ヨハネのブログー聖書の預言と希望

主に私たちの将来に希望を与える聖書の預言を説明しています

後でもっと米国が日本に戦争は駄目だという意思表示をして欲しかったと考えられた昭和天皇ー昭和拝謁記

  昭和天皇との拝謁記によると、昭和天皇は、アメリカをはじめとする連合国の開戦以前の対応についても振り返っていたと記されています。

 

 

 昭和天皇は昭和2512月1日の拝謁で「之は私の勝手のグチだが」とことわったうえで、「米国が満州事変の時もつと強く出て呉れるか或いは適当ニ妥協してあとの事ハ絶対駄目と出てくれゝばよかつたと思ふ」と述べたと記されています。では、米国や国際社会は、日本に強く戦争は駄目だという意思表示をしなかったでしょうか。

 

(1)アメリカや国際社会の開戦以前に日本に中国侵略をやめるように勧めていた

 

 

 

 1931年、中国の日本軍関東軍が独自行動で満州事変を起こし中国への侵略を開始して満州全土を制圧して、1932年に満州国を建国しました。これに対して、中国政府は国際連盟満州国建国の無効と日本軍の撤退を求めて提訴しました。それを受けて国際連盟イギリス人リットンを代表とする調査団を派遣しました。複数の国籍の調査員からなるリットン調査団は1932年3月から6月まで調査し、リットン報告書をまとめました。報告書は日本の侵略と認定し日本軍に対しては満州からの撤退を勧告しました。


 1933年2月、国際連盟総会はリットン調査団報告書とその勧告を審議の結果、反対は日本のみ、賛成が42カ国で可決されました。これを受けて日本政府は1933国際連盟を脱退しました それで、国際社会は最初に日本に対して中国侵略をやめるよう勧告していました。




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国際連盟から派遣されたリットン調査団は調査し日本が中国侵略をやめるように勧告したが日本は連盟を脱退した




 しかし、中国での満州鉄道爆破は、中国によるものではなかったにもかかわらず、中国側のせいにして、中国に対して戦争を始めたのは、まったく日本の方が間違っていて、その点で、日本側に正しい部分はありませんでした。



  それで、国際連盟から非難を受け、中国から撤退するように勧告されたにもかかわらず、それに耳を傾けるどころか、国際連盟から脱退してしまったのですから、まったく日中戦争を始めた日本の側に、正義はありませんでした。そして、国際連盟の勧告を受け入れて中国から撤退するのが日本にとって正しい行動でした。

 

 

 そして、その後も日本は、日中戦争を推し進めていき、さらにフランス領インドシナ半島へ派兵しました。それで、米国は最初は、孤立主義のために日本軍の行動に強く干渉しなかったのですが、19417月から8月にかけての対日資産凍結と枢軸国全体に対する、石油の全面禁輸措置を行い、ABCD包囲網、すなわち日本に対してアメリカ合衆国America)、イギリスBritain)、中華民国China)、オランダDutch)による貿易制限を施行して、日本に対する不同意を示しました。

 

 

 日本は、戦前は、石油の9割以上を輸入に依存していました。最大の輸入先は米国で、輸入量の81.1%を占めていました。 当時、日本はとりわけ、石油の備蓄を一年分か一年半分しか持っておらず、石油が禁輸されるなら、戦争遂行を続けることはできませんでした。

 

 つまり、『ゼロ戦』戦闘機を持ってはいても、特攻隊がいたとしても、それを飛ばす燃料は短期間しか維持できませんでした。しかし、日本は冷静に状況を分析せず、後先を考えず、日米開戦に突き進みました。

 

 それで、アメリカを初め国際社会は、日本に正しく抗議を表明し、確かに、駄目だと言っていました。ですから、早期にその声に聞き従っているのが賢明でした。しかし、日本は長期戦になるなら、日本の勝利はおぼつかないと考えていましたが、短期決戦をするなら、勝利の可能性もあると考えて、その可能性にかけました。一部の冷静な見方をする政治家は、日米開戦をしても、勝利の見込みはほとんどないという現実的な見方をしていました。

 

 

 日米開戦を推進してきた近衛文麿でさえ、日米の軍事力の差、燃料の備蓄の差を考えたためだと思われますが、最終的に日米開戦には同意できず、近衛内閣は総辞職してしまいました。そのため、昭和天皇は、東條英機に組閣を命じました。これは昭和天皇が平和を望む気持ちがおありであったのであれば、まったくのミスキャストでした。

 

 

 それで、日米開戦のための路線づくりは、昭和天皇の言われた通り、近衛文麿によってしかれました。しかし、昭和天皇が平和を願っておられたのであれば、近衛文麿に三度組閣させたのことも、まったくのミスキャストで、判断が過まっていたと言えると思います。

どのように太平洋戦争が始まったのかについての昭和天皇の考察-昭和天皇拝謁記

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昭和天皇はご自分のもとで行われた日中戦争と太平洋戦争に深い悔恨と反省の念を抱いておられた



 昭和天皇は戦後、ご自分のもとで日中戦争と太平洋戦争が行なわれたことに関して深い悔恨と反省の念を抱いておられました。そのことは、戦後に宮内庁長官昭和天皇と会話した記録である昭和天皇拝謁記から分かります。

 

 

()昭和天皇は本意は平和を望んでおられたが太平洋戦争の開始をとめることができなかった

   昭和27年5月28日の拝謁では「東條は政治上の大きな見通しを誤ったといふ点はあったかも知れぬ」としたうえで、「強過ぎて部下がいふ事をきかなくなった程下剋上的の勢が強く、あの場合若し(もし)戦争にならぬようにすれば内乱を起した事になったかも知れず、又東条の辞職の頃ハあのまゝ居れば殺されたかも知れない。兎に角(とにかく)負け惜しみをいふ様だが、今回の戦争ハあゝ一部の者の意見が大勢を制して了(しま)つた上は、どうも避けられなかつたのではなかつたかしら」と語られたと記されています
 

 建前は御前会議で、天皇が戦争を開始し、終了することに関して、最終決定をすることになってはいました。しかし、実際には、大本営会議や御前会議では、天皇はほとんど発言をされなかったようです。さらに、実際の決定は御前会議の後の閣議で決定されました。それで、日米開戦に関する御前会議では、昭和天皇が和平解決を第一に望まれることを発言されましたが、数日後の近衛内閣の閣議で、天皇の希望は退けられ、日米開戦が決定されたということです。

 

 

 それで、昭和天皇の権力がお飾りの部分があったことの背景を考えてみると、父親の大正天皇が脳膜炎を患っておられて、寝たきりの時が多かったので、昭和天皇が若くして摂生になつておられました。それで、大正天皇の時から、政治上の実務は、内閣が行なうということが慣例になっていて、昭和天皇も実際の発言や行動は、周囲の実務家任せであったという状況があったかもしれません。

 

 

 さらに、昭和天皇は、近衛文麿に三度組閣をさせました。しかしながら、近衛文麿は、最初は日中戦争に関して、不拡大方針をとりましたが、実際は、中国の軍部の行動を追認し、日米開戦を推進する立場でした。さらに、昭和天皇は、東條英機が軍部を抑えられると考えて、東條に組閣をさせました。しかし、東條英機も開戦論者でした。



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昭和天皇は戦争支持者の近衛文麿に三度組閣させたのは間違っていた





 それで、確かに昭和天皇は、平和を望まれて、そのために努力も行われたのですが、戦争推進論者の近衛文麿東条英機に組閣させたのは、間違いであったと思います。

 

 

 しかし、昭和天皇は建前上、最高権力者であったので、平和を願っておられた昭和天皇がもっと断固とした態度をとっておられたなら、日米開戦を防ぐか、あるいは太平洋戦争の終結をもっと早くすることができたのではないかと思います。

 

 

 そして、昭和天皇が、もっと平和のための断固とした政治的な方策をとっておられたならば、日本全土が焦土となり、原爆をふたつも落とされる事態も防げた可能性もあったと思います。実際、昭和天皇は、拝謁記の中で、日中戦争がはじまった初期の時点で、ご自分がもっと断固とした行動をとらなかったことを非常に悔やんだと語っておられます。

 

 

 また、もうひとつの点として、日中戦争の初期、また、太平洋戦争の初期に日本は、戦闘に勝利を収めていました。しかし、確かに、戦争は、勝利を収めればいいというものではありません。戦争をすることは殺人をすることを意味しています。無差別殺人は基本的に悪です。

 




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日清戦争-戦争はたとえ勝利しても殺人であり悪です



 

 その点で、昭和天皇は、東條英機が見通しを誤ったと語っておられますが、昭和天皇ご自身も、最初は、日本が無惨な敗北に至るとはお考えにならず、東條英機のように勝利をおさめていればいいという考え方をされていた部分があったのではないかと思います。

 

 

(2)太平洋戦争は近衛文麿が始めたという拝謁記の昭和天皇の発言について考える

 

 

 さらに、昭和27年4月5日の拝謁では、「太平洋戦争ハ近衛が始めたといつてよいよ」とも述べ、られ、日米開戦を防げなかった責任は開戦時の総理大臣だった東條英機の前任の近衛文麿にあるという認識を示されたということです

 

 

 確かに、昭和天皇はどのように日本が日中戦争・太平洋戦争に動いていったかを一番ご存知だったはずです。昭和天皇は、東條英機ではなく、近衛文麿に、太平洋戦争を始めた責任があると言っておられますが、確かに戦前の日本の歴史の流れを見てみると日中戦争を始めて、太平洋戦争を始める国家機運を作るのに近衛は中心的な役割を果たしたということが分かります。

 

 

 以下は、近衛文麿の項目のWikiの記事を簡単にまとめたものです。近衛文麿の内閣の時に、日本が日中戦争を始めました。彼は、最初、45歳という若さで総理大臣になりました。彼は、昭和天皇に任命され、三回、組閣をしました。そして、中国で関東軍が軍事行動を行うと、口では事変の不拡大方針を唱えましたが、現地で停戦工作が行われているにもかかかわらず、中国への派兵を決定しました。さらに、関東軍の軍事行動のために、巨額の軍事予算を政府として拠出の決定をしました。

 

 

 それで、近衛が本当に中国での不拡大方針を貫きたいと望むなら、軍事費を予算案から削れば、軍部は中国で日中戦争を続行できませんでした。しかし、確かに、中国で軍部が独走していたのですが、拡大作戦が可能な軍事費を閣議で決定して帝国議会で可決させました。そして近衛は、軍に同調してナチスばりの政権を樹立したい意向がありました。園遊会で彼はヒトラーの仮装をしたそうです。近衛は、ヒットラーのような独裁政治を行いたいという意向があったと察せられます。

 

 

 そして、彼の第一次内閣のもとで、不拡大方針を破棄して、日中戦争は全面戦争に拡大しました。19381には、御前会議ドイツの仲介による講和を求める方針が決定されましたが、近衞はその三日後には、和平交渉の打ち切りを閣議決定しました。 4月に国家総動員法公布して経済の戦時体制を導入しました。 近衛が作った戦時体制は、ソ連の経済体制やヒットラー率いるナチス党をみならったものでした。

 

 

 そして、第一次近衛内閣の次の内閣の時、ドイツがポーランドに侵攻して、第二次世界大戦が始まりましたこの時、日本は、欧州で破竹の進撃を続けるドイツが勝利すると考えていました。近衛は、ソ連共産党ナチス党をモデルにした独裁政党の結成を目指しました。

 

 

 そして、戦争機運の高まりを憂慮した昭和天皇が近衛以外の海軍の良識派に組閣させましたが、陸軍が好意を示さず、その内閣は総辞職をせざるを得ませんでした。変わって、昭和天皇は二度目に近衛に組閣を命じました。

 

                                           

 近衛は、2次近衛内閣を組織した後、1940年7に「大東亜共栄圏の確立をはかる」構想を発表しました。日本帝国をアジアに打ち立てようとしていたのです。そして、全政党を自主的に解散させ、日本に政党が存在しなくなりました。そして、1940年に、三国軍事同盟を締結しました。 それで、近衛は同盟国のドイツに信頼しており、勝利をえると考えていました。



