第六のみ使いがラッパを吹くと、神の前にある黄金の祭壇の角の間から出る一つの声が、第六のラッパを持つみ使いに、「大川ユーフラテスのところにつながれている四人のみ使いをほどきない」という言うのが聞こえました。(啓示9:13)


0eupharates river
大川ユーフラテスのところにつながれている・・・



0four angels
四人のみ使いとは誰を表わしていますか


 

 

   黄金の祭壇の角の間から出る一つの声とは何でしょうか。四人のみ使いとは誰でしょうか。四人のみ使いが大川ユーフラテスにつながれているとは何を意味するのでしょうか。今回の記事では、この部分を考慮してみます。



(1)黄金の祭壇の角の間から出る一つの声とは


 昔、金の香の祭壇が聖所にありました。(出エジプト30:1,3)金の祭壇」とは、聖所にある香を捧げる「香の祭壇」です。(啓示9:13,14)なぜなら、啓示8章の「黄金の祭壇」も香の祭壇です。なぜなら、「黄金の祭壇の上ですべての聖なる者たちの祈りと共にささげるため,多量の香」がみ使いに与えられているからです。(啓示8:3)




0altar of incense1
黄金の祭壇とは香の祭壇で祈りを表わす香が捧げられる
祭壇の角の間から出る一つの声とは聖なる者たちの祈りの声
 




 

 ですから、黄金の香の祭壇からは、香が立ち上るはずであり、「香は聖なる者たちの祈りを表わしている」と啓示の書にあります。(啓示5:8)ですから、黄金の祭壇の角の間から出る一つの声とは、聖なる者たちによる祈りの声だと思います。


 祈りによって、神に願いが捧げられ、その祈りの声は、第六のラッパを持つみ使い、つまり、「最後の者たち」に行動を促します。つまり、ユーフラテスにつながれた四人のみ使いがほどかれるよう行動するようにと促すことになるのでしょう。(啓示15:1)


(2)四人のみ使いが「み使い」と言われていても人間であると判断する理由


 そこに「四人のみ使い」がつながれているとは、何を意味するのでしょうか。啓示7章にも、「四人のみ使い」が登場します。(啓示7:1)啓示7章に出て来る「四人のみ使い」と、ユーフラテスにつながれている「四人のみ使い」とは、同じ実体なのでしょうか。通常、同じ言葉で描写されている実体は同じであると判断するのが妥当です。

 


 

 四人の「み使い」のギリシャの原語は、アンゲロスです。これは、字義的には「使者」を意味します。この語は、翻訳者が霊の使いを指すとみなす時には、「み使い」と訳され,人間を指しているとみなす場合には「使者」または「使い」と訳されます。(啓示1:20)ですから、「み使い」もしくは、「使い」と訳されている場合、霊者の場合と、人間の場合と二つの可能性があります。



 四人のみ使いは、「大川ユーフラテスのところ」につながれているのですから、「み使い」と訳されていても、霊者ではないでしょう。なぜなら、霊者のみ使いは、捕らわれになったりしないからです。






0four angels holding wind
啓示7章の四方の風が吹かないようにしている四人のみ使いと同じ実体でしょう
み使いはつながれないので四人のみ使いたちは人間でしょう



  四人のみ使いとは、文字通りの四人の聖なる者を意味しているのでしょうか。「四人のみ使い」は、「地の四隅」にいます。(啓示7:1)啓示20章によると、「地の四隅」には、「諸国民」がいます。(啓示20:8)「地の四隅」の四は、この場合、文字通りではなく象徴的な表現です。


 ですから、「地の四隅」にいる「四人のみ使い」はおそらく「諸国民」の中に散らばっているのでしょう。「四人のみ使い」も特定の数を示唆していない象徴的な表現ではないでしょうか。


 少なくとも分かることは四人のみ使いは、ユーフラテスに捕らわれになるのですから、彼らの本拠地は大いなるバビロン米国の外です。


(3)ユーフラテスのところにつながれているとは


 「大川ユーフラテスのところにつながれている四人のみ使い」とは誰を意味しているのでしょうか。(啓示9:13,14)まず、「大川ユーフラテス」とは何を意味しているのでしょうか。大川ユーフラテスという語は、ここの啓示9章以外に啓示16章にも出てきます。そこには、「第六の者がその鉢の中から大川ユーフラテスの上に注ぎ出した。すると,その水はかれてしまった」とあります。(啓示16:12)



  この記述は、昔ペルシャのキュロスの率いる軍勢が大川ユーフラテスの水が枯れるようにしたことを思い起こさせます。すなわちキュロスはその川が干上がるようにして、ユーフラテス川の上に建てられていた古代バビロンに侵入しました。(イザヤ44:27,28エレミヤ51:63,64)




0ancient babylon
ユーフラテスの上に古代バビロンは建設されていたので大川ユーフラテスは大いなるバビロンを表わしている




 

