになります​
 
​エホバ神以外の神の崇拝を避けることが求められます​
 
 
 
 
 


​殺人・・・​
 
 
 
 


​性的な不道徳などを避けて神の不興を買わないようにする必要がある​
 
 
 
 
 
 エホバ神が、私たちの罪が許されるような備えを設けてくださっていることは、とても感謝すべきことです。わたしたちは、皆罪人で、罪を犯しやすい傾向を先祖アダムから受け継いでいるからです。
 
 
 
 また、私たちは、以前は聖書の神エホバが存在することや、そのご要求を知らなかったかもしれません。そのために、はなはだしく神の律法に違反していたかもしれません。
 
 
 
 


キリストの贖いの犠牲に基づいて・・・​
 
 
​罪の許しを祈り求めエホバ神との良い関係を保つことが必要​
 
 
 
 
 
 
 それで、罪を犯した場合は、キリストの贖いの犠牲に基づいて罪の許しを求めることが必要です。(ヨハネ第一2:2)
 
 
 
 
​(2)エホバ神は祈りを聞かれ人間生活に介入される​
 
 
 
 エホバ神は祈りを聞かれる方です。(詩編65:2)エホバ神が祈りを聞かれることによって、人間世界に起こることは異なってきます。祈りによって世界で起きることが動いている場合も多いと思います。
 
 
 
 例えば、一世紀には、まずステファノが石打ちで殉教してしまいました。(使徒7:59,60)さらに、ヨハネの兄弟ヤコブが剣で殺害されました。(使徒12:2)さらに、使徒ペテロは、一度目に投獄された時に、神のみ使いによって解放されましたが、また、投獄されてしまいました。(使徒5:18-20)
 
 
 ステファノやヤコブの場合には、エルサレムの会衆の人々は祈る時間がなかったのだと思います。
 
 
 
 ペテロは、ヘロデ王による二度目の投獄で、ペテロは無酵母パンの祭りが過ぎたら、殺される予定でした。(使徒12:3,4)それで、そのままにされていたら、ペテロは初期クリスチャンの歴史の初めに殉教したクリスチャンのひとりになっていたと思います。
 
 
 
 しかし、ペテロについては、ペテロが牢屋に捕らわれている間、会衆で熱烈な祈りが捧げられました。(使徒12:5)その結果、エホバ神はみ使いを遣わされて、牢獄にいたペテロを解放しました。(使徒12:6-11)その結果、ペテロは初期クリスチャン会衆の歴史の中で、活躍を続けることができました。
 
 
 
 
ステファノやヤコブは殉教したが初期クリスチャン会衆による熱烈な祈りは・・・




ペテロの命を救い事態を変化させた​
 
 
 
 
 
 
 
 それで、私たちがエホバに祈りを捧げる時に、神のご意志であるなら事態は変化することがあります。ですから、何事でも神に頼って祈る方がいいのです。聖書は、「何も心配せず,いつでも祈り,祈願を捧げ,感謝しつつ,願いを神に知っていただくようにしましょう 」とあります。(フィリピ4:6)
 
 
 
  わたしたち人間の力ではどうしようもないことが数多くあります。一世紀のクリスチャン会衆の人々も、牢屋に入れられているペテロのために何もできなかったでしょう。でも、祈ったので、エホバ神がみ使いを用いて、ペテロは助けられたのです。
 
 
 
 
 
  それで、わたしたちの力で何もできないどんな問題でも、「いつでも」祈ることがいいです。すべてエホバ神に頼り、願いを知っていただくのがいいのです。
 
 
 
 そして、聖書の中では、ある祈りがその人の死後に聞き届けられるという事例も書かれています。ゼカリヤの祈りはその死後に聞かれました。(歴代第二24:22,24,25)ステファノの祈りもイエスの祈りも彼らの死後に聞かれました。(使徒7:60;8:1。ルカ23:34)
 
 
 ステファノの祈りのおかげで、彼の殺害に関与したサウロはクリスチャンになりました。(使徒9:3-6)イエスの祈りのおかげで、ローマの兵士やイエスの殺害に関与した祭司たちでさえ、信仰を抱く人が現れました。(フィリピ4:22。使徒6:7)
 
 
 