 19411には、近衛は対米戦決意を明らかにしました。さらに近衛首相らは、対米戦気運を醸成するめに、大政翼賛会対米戦に備える国民運動を組織化することを決めました。

 

 

  それで、日本では、太平洋戦争前に中国で軍部が独走していました。しかし、近衛内閣も日本軍が勝利を収めている間は、それを追認し、支持し奨励し、日本を中心としたアジア支配を念頭において事を進めました。そして、昭和天皇が言われたように、確かに対米開戦の戦争機運を国家的に醸成していったのは、近衛内閣の時でした。東條内閣の時には、もうその路線がひかれていたというのが事実であったと言えます。

 

 

 そして、昭和天皇はある程度、戦争の早期解決を図られましたが、軍部によって、その努力はくじかれました。軍部は政府が和平のために派遣しようとした特使を捕まえて使命を果たせないようにもしました。


  近衛文麿は、戦後、戦争責任を問われてA級戦犯として極東軍事裁判で裁かれることになりました。そのため、近衛は戦犯として裁かれることに耐えられず、最後には54歳の若さで青酸カリの服毒自殺を遂げました。




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近衛はA級戦犯として裁かれることに耐えられず54歳の若さで服毒自殺を遂げた

 

 

(3)当時の誰を総理大臣として据えるかという点での昭和天皇の選択の間違い

 

 

  確かに、天皇制は、ある意味、お飾りにすぎず、戦争を推進する軍部が実権を握っている部分があり、さらに、実務は、内閣が行なっていました。内閣は、日本軍が勝利を収めている間は、軍部の行動を追認し、推進したという構図があったと思います。軍部は内閣の和平のための努力にも反対しました。また、近衛内閣は、ドイツのナチス党やソ連共産党の支配のような天皇を中心とした独裁政治を目指しました。

 

 

 どうして、その当時の陸軍や海軍は暴走したのでしょうか。明治天皇大正天皇の支配のもとで、日本は日清戦争日露戦争で勝利しました。また、大正天皇のもとでも、日本は戦勝国の側に立っていました。そのために、軍部は、ごう慢になり、自分たちの軍事力に頼るようになりました。自国は神国であると信じていたでしょう。

 

 

 それで、天皇を崇拝して、そのもとで日本国の国土と影響力を拡大しようと考え方を持っていたのでしょう。それで、自国が敗北するというような現実的な考え方をするのが大変難しくなっていました。

 

 

 それで、軍部の独走があったのですが、やはりその当時、昭和天皇は最高指導者だったのですから、首相を選ぶ点で、もっと賢明であれば、日本の事態をもっと深刻なものにならないようにできたのではないかと思います。

 

 

 昭和261217日の拝謁で昭和天皇ご自身、このように言われています。「終戦で戦争を止める位なら宣戦前か或(あるい)はもつと早く止(や)める事が出来なかつたかといふやうな疑を退位論者でなくとも疑問を持つと思ふし、又首相をかへる事ハ大権で出来る事故(ことゆえ)、なぜしなかつたかと疑ふ向きもあると思ふ」と述べられたと言うことです。

 

 

 田島長官が「それは勿論(もちろん)あると思ひます」と述べると、昭和天皇は「いやそうだらうと思ふが事の実際としてハ下剋上でとても出来るものではなかつた」と答えたとのことです。

 

 

 しかしながら、昭和天皇は、平和を望んでおられたのですから、日中戦争を支持し、基本的に日米開戦論者であった近衛内閣を三度組閣させたのは間違いでした。そのために、日中戦争が始まり、太平洋戦争が始まってしまう体制づくりに力を貸してしまいました。また、日中戦争と日米戦争両方の推進論者であった東条英機に組閣させたのも致命的な間違いでした。



  だれもが人間であれば、判断の誤りを避けられないのです。

 

 

 

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(31)勘違いで表象物にあずかると証人から排斥されてコラのようにエホバから裁かれるというのは正しいか

 

 統治体の兄弟たちは、わたしがエホバの証人として表象物にあずかり始めた時、ある程度、注目されていたようです。

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(25)統治体に手紙を書いた後ルームメイトを組むのを妨害した地域監督は事故死する

 

 それは、今思うに、統治体の兄弟たちは、成り行きを見て、エホバ神のご意志を見てみようという考え方をされていたかもしれません。今回は、統治体の兄弟たちの考え方がどんなものであったのかを推察し、それが聖書的にどうかを考えてみたいと思います。

 

(1)統治体のわたしに対する待遇の背後にあったかもしれない考え方



 統治体の兄弟たちは、昔、コラとダタンとアビラムなどに起きた事態を念頭に置いていたのかもしれません。

 

 

 ものみの塔20032/15号の「主の晩さんはあなたにとってどんな意味がありますか」という記事の中では、「間違った思い込みをするのはなぜか」という見出しのもとに、「そのような召しを実際には受けていなかったことを知りながら,天的な王また祭司となる召しを受けた者のように振る舞う人を,神は好意をもってご覧になることはないはずです。・・・エホバは,レビ人であるコラを死罪に処されました。コラがせん越にもアロンの家系の祭司職に就こうとしたからです。」とあります。


 これは、聖書のどのような出来事に基づいているかを説明します。祭司職はレビ族のアロンとその子孫に受け継がれることになっていました。(出エジプト29:9;40:15民数記3:10)ですから、アロンの子孫のひとりが大祭司として奉仕し、その他のアロンの子孫の男子は、大祭司を補佐する祭司となりました。



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モーセの律法下では大祭司はアロンの息子のひとりまたアロンの男子の子孫は補佐する祭司になると定められていた





 アロンも、レビ族のひとりでした。レビ族の男性は祭司にはなりませんでしたが、祭司たちを助けて幕屋にかかわる奉仕を行うことができました。(民数記3:6-9)


       コラはレビ人だったので幕屋にかかわる奉仕をすることはできましたが、アロンの子孫ではなかったので、祭司としての仕事は許されていませんでした。でも、コラとその仲間のレビ人の男性250人が、「香入れ」を取ってそれに「炭火」と「香を載せて」捧げるという祭司だけに許されていたことをしようとしました。(民数記16:6-10新世界訳改訂版)



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コラとその他のレビ人はモーセとアロンまた祭司の取り決めに反抗しエホバの裁きを受けた





 コラとその支持者は、祭司でなかったのに、祭司としてふるまったので、火がエホバから出て、コラとその250人の仲間を焼き尽くしました。それで、彼らはエホバに裁かれ、命を失ってしまいました。(民数記16:35)


 それで、ものみの塔誌の中には、新たに表象物にあずかる男女に対して、否定的な見方が記されており、もし、高慢になって資格もないのに祭司の立場、つまり、油そそがれたクリスチャン男女の立場に立とうとすれば、エホバ神から不興を買うことになるとみなされています。


 それで、表面的にわたしが正規開拓者を降ろされたことを聞いた人は、その種のことだとみなしたと思います。つまり、わたしが祭司級でないのに、せん越に祭司の立場に立とうとしたので、証人の中で正規開拓者の立場から降ろされて、ある程度エホバ神から裁かれたとみなされたと思います。


 でも、そのことは、証人も証拠もあるわたしの証言が不当に退けられることによってなされた裁定でした。わたしは、エホバの証人の組織の中で起こることは、それが正当な理由に基づいていれば、エホバの正しい裁きを反映する場合もあると思います。でも、不公正な扱いがされていて、エホバ神の裁きを正しく反映していない場合もあると思います。


 エホバの証人の組織の中で、立場を除かれたり、排斥されるならば、それはエホバ神の不興と裁きを反映すると考えられているのは、とりわけ、エホバの証人の統治体は、ご自分たちの権威が、モーセとアロンの権威によって表わされていると考えておられるからです。しかし、わたしはモーセの権威によって表わされていたのは、神の子メシアであるイエス・キリストだと思います。(使徒3:22,23申命記18:18,19)


 イエス・キリストの権威は、何よりも神の言葉に基づいています。それで、たとえ、神の言葉聖書に従っていれば、統治体の言うことに従わなくても、モーセによって表わされていたイエスに従っていないということにはなりません。


イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(1)統治体の権威に逆らうことはモーセの権威に逆らうことと同じですか

 

 ですから、エホバの証人の統治体の意見と同じでないとしても、聖書中のイエスのご命令とご要求に従っていれば、モーセの権威によって表わされていたイエスの権威に逆らっていません。その場合は、イエスの是認を保っていると思います。


(2)天的な希望を抱く人々に対する要求は昔祭司職に求められていた要求とは異なる



 昔は祭司職は、その血統の人に限られていました。つまり、モーセの兄弟アロンの家系の長男がおおむね大祭司として用いられました。また、アロンの子孫が補助的な祭司となりました。レビ人の男性は、祭司たちに仕えることになっていました。(民数記3:5-10)



 それで、イスラエル人の祭司たちは、特定の人間の家系から選ばれていました。結果として、その立場は間違えようのないものでした。その家系にない人が祭司の仕事を行うなら死に処せられることになっていました。(民数記3:6-10) 


 

 そして、一世紀から神の王国を受け継ぐという天的な希望がイエスによって差し伸べられ始めました。(ルカ7:28)天的な希望をとらえる者たちに対する神のご要求は、過去のイスラエルの祭司職に対する要求とは異なっています。


 祭司職の場合は、ひとつの家系だけに限定され、それ以外の人々は排除されました。天的な希望を抱く人は、何らかの家系に属していることが求められているわけではありません。彼らはあらゆる国籍、民族、部族の中でキリスト教の信仰を持つ人々の中から選ばれます。(ガラテア3:16-18)また、昔、大祭司も補佐する祭司も男性に限られていましたが、天的な希望の場合には、女性も選ばれます。(ガラテア3:28)

 



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昔の祭司と違って天的な希望は女性にもあらゆる国籍や人種の人々にも差し伸べられる





 イエスは、神の王国への召しに招かれる人は多いと言われました。「招かれる人は多いですが,選ばれる人は少ないのです」と言われています。(マタイ22:14新世界訳改訂版) すから、どちらかというと、定員よりも多くの人が神の王国に招かれるわけです。それで、このような招きは、エホバもご存知で行われているのではないかと思います。




神の王国はオーバーブッキングすなわち定員よりも数多く招かれている





 ですから、神の召しは最初から定員よりも数多く差し伸べられていますが、そのような招待を受けていること自体は間違いではありません。しかし、召しを受けた人は、忠実さを示して神とイエス・キリストの招待に値するように努力することが求められます。(マタイ22:7,8)



 例えば、アナニアとサッピラは自分たちをよく見せるために偽りを語って神の王国に入るという希望を失ってしまいました。でも、当初、彼らが神の王国の希望を与えられていたことは間違いではありませんでした。(使徒5:1-10)



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アナニアとサッピラは偽りのために神から裁かれたが彼らが天的な召しを受けていたのは間違いがなかった





 ですから、表象物にあずかっているクリスチャンのすべてが神の王国に入るわけではないとしても、それらの人々が神から神の王国を目標にするように招待されているのは間違いがないのではないかと思います。ですから、それは、勘違いとか思い込みとは言えないのではないかと思います。



(3)天的な希望を与えられる人にどのようなことが求められるのか


 では、天的な希望が与えられる人にどのようなことが要求されるのでしょうか。当然、エホバ神に対する信仰が求められ、毎日聖書を朗読するという努力が求められると思います。昔、油そそがれた王たちは、毎日、聖書を読むことが求められました。(申命記17:18,19)



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神の王国への召しを受けた人は聖書を毎日読むことが求められている



 さらに、彼らには、正しい生き方をすることが求められています。神の王国の婚宴のたとえ話の中で、イエスは神の王国に招かれた人が「結婚式の服」を身に着けることが求められることが書かれています。(マタイ22:11,12新世界訳改訂版)


 啓示の書では、新しいエルサレムの子羊の花嫁の身に着ける衣とは、「上等の亜麻布の衣服」であって、「聖なる人たちの正しい行い」であると説明されています。 (啓示19:7,8)





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王の息子の婚宴の際結婚式の衣つまり正しい行いを身に着けていない人は追い出されてしまう