 それで、ユーフラテスのところにつながれている四人のみ使いとは、大いなるバビロンに捕らわれとなっている者たちを表わしています。大いなるバビロンに連れて行かれるのは、「二人の証人」です。「大いなる都市」とは、「大いなるバビロン」を意味しているからです。(啓示16:19)



 二人の証人については、「底知れぬ深みから上る野獣が彼らと戦い,彼らを征服して殺し」、「彼らの遺体」は,「大いなる都市の大通りに置かれる」ことが預言されています。(啓示11:7,8)それで、大川ユーフラテスに捕らわれている四人のみ使いたちと、大いなる都市大いなるバビロンに連れて行かれる二人の証人の実体は、少なくとも共通部分があるでしょう。



(4)四人のみ使いは大いなるバビロンで捕らわれになっており殺されていない


  「第五のみ使いがラッパを吹いた」後に、いなごの軍勢には,「額に神の証印のない人々」を「殺すことではなく」「五か月のあいだ責め苦に遭わせることが許され」ることになっています。(啓示9:4,5)


 「額に神の証印のない人々」はいなごの軍勢によってさそりに襲われたようなひどい痛みを経験しますが、「死にたいと思っても,死は彼らから逃げてゆく」と預言されています。ですから、あるクリスチャンたちは、苦しみを経験していますが命だけは守られています。(啓示9:6)



 さらに、「もろもろの民・部族・国語・国民から来た者たちは・・・(二人の証人)の遺体を墓の中に横たえることを許さない」と述べられています。家、もしくは墓に「横たえ」られるとは、死ぬことを意味します。(イザヤ14:18)ですから、墓に横たえられることを許さないとは、人々は彼らが死ぬことは許さないという意味になります。




0two witnesses7
二人の証人は大いなるバビロンに捕らわれになるが墓に横たわることは許されないので生きている
 




 

 それで、世論は二人の証人の命が奪われることを許さないようです。(啓示11:9)それで、二人の証人は、生きながら捕えられており、活動ができなくなっています。




 それで、この「額に神の証印のない人々」は、「二人の証人」と実体が同じであると考えられます。彼らは生きながら捕えられます。私は、二人の証人とは、とりわけローマカトリック教会ギリシャ正教会の聖職者たちを意味しているのではないかと考えています。そのように判断する理由の詳細な説明は、これまでもいろいろな記事の中で説明してきたので過去記事を参照してください。



 そして、「額に神の証印のない人々」は、「二人の証人」で、また、「四人のみ使い」だと考えられます。彼らは、「違反」のために、本拠地が「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」の軍勢によって軍事攻撃を受け、米国に捕らわれとなり連れて来られるのだと考えられます。(ダニエル8:11,12)すなわち、「ユーフラテスのところ」につながれる結果になります。(啓示9:13,14)


(5)四人のみ使いは何をしたのか



 啓示7章では、「四人のみ使い」は、「地の四隅に立ち,地の四方の風をしっかり押さえて,地にも海にも,またどの木にも風が吹かないように」します。(啓示7:1)さらに、その四人のみ使いは、「地と海を損なうことを許された四人のみ使い」と説明されています。(啓示7:2)


  啓示7章の四人のみ使いが、「風が吹かないように」するとは、何をしているのでしょうか。(啓示7:1)ダニエル書には、天の「四方の風」が広大な海をかきたてると巨大な四つの獣が出て来るという表現があります。(ダニエル7:2,3)それで、風が海に吹くと、獣、すなわち、新しい政治的・軍事的組織が台頭してきて、それまでに権勢を振るっていた国家を攻撃して、取って代わります。



  エレミヤ49章では、「天の四方の果てから四方の風をエラムにもたらす」ことが預言されています。「四方の風」をエラムにもたらすとは、神がエラムに、「災いを,エホバの「燃える怒りを来たらすことを意味していました。そして、その結果は、「彼らの後に剣を送り,ついには彼らを滅ぼし尽くす」ことになります。(エレミヤ49:36-38)


 ですから、四方の風がある国家にもたらされるとは、その国家に対抗する軍事的な政権が台頭してきて剣による災いがもたらされることを意味します。その結果は、多くの場合、その国家の滅びという結果になります。


 それで、啓示7章の四人のみ使いは、「四方の風」が吹かないようにして、獣が出現しないようにします。四人のみ使いの努力のゆえに、ある国家に「剣」で象徴されている戦争が起きて、その国家の滅びをとどめることになるわけです。四人のみ使いは、世界を平和に安定させる働きをするようです。


 もし、啓示7章に出て来る「四人のみ使い」と、ユーフラテスにつながれている「四人のみ使い」が、同じ実体だとすれば、「四人のみ使い」は、南の王の滅びが到来しないように世界が安定する努力をしていたのに、南の王の土地に捕らわれになるという皮肉な結果になるということになります。



(6)忠実であるにもかかわらず南の王の土地に捕らわれになる理由


 ダニエル書の中には、聖書の理解を分かつ「洞察力のある者」の中に、「捕らわれ」を経験する者たちがいると預言されており、このことと調和しています。(ダニエル11:33)聖書の「理解」を分かつことそのものは、悪い事ではなく、とてもいいことです。