 ですから、たとえ、祈ったその当人が死ぬことがあっても、祈りは聞かれるのですから、祈りはとても重要です。私たちは神への奉仕として祈りしかできなくても、それはエホバへの崇拝にあって、とても大きな貢献になります。
 
 
 
 私たちはあらゆる事柄について祈るべきです。わたしも、ある祈りに関しては、劇的に聞かれることを何度も経験してきました。例えば、台風などの被害が大きくならいないようにという種類の祈りは、劇的に聞かれることがよくあります。台風がある地域からすごいスピードで過ぎ去って被害がたいしたことがなかったり、ある地域をそれたりしたりしたことも何度もあります。
 
 
 
 わたしが捧げるある種の祈りが劇的に聞かれるのは、一応、わたしはエホバ神に専心していて、神の律法を守り、偶像崇拝や淫行などを避けているからだと思います。
 
 
 
 でも、わたしも不完全ですから、若い時から、完全に神の基準に適合してきたわけではなく、今もそうであるわけではありません。でも、足りない部分は、キリストの贖いの犠牲に基づいて、エホバ神に罪の許しをお願いします。
 
 
 
​ でも、すぐには聞かれない祈りもあります。預言者エリヤは雨が降るようにという祈りを聞いていただくために、同じことを七度祈ったと考えられます。(列王第一18:42-44)


エリヤは雨が降るように七度祈ったかもしれません







 それで、祈りが聞かれるまで、辛抱強く何度も祈ることが必要です。簡単に一度だけ祈っただけでは聞かれないことがあると思います。その祈りに対するわたしたちの本気度も試されるでしょう。​
 
 
 
  さらに、エホバ神が存在しておられて、私たちの祈りが聞かれるという信仰が求められることもあると思います。イエスはある祈りが聞かれなかったことの理由として「信仰が少ないからです」と説明されたこともあります。
 
 
 
 そして、「からしの種ほどの信仰があるなら,この山に,『ここからあそこに移れ』と言うとしても,それは移るのであり,何事も不可能ではありません 」と言われました。(マタイ17:20)
 
 
 
 
 


エスは私たちの祈りによって不動の山でさえ動くと言われた​
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 そして、イエスは私たちに「常に祈り,諦めてはならない」ようにと助言してくださいました。(ルカ18:1)エホバ神は確かに存在しておられ、私たちの祈りを聞く力を持っておられるのですから、神のご意志に調和していると考えるならば、あきらめないで祈り続けることが必要です。
 
 
 
 
 私自身も、願っても聞き届けていただけていない祈りがあるので、あきらめないで祈り続けようと考えています。
 
 
 
​(3)神に是認される立場を保ち重要なことについて祈りそのために努力する​
 
 
 
 
 
 誰かが、例えば、わたしがすべての重大な物事を把握しているとは限らず、わたしも、重要なことを見落としていることがあると思います。でも、世界にはとても重要なことがたくさんあります。それで、誰でも、世界で祈るべき重大なことが起きていると気づくならば、そのことについてエホバ神に祈るべきだと思います。
 
 
 
 それで、各自はエホバ神に祈りを聞き届けていただきたいなら、神の律法を守り、神の言葉に従って、エホバ神の是認を保たれるように努力することができます。そして、自分が分かっている重要なことの解決について、自分の力だけに頼るのではなく、エホバ神に頼ることが必要です。(箴言3:5,6)
 
 
 
 エレミヤ書にはこう述べられています。「単なる人に頼り,人間の力を当てにし,心がエホバから離れていく人は,災いを受ける。・・・エホバに頼る人,エホバを信頼する人は祝福される。 」(エレミヤ17:5,7)それで、他の何物でもなく、エホバ神にその問題を知らせて、解決を仰ぐことができます。
 
 
 
 そして、祈ったならば、その祈りに調和した行動を何でもとることができます。各自の祈りに調和した行動は、エホバ神がその人の祈りをより一層、聞き届けやすくします。わたしたちは、全能の神エホバ神に信仰を保ち、キリストの贖いの犠牲に頼りながら、祈り続けていきましょう。
 
 
 
 
​​エホバ神に信仰を持って頼りどんなことでもあきらめないで祈り続けましょう​​