                               それで、イエスの霊的な兄弟たちは、聖書の中で「神の王国を授けられることがない」「正しくない人」にならないようにする必要があります。ですから、「性的に不道徳な人,偶像を崇拝する人,姦淫をする人,同性愛行為に身を任せる人,同性愛にふける人盗む人,貪欲な人,酩酊する人」などにならないように努力する必要があります。 (コリント第一6:9,10新世界訳改訂版)



     例えば、七つの会衆のテアテラ会衆のかの女イゼベルは、天的な希望を持っていましたが、会衆内で性的不道徳と偶像崇拝を推進していました。(啓示2:20)それで、イエスは彼女の影響力を受けていた者たちを大患難に投げ込むと言われました。(啓示2:22)


 さらに、わたしたちは皆罪人なので、基本、神の律法を守る努力をしていても、完全に守れないことがあります。そのために、罪を犯した時には悔い改めて、イエスの贖いの犠牲に信仰を働かせて、その信仰のゆえに罪を許していただき、神のみ前に義なる立場を保つようにすることも必要です。(ローマ3:23,24新世界訳改訂版)

 

 

 罪を犯したなら、「悔い改め」て、故意に罪を繰り返さないように努力することが求められます。(ルカ15:7ヨハネ第一3:9,10)


 さらに、イエスが命じられたことを宣べ伝え、イエスの弟子を作る努力は求められると思います。(マタイ28:19,20)それで、家から家への個別訪問や電話での証言や非公式の証言などあらゆる手段を使ってイエスの命じられたことを行えます。



(4)油そそがれたクリスチャンに求められるのは有能であることではなく忠実であること



 油そそがれたクリスチャンは最善を尽くしますが、その能力はさまざまに異なります。また、その仕事の成果もさまざまに異なります。でも、イエスはご自分の是認される霊的な兄弟に、必ずしも有能であることを求めておられるわけではありません。


             なぜなら,エスは、「これら最も目立たない人の1人にしなかったのは,それだけ私にしなかったのです。この人たちは永遠の死を迎え」ますと言われています。(マタイ25:40,45,46) ですから、その油そそがれたクリスチャンが有能で、成果を出しているかどうか、つまり、目立っているかどうかは重要ではありません。


 イエスは、「少しの力」で、最善を尽くして神とイエス・キリストに奉仕をするならば、その忠実さに基づいて是認をされ「守る」と言われました。エスは啓示の書の七つの会衆のひとつフィラデルフィア会衆の成員を、試練の時に「守る」と言われましたが、その理由は、彼らが、「少しの力」で、「私(イエス・キリスト)の言葉を守って,私(イエス・キリスト)の名を否定」しなかったからです。(啓示3:8新世界訳改訂版)



 ですから、この聖句からもイエスがご自分が是認され保護される油そそがれたクリスチャンに求めていることは、有能で、成果を出していることではなく、「忠実」であることが分かります。また、管理人に期待されているのは忠実であることです。」と述べられています。(コリント第一4:2新世界訳改訂版) 


 また、タラントのたとえ話の中で、イエス1タラントをあずけた怠惰な奴隷以外は、5タラントであっても、2タラントであっても、能力にかかわらず忠実に増やす努力を行ったことをほめて是認しました。(マタイ25:14-23)


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主人は5タラントでも2タラントでも増やす努力した奴隷をほめたので能力や成果にかかわりなく受け入れられる




    また、その成果の量ではなく、忠実に最善を尽くすという努力をするクリスチャンにイエス・キリストが好意を向けられるという原則は、貧しいやもめがした寄付についてイエスが言われたことからも分かります。イエスは寄付箱にたくさんの寄付をした裕福な人たちではなく、「ごく小額の小さな硬貨2枚 」をささげた貧しいやもめを「たくさん入れた」とほめられました。(ルカ21:1-4新世界訳改訂版)


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エスは多額の寄付をした裕福な人ではなくわずかであっても最善を尽くしたやもめをほめた
エスは能力や成果ではなく忠実に最善を尽くすことを評価される




 エホバの証人は、「忠実で思慮深い奴隷」は、ご自分たちが有能であるという理由で、エホバの証人の統治体であると解釈しています。2017年のものみの塔誌の中でも、その理解が掲載されており、その理解は2013年以降であることが説明されています。



 しかし、エホバ神は聖霊で油そそがれたクリスチャンに最善を尽くすことは求められても、有能であることを必ずしも求められません。ですから、イエスに是認されて任命される「忠実で思慮深い奴隷」とは、能力や成果が違っても、忠実な努力を続けて最善を尽くす油そそがれたクリスチャンすべてを表わしています。(マタイ24:45-47;25:21,23)


 それで、エホバの証人の統治体の兄弟たちが、ご自分たち有能な油そそがれたクリスチャンだけを忠実で思慮深い奴隷とみなすのは間違っていると思います。




(5)エホバ神はご自分の油そそがれたクリスチャンに対する是認と不興をどのように表明して行かれるか




 油そそがれたクリスチャンと主張する人々の数はとても多く、実際にエホバに是認されない自称油そそがれたクリスチャンも存在することになると思います。わたしはエホバ神は、歴史の大きな流れの中で、自分がどの油そそがれたクリスチャンを是認されているのか、誰に対して不興を覚えているかを明らかにしていかれると思います。


 そのことは、過去にエホバ神が神の民であると主張する人々をどのように扱われてきたかということから分かります。例えば、一世紀に神から是認されている唯一の国家であると考えていたユダヤ教の人々は、エルサレムで過ぎ越しの祭りを行っていた時に、ローマの軍隊の軍事攻撃を受けて、その多くが命を失ってしまいました。


 また、昔、古代ユダの人々は、バビロニア世界強国によって滅びることを許されました。でも、その時、忠実なエレミヤやダニエルの仲間は、その滅びを生き残りました。エホバ神は、歴史の中で示されたご自分の方法とその同じ方法で、ご自分の民を扱っていかれると思います。



0jerusalem destruction2
エホバ神は古代ユダ王国がバビロンから軍事攻撃を受けて滅びるようにされることによってユダに対する不興を表明されたー同じような仕方でエホバ神はご自分の裁きを表明されるはず

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迫害されたいたが正確な預言を行っていた預言者エレミヤはエルサレムの滅びを生き残った

 




 それで、これから将来、エホバの不興を買っているキリスト教団体の本拠地となっている国家は滅びるか、大きな打撃を受けることになると思います。そのようにして、個々のキリスト教の組織に対するエホバ神の裁きは表わされると思います。


 でも、エホバ神は、ただ国家的、組織的に十把一からげにして裁かれることをされず、その中で忠実なクリスチャンには、救われる機会を差し伸べられるはずです。


(6)エホバ神は単にエホバの証人の組織以上の自称クリスチャンすなわち全世界のクリスチャンをご覧になっている


 ですから、単にエホバの証人の組織の中で、役を降ろされるとか、そこから退けられるということによってエホバの是認は示されるわけではないと思います。実際、一世紀のイエスの弟子たちは、その当時受け入れられていたユダヤ教の体制からは、排斥されました。でも、イエスの弟子たちは、ユダヤ教の体制から退けられても、エホバ神の是認は失ってはいませんでした。


 それは、なぜかというと、一言で言うと、エホバ神は忠実不忠実を問わず、その信仰が強いか小さいかを問わず、全世界のキリスト教の組織、また、自称キリスト教の会衆を見ておられるからだと思います。


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エスエホバの証人だけでなくすべてご自分を主として認めるクリスチャンを世界的な視野でご覧になる




 エホバ神とイエス・キリストがご覧になって監督されているのは、単にエホバの証人の組織だけではありません。啓示の書の中に出てくる七つの会衆は、その中に、忠実な成員と不忠実な成員が含まれていました。

 

 

 User:jobas

エスは忠実不忠実を問わず全世界の自称クリスチャンをご覧になっている

 



 ですから、エホバの証人がその七つの会衆のどこであっても、別の会衆に忠実な聖霊で油そそがれたクリスチャンが存在し得ます。ですから、神に忠実な聖霊で油そそがれたクリスチャンはどこかの七つの会衆からは排斥されても、忠実であれば、その七つの会衆のどこかで、存在し続けます。


 その中で、忠実に神のご意志を行うグループをイエスは、最終的に是認されますが、イエスの是認は、そのグループが大きいか小さいかは関係がありません。ただ、神に忠実につき従うという努力を払っていいるクリスチャンのグループは是認され、イエスの保護を受けます。


 そのことについては、以前も論じましたが、いずれまた検討していきたいと思います。

 

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(30)なぜ原水事件の時地元の会衆の長老は間違った判断をしたのか

 

 

   なぜ、エホバの証人の長老たちは、原水事件の時に、わたしと別の姉妹が異なる主張した場合に、証言の信頼性の度合いは同じはずなのに、その姉妹の方の言葉だけを正しいとして受け入れたのでしょうか。しかも、わたしの方には、証拠があったにもかかわらずにです。


イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(26)わたしヨハネは原水事件のために再び正規開拓者から降ろされる


 わたしがその主宰監督の兄弟に最初に原水事件について話した時に、原水を飲まされたことくらい小さなことだから、無視してそのままにしたらと最初に言われましたが、そのような仕方で解決を図るようにされた方が良かったと思います。

 原水事件が起きた時、地元の会衆の長老たちは、その当時表象物にあずかり始めていた私の証拠もある証言を退けて、なぜ不公正な裁定をくだしたのでしょうか。今回はその原因を考えてみます。


(1)最大の原因は統治体の指導のため-油そそがれたクリスチャンに対する処遇が永遠の命かどうかを左右するという認識の欠如



 やはり、新たに表象物にあずかる人は、勘違いで表象物にあずかっているのではないかというものみの塔誌の注解は、長老たちの新たに表象物にあずかった私に対する処遇に大きな影響を与えたと思います。

 

 何度も指摘しましたが、エホバの証人1914年説のために近年、新たに表象物にあずかった人に対しては、疑いを抱いて、思い込みであずかったとみなされる傾向が強いです。


 新たに表象物にあずかる人たちに対する疑いはわたしが表象物にあずかり始めた二十数年前頃だけでなく、近年のものみの塔誌にも記載されています。ものみの塔20161月研究記事にも、表象物にあずかった人の数には,自分が油そそがれていると誤解している人の数も含まれています。」とあります。

 

 そして、表象物にあずかる人たちに見方について注解したものみの塔誌の記事は、その人に対する扱いが永遠の命か永遠の死かを分けることになるというイエスの言葉にほとんど注意を向けていません。(マタイ25:40,45,46)




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エスは永遠の命か死かはイエスの霊的な兄弟たちに親切に協力するかどうかにかかっていると言われた




 実際、表象物にあずかっている人の数が、オーバーブッキングになっているのは事実だと思います。イエスも、「招かれる人は多いですが,選ばれる人は少ない 」と言われました。(マタイ22:14)それで、神の王国をめざす多くの人の中で目標に達する人はその一部に過ぎません。


 ですから、新たに表象物にあずかった人が、エホバに召されているかどうか、神に是認されているかどうか分からないかもしれません。しかし、その中には真正な油そそがれたクリスチャンも含まれているでしょう。

         その表象物にあずかる人が能力があって、目立つか目立たないかは重要ではありません。イエスは、「これら最も目立たない人の1人にしなかったのは,それだけ私にしなかったのです。この人たちは永遠の死を迎え」ますと言われているからです。(マタイ25:40,45,46)


(2)表象物にあずかる人は自分を吟味しなければならず他の人はその人が神に忠実であるかどうかを見ながらその立場を尊重できる


 確かに、表象物にあずかる人は、自分を吟味しなければ、「自分への有罪判決を食べて飲む」と書かれているのは事実です。その言葉の意味は、食事をするように「不適切な態度で」気軽に表象物にあずかってはならないということも意味しています。(コリント第一11:27-29)それで、確かに表象物にあずかることの意義を十分認識しないで食事をとるような仕方で「不適切な態度で」表象物にあずかるならば、当人はエホバに罪を犯すということにはなると思います。