 エホバに忠実に神のご意志を行なったので、捕らわれを経験するのでしょうか。ダニエル書には、「洞察力のある者たちの中にもつまずかされる者がいる」ことが預言されています。(ダニエル11:35)「つまずき」とは、基本的に災いを経験して倒れることを意味しています。(イザヤ3:8;8:15)


 しかし、イザヤ59章の中には、真実が「つまずく」という表現があります。(イザヤ59:14)その「つまずき」は、公正と義がないがしろにされることと関連しています。ですから、「つまずく」とは公正と義をないがしろにすることも意味しています。


  ですから、「洞察力のある者たちの中」にもつまずかされる者がいるということは、「洞察力のある者」の中にも、真実から離れて、神の公正と義をないがしろにする者たちがいるということを意味します。(ダニエル11:35)パウロは、「神に対する熱心さを抱いている」にもかかわらず、「正確な知識」が欠如している宗教家がいることを述べています。(ローマ10:2)


 ですから、ある程度、聖書についての「洞察力」を持ちながら、聖書の正確な知識が欠けているために、真実から離れて神の公正と義をないがしろにする結果になるクリスチャンがいると聖書は述べています。


 それで、ダニエル書の預言によると、人々に聖書の理解を分かつ「洞察力のある者」の中に、神の律法に関して、神に忠実な者と不忠実な者とが存在することを示唆しています。(ダニエル11:35)「それらの者のゆえに精錬を行ない,清めを行ない,白くすることを行なうため」に、神の律法に忠実な者たちでさえ、そうした「剣と炎」「捕らわれと強奪」を経験することになるようです。(ダニエル11:35)

0daniel and his three friends

ダニエルと三人の友が古代バビロンに捕らわれていたように神の律法に忠実な四人のみ使いたちも大いなるバビロンに捕らわれている



 

 たとえば、昔バビロンに捕らわれとなったダニエルとその三人の友たち自身は、故国でも毅然として偶像崇拝を退けていたでしょう。バビロンで彼らの命が危険になった時でさえ、偶像崇拝を避けたのですから、彼らは故国で困難な状況の下にあつても偶像崇拝をしなかったはずです。しかし、彼らもバビロンに捕らわれとして連れて行かれたのです。(ダニエル1:6)



  ですから、神の律法に忠実な者たちも、他の神に不忠実になった者たちにもたらされる災いに巻き込まれることになるわけです。


(7)考えられる状況説明



 それで、考えられる状況説明としては、とりわけ、ローマカトリック教会ギリシャ正教会のクリスチャンたちの中にも、聖書に関する理解を他の人々に分かつクリスチャンが存在することでしょう。しかし、彼らの中には、ある程度、聖書の正確な知識が欠如している者たちがいるでしょう。そうすると、聖書の間違った理解のために神の律法に対して、不忠実になり、神の公正と義を投げ捨てる結果になる者たちが存在することになるでしょう。


 それは、イエスが音信を伝えた七つの会衆のペルガモン会衆やテアテラ会衆の中にも、神に忠実なクリスチャンがいる一方、偶像崇拝や淫行に陥るクリスチャンがいたという状況と調和しています。(啓示2:13,14,20,24)ですから、とりわけクリスチャンの中には、野獣の崇拝に屈する人がいると考えられます。


 ですから、どの宗教グループの中にも、神に忠実な者と不忠実な者が存在するでしょう。そして、そのグループの中には、世界が平和になるように自分たちの知識を用いて努力をしていた者たちもいたでしょう。それで、ローマカトリック教会ギリシャ正教会の本拠地が軍事攻撃を受ける時、それらの忠実な者たちも南の王の土地に捕らわれになっていくことでしょう。



  また、聖書に忠実を保とうと努力しているヨーロッパやロシアではない所にいるローマカトリック教会ギリシャ正教会の聖職者たちも大いなるバビロンに捕らわれになっていると考えられます。


 世界が安定化する働きをしていた神に忠実な四人のみ使いが南の王に捕らわれになるという皮肉な状況が見られるのですから、ユーフラテス川のところにつながれている四人のみ使いたちが解放されるように助けて欲しいという神への祈りと願いの言葉があるのも当然のことでしょう。(啓示9:13,14)


 それで、エホバ神は、第六のラッパを吹く最後の者を、四人のみ使いを助けるために、大いなるバビロンに遣わされるようです。それは、「大川ユーフラテスにつながれた四人のみ使い」のために、祈りの声があるからです。当人、また他の人の祈りは確かに助けになります。



0christian prayer2
大いなるバビロンに捕らわれている忠実な四人のみ使いたちのために祈りが捧げられるでしょう





 

 そして、憐み深くエホバ神は平和のために努力している信仰の人々を窮境から助けて下さいます。次の記事では、こうしたことを聖書の他の預言書も預言していることを説明したいと思います。