 イエスの霊的な兄弟たちは、聖霊を注がれ、聖霊バプテスマを受けます。(使徒1:5)エホバ神は、ご自分の霊的な子は特別に扱われ、特別に支援されます。(ローマ 8:28)それで、イエスの霊的な兄弟たちは、自分が油そそがれた神の子であるという自覚を持っています。(ローマ 8:14-16。ガラテア4:6)他の人は、そのような状況をすべて判断できるわけではありません。



 今日では、一世紀のように聖霊を頭の上の火として見ることができるわけではありません。(使徒2:3,4)また、聖霊がそそがれている証拠として、奇跡を行うこともできません。





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今日天的な召しを受けた人に異兆があったり奇跡が行なえたりすることはない




 それで、基本、その証拠は、当人が神の律法を守り忠実に宣教を行って神のご意志を行っていることでしか見分けることはできません。それで、表象物にあずかる当人は確かに自分を厳しく吟味しなければならず、それが分かるのは、表象物にあずかる当人だけかもしれません。



 そして、昔の事例を考えるとダビデは、油そそがれた者サウルが死ぬまで、できる限り「油そそがれた者」として敬意を払いました。(サムエル第一24:6)また、パウロエルサレムの長老団がエホバ神のみ前で霊的に危険な状態にあった時も、できるだけ敬意を払い、そのことはイエス・キリストに受け入れられました。




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ダビデが油そそがれた者サウルに敬意を払ったことは神に是認された





 このことを考えると、厳しく吟味するのは、当人だけであって、他の人の場合は、その人が神に忠実であろうとする努力が見られ、表象物にあずかっているのであれば、その立場を尊重することで、間違いがないのではないかと思います。


 油そそがれた者サウルの場合、エホバに非とされてからも、エホバ神に忠実を示す部分もありました。例えば、サウル王はモーセの律法の要求通り、霊媒イスラエルから除き去ることもしました。(サムエル第一28:3。レビ20:27)それで、サウル王は王位を失うことになっていましたが、それでも長く王位にとどまりました。


 しかし、サウル王は晩年はエホバに完全に信仰を失い不忠実になって、霊媒に相談に行きました。(レビ20:6。サムエル第一28:7,8)それで、エホバの是認を完全に失っていました。



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サウルは霊媒を除いたにもかかわらず霊媒に相談に行き神に不忠実になったことを完全に示した





 サウル王がエホバに不忠実になっていることを見ることができていたのに、それでも、サウルに付き従っていた人々は、サウルに率いられてフィリスティア人と戦った時、命を失いました。サウルと共に、あの忠実な信仰のあるヨナタンでさえ、時ならぬ死を迎えました。(サムエル第一31:1,6)


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ナタンは最後まで不忠実な油そそがれた者サウルについていたのでサウルと共に命を失ってしまった





 ですから、その油そそがれたクリスチャンが基本、神に忠実であるのであれば、極力その立場に敬意を払って、親切をすることには何も間違いがないと思います。その聖霊で油そそがれたクリスチャンが確かに、聖書中に要求されている事項に従っているのかどうかということをよく見て、判断する必要があります。


 反対に、忠実であるよう努力している天的な希望を表明する人に対する否定的な見方のために何もしないどころか、不親切な扱いをする人は、永遠の命と復活の見込みを失います。ですから、そのような危険を犯すよりは、親切にしている方がましだと思います。


 クリスチャンは、誰かに親切にすることによって何か間違いをすることにはなりません。クリスチャンは互いに愛し合うようにと命じられているわけですから。(ヨハネ 13:34,35)


 それで、天的な希望を持っていることを表明しているクリスチャンたちに対しては、注意を払って、親切に協力する方がいいのではないかと思います。それで、その立場が少なくとも地元の会衆では知られているのがいいのではないかと思います。


 

(3)物質的な贈り物やもてなしは判断を間違わせることがある



 原水事件の会衆の主宰監督は、自分を好意的にもてなしてくれる姉妹の言うことは、正しいことを言っていると考えやすかったと思います。人は、自分に物質的な贈り物をしてくれる人の証言の方を、どうしても、正しいものだと考えがちです。

 聖書の中にも、自分によくしてくれる人が他の人を中傷をした時に、あの神を恐れたダビデがその人に不公正に有利な裁定を下したという例があります。



 ダビデが逃亡状態から再び王として戻ることができた時に、サウル王の家の僕ヂバは、いち早くダビデにたくさんの贈り物をしました。そして、ヂバはサウル王の息子メピボセテに関して中傷しました。ヂバは、メピボセテについて、ダビデが苦難にあったことが自分に有利になると言っていたと、うそを言いました。(サムエル第二16:1-4)


 ダビデはヂバの証言の方を信頼しました。後で、ダビデはメピボセテの弁明を聞きました。メピボセテは、ダビデを心配して一緒に行きたいと思っても、足がなえていたのでダビデの支援に行けなかったと言いました。(サムエル第二19:24-27)そして、メピボセテはヂバが自分を中傷したと言いました。


 しかし、ダビデは、本来メピボセテのものであった資産の半分を、ヂバにやるようにとメピボセテに命じました。そのようにして自分に贈り物をしたヂバの言葉に基づいて裁定をくだしました。(サムエル第二19:29)



 ヂバはメピボセテの僕であって、彼が持っていた資産は、サウル王やヨナタン、またメピボセテの資産でした。ヂバは、その資産を用いてダビデに物質的な贈り物をすることができました。それでダビデの裁定はメピボセテに対して、不当で間違った裁定でした。(サムエル第二19:29)そして、ヂバは贈り物はメピボセテと自分からのものだと言うこともできました。しかし、ヂバは偽証しました。おそらく、ヂバは、身障者のメピボセテに見下していて、ダビデから好意を得て、自分の立場を良いものにしたかったのでしょう。


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ヂバのたくさんの贈り物のためにダビデはヂバの偽証を信じた





 ヂバは油そそがれた者ダビデに実際的な援助を与えたことに対して、報いを得たとは言えます。(サムエル第二19:17)でも、ダビデは、ヂバの偽証を信じた、あるいはうそを見逃しました。


         物質的な贈り物は、ダビデのような賢明な人の判断でさえ盲目にならせて間違わせがちだというのが現実なのではないかと思います。聖書は「賄賂によって,賢い人も目が見えなくなり,正しい人の言葉もゆがむ」と述べています。(申命記16:19)



(4)長老たちの間違った判断につながった男性としての感情


 そのマンションに住んでいたわたしに原水を分けた姉妹は、長老たちから好意を得たいと願っていて、以前特開者として任命されていた長老たちを自宅で食事に招いていました。それは、間違ってはいないと思います。長老たちに感謝を表明するのはふさわしいです。


 その後、片方の特開者の兄弟は別のところに移られ、もうひとりの特開者の兄弟は正規開拓者になって会衆に残りました。その当時、その正規開拓者の兄弟が主宰監督だったと思います。


 その兄弟は、わたしをできるだけ目立たなくさせようとされていたと思いますが、わたしが奉仕をがんばっていたことは気づいておられました。そして、わたしはまだその当時、若かったので、その兄弟はある程度、わたしに異性としての関心を持たれたのではないかと思います。


 その当時は、何度も会衆の群れの編成があって書籍研究が行われたのですが、わたしを含めて独身の姉妹たちは、そのたびにいつもその独身兄弟と同じ書籍研究の群れに割り当てられました。


 わたし自身としては、その兄弟に異性としての関心は、全然なかったので、いやだなと感じていました。それで、その兄弟はわたしの意向に気づいたと思います。そのことも、その長老兄弟がわたしに不利になる裁定をすることにつながったかもしれないと思います。


 聖書の中で、求愛が受け入れられなかったり、抵抗されたりすると怒りを生じさせると言う例が記載されています。


 ボテパルの妻は、端正な顔立ちをしたヨセフに情欲に基づいた愛を抱きました。そのため、その妻は何度もヨセフに言い寄りました。ヨセフは何度も主人の妻の求愛を退けました。


 ある日、その妻は、ヨセフに一緒に寝るよう迫り、ヨセフはその衣を彼女のもとに残して逃げていきました。それで、その妻は、ヨセフに対する怒りを表わしました。そして、ヨセフが自分を犯そうとして、衣を残して逃げて行ったとうそを言って、ヨセフが投獄されるようにしました。(創世記39:7-20)



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ボテパルの妻はヨセフに拒まれたので彼への愛は怒りに変わった





 ですから、ボテパルの妻は、ヨセフに対する求愛が退けられたので、彼女のヨセフに対する愛は、憎悪に変わりました。情欲に基づく愛は、拒まれると怒りを生じさせます。


 他にもタマルをレイプをしたアムノンがタマルに徹底的に抵抗され、タマルが正しいことを言ったたために、アムノンのそれまでのタマルに対する愛が憎悪に変わったことも聖書に書かれています。(サムエル第二13:12-15)



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アムノンはタマルを愛していたがタマルから抵抗され正しいことを言われたのでタマルを憎むようになった




 それで、普通、男性は、自分の好意に応じる女性に対しては、好意をもって応じますが、異性としての好意を退けられたり、もっともな正しいことを言われると相手に対して怒りを抱くようになることがあります。職場で、上司が異性の部下に関心を示して、それを断ると職場での待遇が悪くなるというような経験を聞きます。


 それで、ある程度、権威のある立場にある男性はその怒りのために権威を不当に乱用することがあると思います。こうしたことは、結構、普通に起こることなのではないかと思います。


 それで、わたしがその独身長老兄弟に好意を抱いていれば、良い待遇を受けられたのかもしれませんが、そうでなかったので、わたしに不利な裁定がくだされたのかもしれません。


 さらに、普通女性は立場が低く権威がないので、長老などの資格のある人との結婚は、その女性の立場を向上させるという考え方があります。それは、現実かもしれませんが、わたしの場合は、独身の立場で、聖書を研究して神のみ前で霊的な報いを得ることや神への奉仕をすることに何よりも喜びを見出していました。



 さらに、わたしに起きたことは、エホバの証人の間で、大群衆の長老が過度に高められていること、彼らのすることが自動的奇跡的に正しくはならないということを証明していると思います。


  それで、統治体の兄弟たちは、大群衆の長老たちに信頼しているために、彼らがいつも神を恐れて聖書の原則に調和して行動していると考えています。しかし、会衆の大群衆の長老たちは、統治体の兄弟たちの信頼にこたえる長老もいれば、聖書の原則を考慮しないで、自分たちの権威を乱用したり、間違った判断を下す長老たちが存在するというのが現実であると思います。


(5)新たに引っ越したアパートであからさまに注目されていたこと


 原水事件の起こった私の住んでいたマンションは、とても快適だったのですが、そのマンションでストーカーの問題が起きました。そのため、その近隣の賃料の少し安いアパートに引っ越しました。それで会衆は、原水事件の起きた隣の会衆に移りました。アパートの部屋は狭くなりましたが、賃料が安くなったので、わたしは経済的に少し楽になりました。


 新たに引っ越したアパートでは、わたしのアパートの部屋の窓に向かって近くにあからさまにカメラが設置されました。それは、はっきりと見えました。統治体の依頼でそのことが行われたのか、あるいは統治体の依頼で以前のマンションで盗撮をしていた一般の業者が自主的にそうしたのかもしれません。分かりません。それで、わたしは何らかの形で、ネットにのっていたのではないかと思います。


 でも、たぶんわたしに良くしようと考えておられた統治体の兄弟たちも数少なくてもおられたのではないかと思います。それが、出版物に書かれていることや、周りで起きることから感じました。引っ越したその会衆にその当時おられた既婚者の長老の一人は、そのような形でわたしが注目されていたことをご存知だったように思いました。


 いずれにしても、統治体の兄弟たちは、様子を見てみようと考えておられたのかもしれません。また、次に詳細に検討したいと思いますが、統治体の兄弟たちは、エホバの証人の組織だけが、唯一の神の組織だと考えておられたので、わたしが真正の油そそがれたクリスチャンであれば、組織の中で、頭角を表わしてくるのかもしれないと考えておられたのではないかと思います。


 そして、もし、真正な油そそがれたクリスチャンでなければ、組織から排斥されることになるのだろうと考えて、様子を見ていこうと考えたのかもしれません。このことは、また、別の機会に考えてみます。


 わたしは近隣の別の会衆で、以前の会衆のことに一切触れないで新生活を始めました。わたしは以前の会衆で起きたことを一切説明したり、訴えようとも思いませんでした。新たに交わり始めた会衆の長老たちは、親切で常識的な長老たちに見えましたが、わたしの話をまったくまともに聞いていただけない可能性も高かったからです。


 確かに、七つの星が大群衆の長老ではなく、油そそがれたクリスチャン男女を表わしているというわたしの聖書の理解は、統治体と異なるものだったので、そこの長老たちにも受け入れられない可能性があったと思います。(啓示1:20)


 わたしは以前の会衆で起きたことを話しませんでしたし、わたしに関して否定的な会衆の申し送りの書類が後で届いたはずですか、ある長老とは普通に話すことができました。


(6)七つの星の実体は大群衆の長老ではなく油そそがれたクリスチャン男女であるという事は受け入れられていなかった 


 また、実際わたしはエホバの証人であった間には、自分がエホバの証人の会衆の中で経験したそうした不当な扱いを話しませんでした。今、排斥されて十年以上経ちますが、初めて説明しています。


 また、実際、大群衆の長老のすることは、何でもイエスの導きで行われることで、自動的奇跡的に正しいことになると考えられていたので、たとえ説明しても理解されなかったと思います。


 そして、今でもエホバの証人の間では、イエスの右手の上にいる七つの星は大群衆の長老であるとみなされていると思います。(啓示1:20)わたしはエホバの証人の出版物の中で、七つの星は聖霊で油そそがれたクリスチャン男女であるという説明は見たことがありません。


(7)誰が偽預言者とみなされるか


 ものみの塔20161月の記事の中には、『サタンは,「偽預言者」を起こし,「できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとして」いるのです。(マタ 24:24)』という 記載があります。ですから、新たに表象物にあずかり始めたクリスチャンがサタンによる影響を受けた「偽預言者」であることが示唆されています。 


 わたしは聖書の預言の解釈についてエホバの証人とは異なったことを主張しています。でも、わたしが偽預言者であることはまだ、証明されていません。なぜなら、わたしはダニエル書や啓示の書の預言が今から先将来にわたって成就していくと解釈しているからです。また、わたしはおおむね聖書預言のあらすじは理解しているとは考えていますが、まだ聖書の預言全体を解釈し終えていません。


 一方、エホバの証人の統治体は、初代の会長CTラッセル兄弟の頃から、すでに世の終わりと千年統治の始まりを何度も予告されました。しかし、統治体の兄弟たちの予告は何度もはずれました。それで、わたしはエホバの証人の統治体が、エホバ神への信仰に関して誠実だと考えたいと思っていますが、現状は、エホバの証人の統治体の方がエホバ神から「偽預言者」とみなされかねない状況になっていると思います。

 



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ラッセル兄弟は聖書の真理をかなり回復させたが世の終わりに関する預言に関しては偽預言者となった




 それで、エホバの証人の統治体の新たに表象物にあずかり始めた人に対する否定的な見方が当時、その原水事件の起きた会衆の大群衆の長老たちに影響して、証人や証拠さえあったわたしの証言に疑いを抱かせたのではないかと思います。



 

 それで、わたしを正規開拓者から降ろした長老たちは、わたしの油そそがれた姉妹であるという立場を疑問視して、わたしが、表象物にあずかるのを妨げる、あるいはできるだけ他の人の目に触れないところで表象物にあずかるようにされたと思います。


 しかしながら、原水事件は、今からおよそ17年前になると思います。それで、関係者の長老たちや姉妹が今起きたことを正直に認めるかどうかは疑わしいです。でも、彼らが否定しても、わたしは本当のことを話しています。



 わたしは必ずしもエホバの証人の組織の反対者ではなく、良いところは認め、間違っていることははっきり指摘するという立場です。証人たちの神エホバと聖書に対する信仰は間違っていないと思いますし、彼らが、神の律法を守る努力や宣教を忠実に行う努力を払っていることを高く評価しています。


 わたしは、証人の組織について偽りを語って自分がエホバ神に非とされたいと思っていませんし、エホバ神と聖書に対する信頼を損なおうとも思っていないからです。それで、わたしがもし真正な油そそがれたクリスチャンとして最後まで忠実を保ち、イエスの是認を保つことになれば、原水事件の関係者に神の是認と永遠の命はないと思います。


(8)個人的に中小都市から東京に引っ越す


 わたしが原水事件の後に引っ越した会衆の成員はとてもまじめで良心的で慎み深い成員が多かったので、そこにとどまっていたら良かったかもしれないです。でも、そのアパートでも、詳細は述べませんが、問題が起こりました。簡単に言うと、引き続きストーカーの問題がそこでも起きました。


 そのストーカーの問題があり、また、中小都市や田舎にしか住んだことがなかったので、都会のビジネス街の奉仕をしてみたいという動機もありました。まだ気持ちが若くて新しいことにチャレンジしたいという気持ちがありました。


 わたしが英会話の講師の仕事をしていた公共施設の男性職員が、わたしがその地域で英会話の講師としてうまくやっていけているのは、例外的な事で、他ではそうはいかないと言われました。その男性職員の言う通りでした。経済的な観点だけから見れば、まだ、その中小都市にとどまって、英語力の研さんに励んでいれば良かったです。


 その中小都市では、英会話の生徒が割と多く、英会話の講師としてはうまくやっていました。そして、生徒さんの男女を組織して、一緒にニューヨークに旅行して、メトロボリタン美術館や国連を尋ねたり、自由の女神像を周遊する船に乗ったり、エホバの証人の本部を訪問したりしました。それは良い思い出になりました。生徒さんが割といたその地域にとどまって英語の研さんに励んでいた方が経済的には賢明でした。


 わたしは東京に引っ越しました。そして、東京で、エホバの証人の会衆に交わりながら、私は聖書朗読を毎日続けました。希望通り、ビジネス街の奉仕ができました。そして、わたしは東京で聖書の預言の解釈について新しい啓発をエホバ神から受けることになりました。


 それは、先回の記事イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(29)わたしヨハネは大いなるバビロンが米国であることにどのようにして気づいたかで述べた通りです。

 

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(29)わたしヨハネは大いなるバビロンが米国であることにどのようにして気づいたか

  わたしは、原水事件の後、エホバの証人の隣の会衆に移りました。その後、東京に引っ越して、やはり、エホバの証人の会衆に交わって奉仕をしていました。そして、東京で、聖書朗読を毎日続けました。そして、わたしはエホバ神から東京で聖書の預言の解釈について新しい啓発を受けることになりました。



(1)わたしヨハネは東京に引っ越した後どんな状態だったか


 わたしはノートに自分の聖書からの黙想を記していました。わたしがノートに書いていたことは、他の人たちが何らかの仕方で見ることができるようになっていたようです。わたしがノートに書いていた内容を会衆のある姉妹がご存知でした。以前と同じようにカメラがどこかで設置されていて、わたしの状況が外部から観察され、ネットに載っていたのかもしれません。


 ところが、わたしは東京ではその空気や水のために体調がとても悪く、以前のように活発に奉仕ができませんでした。半日寝込んでいることが多かったです。たとえ、伝道者であるとしても、元気であれば、奉仕をできるだけ捧げるということはできましたが、体調が許しませんでした。それで、わたしの体は大都会の真ん中の環境にはついていけないことが分かりました。


(2)東京で聖書朗読を続けた結果大いなるバビロンは米国であると気づく


 ところで、エホバの証人は聖書巻末の書啓示に出てくる大娼婦大いなるバビロンを偽りの宗教の世界帝国だと言っています。(啓示17:3,5)つまり、大いなるバビロンをキリスト教イスラム教、ヒンズー教、仏教などさまざまな宗教組織すべてだとみなしています。そして、まもなく現在の国連がそれらの諸宗教の団体を軍事攻撃して滅ぼしてしまうと教えています。(啓示17:16)

 



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エホバの証人は啓示の書の大娼婦大いなるバビロンは証人以外のさまざまな宗教組織を表わしていて政治的な獣から滅ぼされると解釈している





 わたしは以前はエホバの証人のその解釈を信じていました。一時は、納得のいく解釈だと考えていたので、証言できる人々にはそのことを積極的に伝えていました。国連がまもなく宗教組織を滅ぼす時が来ると信じていました。


 しばらくして、ある時、ダニエル11章の北の王が南の王を最終的に滅ぼしてしまうという記述は聖書巻末の啓示の書にある緋色の野獣が大いなるバビロンを滅ぼすという記述と、同じことを言っているはずだということに思い当たりました。なぜなら、聖書の中で片方で述べる最高潮と別のところで述べる最高潮とはおおむね同じことを言っているはずだからです。


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0babylon the great11










ダニエル書の預言と啓示の書の預言は同じことを述べているはずことに思い当たる

 




 なぜなら、聖書は全体で調和した一貫したことを述べているはずです。つまり、啓示の書の最高潮のひとつは、緋色の野獣による大娼婦大いなるバビロンの滅びです。(啓示17:16)また、ダニエルの預言の中のひとつの最高潮は北の王による南の王の滅びです。(ダニエル11:40,42)それで、聖書は同じことを表現の仕方を変えて言っているはずだと思いました。




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ダニエルの預言は北の王と南の王が勢力争いをして北が南を滅ぼすことを預言している

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啓示の書の預言は緋色の野獣が大娼婦大いなるバビロンを滅ぼすことを預言している




 

 

 なぜなら、聖書はただひとりの神の霊感を受けて書かれた本だからです。(テモテ第二3:16)聖書は全体で調和した一貫した音信を伝えているはずだからです。それで、大いなるバビロンは南の王である米国であると思い当たりました。




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聖書はひとりのエホバ神によって霊感を与えられているためその音信は聖書全体で調和しているはず





 わたしはこの発見に大ショックを受け、私を精神的にとても落ち込ませました。米国が滅んでしまうらしいということにわたしは驚愕しました。わたしはかなりの期間とても落ち込んでしまって何もする元気がなくなり、ルーティン以外の活動ができませんでした。そのため、東京で車の免許の更新に行けずに、車の免許を失ってしまいました。しばらくは、米国の言語である英語を勉強する元気もなくなっていました。

 その頃は、わたしは東京の生涯学習センターの図書館に通って、興味のある本を借りて読みました。そこには、おそらく、わたしが田舎では読むことのできなかったであろうとても興味深い情報を載せた本類が置かれていました。米国に関する情報を良くまとめた書籍もありました。わたしが図書館で読んだ本は、その時発見した大娼婦大いなるバビロンが米国であるという理解の裏付けにもなりました。そして、自分の聖書預言の解釈と世界情勢が合致していると思いました。


 またわたしは最初は、大娼婦大いなるバビロンを攻撃することになる緋色の野獣は、国連だと考えていました。わたしが読んだ別の一冊の本は、国連と米国が仲が悪いことを説明した本でした。それはわたしには驚きでした。ニューヨークにある国連と米国政府は良い関係にあると思っていましたがそうではなかったようでした。それで、緋色の野獣が大娼婦を軍事攻撃することは、ありえると思いました。


 でも、後になって緋色の野獣は国連ではなく、将来現れる国際組織であるとみなすようになりました。つまり、将来のその国際組織は、現在の国連がいったん無くなってから現れることになっていると今は考えています。(啓示17:8)


 わたしは、世界情勢にとても疎かった人でした。わたしは低収入だったので、テレビの受像機を持っていませんでした。テレビの受信料も新聞代も払っていませんでした。それで、テレビも長年見ておらず、新聞も読んでいませんでした。その上、両親に買ってもらった高額なパソコンも壊れてしまいました。修理をしたら良かったのかもしれませんが、わたしは修理代を払えませんでした。そのために、わたしは世界情勢をほとんど知りませんでした。


 エホバの証人は世のものではないということが強調されているので、出版物に書かれていないことにあまり注意を払いません。それで、世間で起きるニュースにほとんど注意を払わなくても、それで済んでいました。


 結局エホバ神は経済的に貧しく世界情勢に疎いわたしが、あらゆる手段で世界の現実の状況に目を向けるように助けてくださったと思います。それで、東京に引っ越したのは、生計を立てる点ではマイナスだったのですが、そのような本を読むことによって、自分の解釈にある程度確信を持つことになりました。


 もちろん、エホバの証人は、世界で起きている出来事にまったく無関心であるというわけではありません。エホバの証人は今が終わりの時だと考えていて、現在の世界の事象がそれを裏付けていると言っています。


 でも、エホバの証人の出版物は、ニュース雑誌ではありませんから、証人の出版物を読むだけでは、世界で起きていることを知ることはできません。そして、エホバの証人はテレビなどを悪魔サタンの用いる媒体であると教えています。確かに、扱う番組の内容が殺人や性の不道徳や暴力や心霊術である場合、その通りだと思いますが、私は証人の出版物だけでは世界の実情を知るには不十分だと思います。


 そして、聖書の預言は諸国家の動きにフォーカスしていますが、エホバの証人は、預言の解釈の中で宗教組織に注目していて、フォーカスしているところが間違っていると思います。



0daniel prophecy2
聖書の預言は諸国家の移り変わりにフォーカスしておりそれは啓示の預言も同じはずなので緋色の野獣も大娼婦も政治的な実体のはず






 それで、エホバの証人の成員は、統治体の聖書の解釈に信頼を置くあまりに、統治体の言うことをそのままうのみにして世界の現実をあまり見ない人が多いのではないかと思います。



 それで東京に引っ越したことは経済的にはマイナスでしたが霊的にプラスになりました。そして、大いなるバビロンが南の王であるということが分かった後に母親が実家に戻るよう勧めたので、自分の実家に戻りました。


 

(3)わたしは何かのビジネスに巻き込まれたようでした


 この経験をお話しすると、わたしは頭がおかしい人だと誤解される恐れがあるので、わたしはほとんどこのことを他の人には話しません。でも、この機会に話そうと思います。わたしが東京で大いなるバビロンが南の王の米国であることを気づいてから数か月後、わたしは頭の中で複数の人々の話し声が聞こえ始めました。最初はびっくりして、ちょっとそれこそ悪霊ではないかと思いました。


 でも、それは、悪霊の声ではないと思います。また、幻聴ではないと思います。その声をわたしはマインドリーダーmind readerと呼ぶこともあります。なぜなら、その声は、わたしの心の中の考えを読み取るからです。わたしが本を読むと、その声も本を読むことができます。また、わたしが道路の標識を読み取るとその声もそれを読み取ることができます。ですから、その声は、わたしの脳と何らかの形で連動しているのだと思います。


 その声の主は、わたしの視覚や聴覚や味覚や触覚などが分かるようです。でも、このマインドリーダーたちは、わたしの考えからかなり影響を受けているとしても、彼らの独自の考え方、意見、価値観、個性を持っています。彼らはわたしとさまざまな点ですべて意見が一致しているわけではありません。最初はとりわけ、わたしとの考え方との相違がひどかったように思います。でも、わたしは聖書に基づく自分の考え方を説明するようにしたので、彼らは、今では少しは、わたしの考え方を理解するようになったかもしれません。


 最近は脳科学が発達していて、何らかの形で、わたしの脳の働きが読み取られていると思います。今では亡くなったある物理学者が声が出なかったのですが、その物理学者の考えをパソコンを使って声にすることができたということを聞きました。それで、その種のことだと思います。


 でも、このことはそれをしていいですかというわたしの了解を得て始まったわけではなく、それが何を意味するのか前もって説明されたわけでもありません。突然、始まりました。わたしは前もって説明されていたなら、断ったと思いますが、始まってしまって、わたしは利点もあると思うので、必ずしも自分に起こっていることに反対していません。


 でも、その声は、単にわたしの考えを読み取ることだけではなく、自分たちの考えや経験を話すことができます。わたしは最初のうちは、その声が話すことに振り回されました。でも、その声はうそを言うことがあるように思えました。その声が話すことを確認してみると違うということがありました。


 わたしにとっては、ラジオのニュースがいつも聞こえているようなもので、ニュースに振り回されているわけにもいきません。それで、わたしは最初は聞こえてくることにだいぶ振り回されていたのですが、その声にあまり構わずに生活するようになりました。それで、その声はわたしの考えを反映していることも多いのですが、その声はマインドリーダーたち自身の考えを話していることもあります。


 そして、そのマインドリーダーの声を聞くことができる人たちが他にいて、同じようにわたしの考えを分かる人たちがいます。それらの人たちは、わたしの思いに関するビジネスのお客さんになっているのではないかと思います。それで、わたしが見聞きしたり経験していることが分かる人々がいるということになります。


 でも、わたしの見聞きしていることを知ることができることは、利点もあります。つまり、わたしは聖書を読んだり、聖書について考えたりするので、一般の日本人にはなじみのないキリスト教や聖書について知ることができます。


  わたしの見聞きすることを同じように見聞きできる人たちは、必ずしも、わたしと同じ考え方になるわけではありません。なぜなら、同じことを見聞きしても、人によってその受け取り方はさまざまだからです。


 

 エホバの証人の長老たちの中には、それを知っている人たちがいて、昔、わたしが心あるいは脳を読み取られている姉妹ですかと確認された長老たちがいました。わたしはそれを認めました。また、マインドリーダーの声が分かる人は、一般の人々の中にもいるようです。中には、わたしの周囲の人々の中に、そのことを正直に認める人がいて、その状況を説明する人もいます。でも、わたしはそのことをつっこんで、確認したりすることはしていません。

 


 おそらくマインドリーダーたちはわたしと同じ意見の場合があり、またわたしとまったく反対の意見の場合があります。聖書は、「心に満ちあふれているものが口から出ます」と述べています。また、「あなたは,自分の言葉によって正しいと認められ,自分の言葉によって有罪とされます」と述べています。(マタイ7:34,37新世界訳改訂版)


 ですから、私たちは自分の主張をその口で語ります。そして、その口で語られたことはその心にあるとみなされます。エホバ神はその口から出てくる言葉で裁くと述べています。


 聖書は同性愛に反対しています。聖書は、「同性愛行為に身を任せる人,同性愛にふける人」などの 「正しくない人が神の王国を授けられることはない」と述べています。 (コリント第一6:9新世界訳改訂版)


 そのマインドリーダーたちは、おおむね同性愛を行っているということが多いです。わたしは聖書に従うクリスチャンですから、同性愛は反対で、そのことをはっきり口で表明しています。同性愛を唱道しながら、エホバ神からの是認と保護を受けることはできないと思います。


 

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マインド・リーダーたちは同性愛を推進しているので神の是認と保護はない

 

 中には、わたしの周囲の人々の中に、そのことを正直に認める人がいて、その状況を説明する人もいます。でも、わたしはそのことをつっこんで、確認したりすることはしていません。わたしは、ふだんは、そのことにほとんど言及しません。わたしの心を読み取ることができる人たちに、トラブルが及ぶ可能性があると考えたからです。


 なぜかというと、大いなるバビロンが米国であるというわたしの解釈は、国家主義の強い普通のアメリカ人にとっては不快で受け入れがたいもので、反発を招くものではないかと考えたからです。わたしの解釈について知るようになる人は、わたしと全く同じ考え方をするわけではないので、その解釈に反発する人もいるのではないかと考えました。それで、わたしの聖書の解釈を知る人たちが、問題に巻き込まれるのではないかと考えたので、普通そのことについてつっこんで問いただしたりはしません。


 

  でも、聖書は、エホバの「教え」を忘れず、神の「おきてを心から守る」ならば、「長く生きて平和な日々を送れる」と保証しています。 (格言3:1,2新世界訳改訂版)聖書に忠実につき従う人が不死身であるというわけではなく、イエスは一部のクリスチャンは苦難を経験し、迫害のために命を失うことさえあると言われました。またそれは世間で不人気な生き方かもしれません。

 でも、神に頼り聖書に忠実に従う生き方は、総合的には、生存率が高い生き方であり、最終的には、救いという最善の結果をもたらす生き方だと思います。 (マタイ24:9,13) 基本的に聖書に忠実につき従う道は、命の道であり、神からの是認と保護を得られる道だと思います。

 

 でも、信仰が欠如するとそのような考え方をしないと思います。


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聖書に忠実につき従う道は歩む人が少なくても命につながる道




 

 でも、この私が巻き込まれたことは、人によっては弊害があるように思います。女性の感覚が分かるので、性の不道徳に陥る人もいるようです。そのようにすると、エホバ神の是認と保護を失います。さらに、マインドリーダーたちの声を聞ける状態を保つために、食事をしない人たちがいるようです。栄養不良になるならば、その人の健康と良い感情を保つ点で、マイナスになります。


 わたしは自分の裸を見ないようにしたり、自分の排泄物を見ないようにして、わたしの考えや経験を見聞きすることができる人たちにできる限り不快な思いをさせないようにしています。それで、わたしは自分が巻き込まれていることから、人々が益を受けても、弊害を経験しないように希望しています。


 それで、わたしは東京で大いなるバビロンの実体が、ひとつの国家、米国であることに気づきました。そして、わたしは東京で、あるビジネスに巻き込まれました。そして、わたしはそのことを実家に帰って聖書を研究して考え続けました。(続く)



 

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(12-3)もし統治体の言う通りロシアが米国を攻撃する場合に中東のイランなどと連携するならどのような結果が予想されるか

 

   エホバの証人は、現在北の王がロシアであると主張しています。そして、ロシアがダニエル1140節を成就することを予期しています。エホバの証人の言う通りだとすると、まもなくロシアが米国に軍事攻撃をかけることになります。


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   ロシア側が他国と連携して米国を軍事攻撃すると結果はどうなりますか







 そして、ロシアは中国などと共同戦線を張るかもしれません。そして、その場合、ロシアは、イランなどの中東の国と共同して行動することになるかもしれません。その場合、どのような結果が考えられるでしょうか。しかし、それがロシア側の勝利となる場合でも、それがお勧めできる進路でない理由を今回はご説明したいと思います。


(1)ロシアが他の中東などの国と連携して米国を軍事攻撃する場合どうなるか


 それでは、もし、ロシアがイランなどの中東のどこかの国と連携して、米国を攻撃することになるとどうでしょうか。そうすると、イランが北の王であるということになるでしょうか。その場合は、ロシア側が勝利を得るという事態が起こることも考えられます。


 なぜなら、ダニエル1122節では、「契約の指導者」イエス・キリストが砕かれて贖いの犠牲を捧げることが預言されています。そして、その次の節からは、預言は終わりの時に飛びます。そして、わたしはダニエル1123節以降が今から成就することになると考えています。そして、北の王は今から頭角を表わして「強大な者 」になっていきます。(ダニエル11:23新世界訳改訂版)


 そして、ダニエル書では、北の王は、南の王に対する一回目の軍事攻撃で、おおむね勝利を収めることになっています。(ダニエル11:24,25)しかし、一度目の軍事攻撃は、停戦と平和会談で終わることになると思います。(ダニエル11:27)

 

 




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北の王は一度目の南に対する軍事攻撃でおおむね勝利することが預言されている



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Rita.harut.
イランは旧アレクサンドロス大王の分かれた四つの王国の領土になっているので北の王になる可能性がある






 

 

 そして、北の王は、アレクサンドロス大王の領土に含まれていた国家から出てくることになっています。(ダニエル8:8,9)それで、イランであれば、その領土は、北の王が現れるべきアレクサンドリア大王の領土が分裂した四つの王国に含まれていますから、イランが北の王であるということになる可能性があります。



 それで、確かにロシアがイランや他の中東の国々と連携して米国本土を攻撃した場合、おおむね勝利をおさめるという可能性もあります。しかしながら、その場合では、ロシアではなくイラン、あるいは中東その他の国家の長がその軍隊全体を率いる司令官になるのでなければ、勝利につながることはありません。


 なぜなら、もし、ロシアが諸国家の軍勢を率いて米国を攻撃する場合は、ダニエル11章の預言の北の南に対する第一回目の攻撃とは言えないことになるからです。ロシアは北の王ではないからです。ですから、ロシアがその諸国家の軍隊を率いる総合司令官になる場合は、連合国側の勝利はおぼつかないと思います。


 しかしながら、現時点では、旧アレクサンドロス大王の帝国の領域の国家の中で、諸国家の連合軍を率いるくらいに国力と信望のある国家はまだ存在していないのではないかと思います。


 そして、以下に述べることが起こってから出なければ、その軍事攻撃は、一回目の北の南に対する総攻撃とは言えないと思います。


 現時点での私の理解によると、北の王は、南の王と比較的に良い関係を持ち、「強大な者」になっていくことになっています。(ダニエル11:23新世界訳改訂版)そして、北の王は、十分強大になった後、将来、まず、南の王を攻撃する前に、中東のどこかの国、あるいは、東方のどこかの国を軍事攻撃することになるはずです.(ダニエル11:24)


 なぜなら、ダニエル書は、北の王が「州の最も豊かな地域に行き,父祖たちが行わなかったことを行います。略奪品や戦利品を分配し,防備された場所を攻めることをたくらみますが,それはひとときの間だけです。 」と預言されているからです。(ダニエル11:24新世界訳改訂版)


  さらに、北の王に関してダニエル8章には、「別の小さな角が生え出た。それは非常に強大になっていき,南とと『美しい地』に力を及ぼした。」と預言されています。(ダニエル8:9新世界訳改訂版)


 ですから、北の王である「小さな角」は、「東」に向かうことが預言されています。この「東」とは、北の王にとって東であるという以外、解釈するヒントはないようです。しかしながら、ダニエル11章の預言の中で、北と南と表現されていても、それは、最初に約束の地から見ておおむね北方向と南方向であっただけです。北と南の王の実体は世界情勢の経過と共に移り変わっていきました。


 ですから、北と南というのは、その世界情勢の中で勢力争いをするふたつの政治国家を表わしています。ですから、東と言っても、必ずしも、北の王の東方でなくてもいいのかもしれません。


 つまり、ダニエル8章では、南ではない、また、「美しい所」すなわちキリスト教の拠点でもない所を攻撃することになっています。ですから、ダニエル11章と8章の預言を考え合わせると北の王は、とにかく豊かな地域を攻撃し、その戦利品を分配して自らを豊かにし、さらに、他の諸国家から良い評判を得る結果になることをするのかもしれません。




(2)イランに北の王に関する預言が成就していくのでしょうか


 シーア派のイランの場合、今、スンニ派サウジアラビアとの関係がとても悪くなっています。2016年初頭スンニ派の大国サウジアラビアは、シーア派のイランと外交関係を断絶しています。イランとサウジはシリア内戦の時から支持勢力の違いのために対立していました。それで、イランがサウジと軍事衝突をすることはあり得ます。もし、そのようなことが起これば、北が豊かな地域を軍事攻撃するという預言が成就することになるのかもしれません。




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作者 Palosirkka, author of source file Furfur

 

シーア派のイランとスンニ派サウジアラビアはとても関係が悪いために軍事紛争が起こるかもしれない-聖書預言の成就なのかもしれない





  しかしながら、イランが今サウジに軍事攻撃することになると、やはり、サウジアラビアだけでなく、イランも大きなダメージを受けることが予期できます。サウジアラビアは、近年、軍備をたいへん強化していて、強大な軍事国家になっているからです。



 ですから、イランがサウジアラビアを攻撃しても、もし、イランが北の王であるとして、そして、それが聖書預言の成就であるとして、イラン側の勝利になるかもしれません。しかし、イランはサウジアラビアに対して、簡単には勝利を収めることにならないことが予期できます。


 そして、わたしはまだ、イランが北の王であるという確信を持っていませんので、まだ、イランに北の王に関する預言が成就していくという確信を持っているわけでもありません。


(3)わたしヨハネはイランなどのある政治指導者が北の王になることは決して勧めません


 ロシアがもし、イランを総合司令官にして、連携して米国を攻撃した場合、イラン、ロシア側の勝利の可能性があります。それは、聖書預言の成就であるかもしれないからです。北の王の、一度目の南の王に対する攻撃であるかもしれないからです。


 しかしながら、私自身は、北の王にそのようにするようにと勧めるわけでは決してありません。なぜなら、北の王は、第一回目の米国に対する軍事攻撃に成功するとしても、神の目に非とされる立場に自らを置くことになるからです。



 北の王になることはおそらく、他の大勢の人々を「滅ぼす者」「アポルオン」となるだけでなく、神の目から見て「滅びる者 」となることを意味します。
(啓示9:11。テサロニケ第二2:3)



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北の王は滅ぼす者アポルオンと呼ばれていることは神のみ前に望ましい立場ではない




北の王は滅ぶ者と呼ばれていて復活のない永遠の死を経験することになっているーたとえ軍事的な成功を収めても北の王になることは勧められることではない

 

 

 

 ですから、北の王となることは、創造者から非とされ、永遠の死を招く立場ですから、そのような立場に立つことは決して勧められることではありません。


 ただ、世界情勢の流れを観察して、そのように聖書預言が成就する可能性があると考えました。イランに北の王に関する預言が成就していく可能性もあります。でも、さまざまな条件が整っていなければ、聖書預言の成就ではないということになると思います。


 しかしながら、預言者は、聖書の預言を説明することはできますが、基本的に諸政府が互いに争い合うように勧めることはしません。基本的に聖書は殺人に反対だからです。(啓示21:8)

 

 



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基本的に殺人は聖書中で非とされているので聖書の解釈者は諸政府に戦争をすることを勧めない



 しかしながら、諸政府の指導者たちは、必ずしも、聖書の解釈者の勧めに従って行動するのではなく、自由意志に基づいて行動します。ですから、世界情勢は、聖書の預言の研究者の勧めには関わりなく、自由に進展していきます。


 

 

 聖書に忠実なクリスチャンの立場は北の王と南の王の勢力争いや諸国家の紛争に中立です。(ヨハネ15:17-19;18:36。ルカ21:20,21)聖書に忠実なクリスチャンは北の王からも南の王からも迫害され、命を落とすことが予告されています。(啓示17:5,6。ダニエル8:24)ですから、どちらの側にも立ちません。また、どの政府に対しても武器をとって戦うのではなく、紛争が起こるならば、戦火から逃げるという立場になります。(ルカ21:20,21) 


 さらに、聖書預言がどのように成就していくかを、聖書の解釈者はすべて理解しているわけではありません。また、イラン以外の国家が今から北の王として台頭してくるという可能性も皆無ではありません。ですから、わたしたちが予想だにしなかった別の仕方で、世界情勢は展開して今とは異なる仕方で聖書預言が成就していくかもしれません。


 ただ、聖書を解釈する人は、聖書の預言がどのように成就していくのかに深い関心を持っていて、世界情勢を注視し続けます。(ペテロ第二1:19)


 また、もし、ロシアとイランが米国を攻撃して勝利することがあるとしても、それはエホバの証人の統治体の言うように、世の終わりにつながる最後の国際紛争ではないと思います。


(4)地上は将来必ず楽園になるが決してすぐにそうならない


 わたしは、以前も申し上げましたが、この地上は確かに将来に神の王国の支配下の楽園となりますが、それがまもなく数年以内に起きるとは決して考えません。


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将来地上は楽園になりますが決して近いうちに楽園にはなりません




 わたしは、ロシアは、これから北の王の仲間になることはあり得ますが、聖書の預言からすると、北の王のメインの実体になることはないと考えます。さらに、ドイツが北の王であったという解釈も他の聖書の助言からすると間違っていたと思います。そして、証人の解釈からしても、ドイツが北の王であったという解釈は間違っていました。


 

 最初は、北の王の実体は、ドイツであると言い、次にはロシアであると言っているのですから、世界情勢の進展によって、さらに証人たちの言う北の王の実体はこれからも変わっていくのかもしれません。


  私は、ロシアは、米国と戦争をする可能性もあるかもしれませんが、それは、ダニエル1140節の成就ではないと思います。万が一、ロシアがイランなどの国と連携して米国と戦うならば、勝利することになる可能性はあります。イランは北の王になりえるからです。



 しかしながら、その場合には、幾つかの条件があります。さらに、それは、この世の終わりにつながることではありません。さらに、イランの政治指導者にそのように行動することを勧めることは決してしません。そして、それは、やはり世の終わりにつながることはありません。



(5)この世の終わりは到来するがすぐに到来するわけではない



 でも、わたしも証人たちと同じようにこの事物の体制は、いつかは終わると考えています。その点では同じなのですが、エホバ神は、前途に待ち受けている試練に冷静に理性的に対処できるように助けてくださるはずだと思います。ダニエル1140節の北の王の実体を急に発表して世の終わりに備えさせるというようなことがエホバ神のやり方であるとは決して思いません。ですから、わたしたちはまだこの事物の体制が長く続くと考えて、その中で、どのように身を処していけばいいか考えた方が賢明です。



  そして、聖書預言をよく調べて、それがどのように成就していくか、注意を払われるように世界の政治指導者にお勧めいたします。


 それで、エホバの証人1914年説に基づいた聖書預言の解釈に誤導されないように関係者すべてにお勧めしたいと思います。わたしのヨハネの聖書預言の解釈は、このシリーズのイエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(13)奴隷級になろうと努力するわたしヨハネのダニエル11章の簡単な説明に記されています。

 

 

 わたしヨハネの解釈に賛同されて、協力したいと考えられる方は、daughter-of-zion1029ingch   〇=@protonmail.にご連絡ください。

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(28)ロシアが米国を攻撃する場合聖書預言から考えるとどのような結果になるか

(1)わたしヨハネの預言の解釈によると北の王はロシアではない


 わたしは、実はまだ聖書の預言全体を解釈し終わっていません。でも、おおむね、ダニエル書の預言はかなり解釈し終わっています。でも、旧約聖書の大預言書、小預言書、福音書のイエスの預言や、新約聖書パウロの預言や啓示の預言をまだ検討し残しているので、今からも、自分の預言の解釈に微調整を施すことがあり得ます。


 でも、少なくとも、北の王がロシアであるというエホバの証人の解釈は間違っていると思います。なぜなら、聖書は北の王が旧アレクサンドロス大王の領土から出てくることを預言していると思います。(ダニエル8:8,9)それで、その領土の中には、中東、エジプト、また中央アジアの諸国家、アフガニスタンパキスタンその他の諸国家が含まれているとは言え、現在のロシアの領土とはおおむね重ならないからです。ですから、ロシアは北の王にはなりません。

 

 

Extent of the empire of Alexander the Great

ロシアも中国も北朝鮮も北の王が現れるはずの領土にありません

 





(2)ロシアが他の中東などの国と連携して米国を軍事攻撃する場合どうなるか


 それでは、もし、ロシアがイランなどの中東のどこかの国と連携して、米国を攻撃することになるとどうでしょうか。そうすると、イランが北の王であるということになるでしょうか。その場合は、ロシア側が勝利を得るという事態が起こることも考えられます。


 なぜなら、ダニエル1122節では、「契約の指導者」イエス・キリストが砕かれて贖いの犠牲を捧げることが預言されています。そして、その次の節からは、預言は終わりの時に飛びます。そして、わたしはダニエル1123節以降が今から成就することになると考えています。そして、北の王は今から頭角を表わして「強大な者 になっていきます。(ダニエル11:23新世界訳改訂版)


 そして、ダニエル書では、北の王は、南の王に対する一回目の軍事攻撃で、おおむね勝利を収めることになっています。(ダニエル11:24,25)しかし、一度目の軍事攻撃は、停戦と平和会談で終わることになると思います。(ダニエル11:27)


 そして、北の王は、アレクサンドロス大王の領土に含まれていた国家から出てくることになっています。(ダニエル8:8,9)それで、イランであれば、その領土は、北の王が現れるべきアレクサンドリア大王の帝国が分裂した四つの王国に含まれていますから、勝利を得ることはあり得ます。


 それで、確かにロシアがイランや他の中東の国々と連携して米国本土を攻撃した場合、おおむね勝利をおさめるという可能性もあります。しかしながら、その場合では、ロシアではなくイラン、あるいは中東その他の国家の長がその軍隊全体を率いる司令官になるのでなければ、勝利につながることはありません。


 なぜなら、それは、ダニエル11章の預言の北の南に対する第一回目の攻撃とは言えないことになるからです。ですから、ロシアがその諸国家の軍隊を率いる総合司令官になる場合は、連合国側の勝利はおぼつかないと思います。しかしながら、現時点では、北の王が現れるべき地域の国家の中で、諸国家の連合軍を率いるくらいに国力と信望のある国家はまだ存在していないのではないかと思います。


 そして、以下に述べることが起こってから出なければ、その軍事攻撃は、一回目の北の南に対する総攻撃とは言えないと思います。


 現時点での私の理解によると、北の王は、南の王と比較的に良い関係を持ち、「強大な者」になっていくことになっています。(ダニエル11:23新世界訳改訂版)そして、北の王は、十分強大になった後、将来、まず、南の王を攻撃する前に、中東のどこかの国、あるいは、東方のどこかの国を軍事攻撃することになるはずです.(ダニエル11:24)


 なぜなら、ダニエル書は、北の王が「州の最も豊かな地域に行き,父祖たちが行わなかったことを行います。略奪品や戦利品を分配し,防備された場所を攻めることをたくらみますが,それはひとときの間だけです。 」と預言されているからです。(ダニエル11:24新世界訳改訂版)


  さらに、北の王に関してダニエル8章には、「別の小さな角が生え出た。それは非常に強大になっていき,南とと『美しい地』に力を及ぼした。」と預言されています。(ダニエル8:9新世界訳改訂版) この聖句は、新世界訳の旧版では「小さい角が出て来た。それは非常に大きくなっていって,南に向かい,日の出の方に向かい,また飾りとなる所に向かった。」となっています。(ダニエル8:9)


 ですから、北の王である「小さな角」は、「日の出の方」あるいは「東」に向かうことが預言されています。この「日の出の方」とは、東であるという以外、解釈するヒントはないようです。しかしながら、ダニエル11章の預言の中で、北と南と表現されていても、それは、最初に約束の地から見ておおむね北方向と南方向であっただけです。北と南の王の実体は世界情勢の経過と共に移り変わっていきました。ですから、北の王と南の王は必ずしも、約束の地の北方向、南方向にあるわけではありません。


 ですから、北と南というのは、その世界情勢の中で勢力争いをするふたつの政治国家を表わしています。ですから、東と言っても、必ずしも、北の王の東方でなくてもいいのかもしれません。


 つまり、ダニエル8章では、東、すなわち、南でも、「美しい所」すなわちキリスト教の拠点でもない所を攻撃することになっています。ですから、ダニエル11章と8章の預言を考え合わせると北の王は、とにかく豊かな地域を攻撃し、その戦利品を分配して自らを豊かにし、さらに、他の諸国家から良い評判を得る結果になることをするのかもしれません。


 シーア派のイランの場合、今、スンニ派サウジアラビアとの関係がとても悪くなっています。2016初頭スンニ派の大国サウジアラビアは、シーア派のイランと外交関係を断絶しています。イランとサウジはシリア内戦の時から支持勢力の違いのために対立していました。それで、イランがサウジと軍事衝突をすることはあり得ます。もし、そのようなことが起これば、北が豊かな地域を軍事攻撃するという預言が成就することになるのかもしれません。



(3)わたしヨハネはある政治指導者が北の王になることは決して勧めません


 しかしながら、私自身は、北の王にそのようにするようにと勧めるわけでは決してありません。なぜなら、北の王は、第一回目の米国に対する軍事攻撃に成功するとしても、神の目に非とされる立場に自らを置くことになるからです。北の王になることはおそらく、他の大勢の人々を「滅ぼす者」「アポルオン」となるだけでなく、神の目から見て「滅びる者 」となることを意味します(啓示9:11。テサロニケ第二2:3)



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北の王は神の目に非とされ永遠の死をこうむる「滅びる者」となることが預言されている



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北の王は他の大勢の人々を「滅ぼす者」アポルオンになる






 ですから、北の王となることは、創造者から非とされ、永遠の死を招く立場ですから、そのような立場に立つことは決して勧められることではありません。


 ただ、わたしは世界情勢の流れを観察して、以上のように聖書預言が成就する可能性もあると考えました。イランに北の王に関する預言が成就していく可能性もあります。でも、さまざまな条件が整っていなければ、聖書預言の成就ではないということになると思います。


 しかしながら、預言者は、聖書の預言を説明することはできますが、基本的に諸政府が互いに争い合うように勧めることはしません。基本的に聖書は殺人に反対だからです。(啓示21:8) 



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基本的に聖書は殺人を非としている
殺人者の北の王になることは勧められることではありません





  聖書に忠実なクリスチャンの立場は北の王と南の王の勢力争いや諸国家の紛争に中立です。(ヨハネ15:17-19;18:36。ルカ21:20,21)聖書に忠実なクリスチャンは北の王からも南の王からも迫害され、命を落とすことが予告されています。(啓示17:5,6。ダニエル8:24)ですから、どちらの側にも立ちません。また、どの政府に対しても武器をとって戦うのではなく、紛争が起こるならば、戦火から逃げるという立場になります。(ルカ21:20,21) 

 

 

                   

                    

           

聖書に忠実なクリスチャンは北の王と南の王の抗争に中立の立場をとります



 さらに、聖書預言がどのように成就していくかを、聖書の解釈者はすべて理解しているわけではありません。また、イラン以外の国家が今から北の王として台頭してくるという可能性も皆無ではありません。ですから、わたしたちが予想だにしなかった別の仕方で、世界情勢は展開して今とは異なる仕方で聖書預言が成就していくかもしれません。


 ただ、聖書を解釈する人は、聖書の預言がどのように成就していくのかに深い関心を持っていて、世界情勢を注視し続けます。(ペテロ第二1:19)


 また、もし、ロシアとイランが米国を攻撃して勝利することがあるとしても、それはエホバの証人の統治体の言うように、世の終わりにつながる最後の国際紛争ではないと思います。

 

 

  わたしの聖書預言の解釈に関心があって共に聖書を研究したいと思われる方は、daughter-of-zion1029ingch 〇=@protonmail. までご連絡ください。

 

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(28)エホバの証人の世の終わりの預言は成就するか

 今日、エホバの証人の中では、新たに表象物にあずかり始める人はその立場の真正さを疑われる場合が多いです。また、エホバの証人の預言の解釈と異なる解釈を受け入れる油そそがれたクリスチャンはエホバの証人からおおむね受け入れられません。


 聖書の預言に関してはさまざまな解釈があります。では、どのようにして、その預言の解釈が正しいものであるかを見分けることができるでしょうか。さらに、新たに表象物にあずかり始める人が、神に是認されているイエスの兄弟であると見分けることができるでしょうか。


()統治体が最近象徴物にあずかり始めた人が真の油そそがれた者であることを疑うのはなぜか


 エホバの証人の中では、表象物にあずかると、悪霊の影響を受けているのではないかとか、その人の聖書的な理解が間違っているのではないかとか考えられる場合が多いです。


 キリスト教会では、おおむね地上で生涯を閉じるクリスチャンのすべてが天に行くと考えられています。ですから、証人たちは、表象物にあずかる人がキリスト教会のその教えに影響されているのではないかと考えられることがあります。

 さらに、エホバの証人は、西暦1914年にイエス・キリストが王になったと考えているので、その時以降聖霊で油そそがれたクリスチャンは集められていて、144000人は、ほとんどすでに天で復活していて神の王国の完成が間近いということになっています。エホバの証人はすでに世の終わりが近いとみなしています。


 ですから、エホバの証人は新たに表象物にあずかるクリスチャンにその人が真正な油そそがれたクリスチャンかどうか疑いの目を向けます。もし、144000人の人々がまだ十分集められていないとすると、世の終わりは近いという証人の解釈は成り立たないことになります。


 しかしながら、現在の証人の間の状況からしても、表象物にあずかって、144000人の一人であると考える人の数は増えています。このことは、まだエホバの証人の統治体が考えるようには、世の終わりが近づいていないことを示しているのではないでしょうか。


(2)どの聖霊で油そそがれたクリスチャンの解釈が成就していくかを世界情勢を見守る


エホバ神が、是認される油そそがれたクリスチャンは誰であるかは、それぞれの聖書の預言の解釈が成就していくかどうかによって判断することができるでしょう。


 そして、事態の進展を観察して、ある預言の解釈が間違っていることが明らかになっても、それに固執していれば、それらの人々は「偽り」を語る「預言者」とみなされることになります。(エレミヤ27:14)そのようになると、それらのクリスチャンが真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンとみなされるのは難しくなっていくのではないかと思います。


 エホバの証人の統治体の場合は、昨年2018年のエホバの証人の年次総会で、北の王はロシアであると発表されました。そして、まもなくダニエル1140節が成就すると主張されています。それで、ロシアがまもなく、米国に侵攻すると主張しています。そして、ロシアがもし、北の王であり、それがダニエル1140節の成就であれば、ロシア側は米国に勝利するはずです。



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エホバの証人の2018年年次総会で統治体はロシアが北の王であると発表した





 ロシアは、中国やその他の国と、連合して行動するとある人々は考えるかもしれません。それで、まもなくロシアが米国を軍事攻撃して、米国に勝利することになるのであれば、エホバの証人の言うように、ダニエル1140節が成就しており、それは、世の終わりに近づいている証拠であるのでしょうか。


 統治体の兄弟の口ぶりではそれは非常に近く、数年以内であるようでした。また、その後、国連が世界のさまざまな宗教組織に対して軍事攻撃をすることになるかどうかも判断材料になるかもしれません。それが、数年のうちに起きれば、エホバの証人の統治体の解釈が正しかったことになります。




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国連は数年以内に宗教組織全体を軍事攻撃するでしょうか





 でも、近年、イスラム教徒のマララさんがノーベル平和賞を受けて、国連で演説され国連大使に任命されたので、国連は、イスラム教をある程度受け入れています。そうすると、国連の軍事組織が宗教組織全体に対して敵対して、軍事攻撃をするとは考えにくいのではないかと思います。



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 Claude Truong-Ngoc / Wikimedia Commons - cc-by-sa-3.0
イスラム教とのマララさんが国連大使になったのにイスラム教徒が近いうちに国連から軍事攻撃を受けることになりますか

 






 しかしながら、すでにエホバの証人のダニエルの本によると、現代に移ったのがダニエル1127節以降と考えられています。そして、「ダニエルの預言」の本の268pにあるように、最初は、北がドイツ帝国で、南の王は「英国、およびその後の英米世界強国」と説明されていました。



 それで、「ダニエルの預言」の本の説明によると、ダニエル1140節の預言の言葉、北の王が「兵車や騎手や多くの船で南の王を激しく攻撃」していくという預言は、すでに、ナチ・ドイツの領土拡張政策によって成就したとエホバの証人は考えていました。(ダニエル11:40)




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1942年、スターリングラード付近のPanzerwaffeの戦車及び装甲車の隊列
統治体によりナチス・ドイツはすでに北の王としてダニエル11章40節を成就したと解釈された






 それで、エホバの証人は、現在の事態の進展を見て、ナチ・ドイツをロシアに変え、すでに成就したと説明したダニエル1140節をこれから成就していくことにしました。


 これは、ダニエル11章の預言を第二次世界大戦が起きた後に解釈したために起こっていることです。すなわち、ダニエル11章の預言の解釈が後付けだからです。つまり、成就した後に預言を説明されたものであるからです。


 でも、真正な預言者の預言は物事が起きる前に預言しなければならないと思います。(アモス3:7)


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(アモスは真の預言の場合は事が起こる前に神から啓示が与えられて初めて成就していくと述べた





  もし、万が一、今すぐにダニエル1140節が成就することになると、大患難の後に成就するべき有名な聖句が成就しません。


 啓示の書は、大患難を生き残る大群衆の数は「誰も数え切れない」ほどになることを預言しています。(啓示7:9,14新世界訳改訂版)でも、現在全世界のエホバの証人の数は、2018奉仕年度の報告によると、8579909 となっているので、数年以内に大患難が来るなら、大患難を生き残る人の数は、多くとも900万人弱ということになります。900万人弱というその数は、誰も数えきれないほどの数だとは決して言えないのではないかと思います。




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まもなく大患難が来るなら全世界の人口が75億以上で約900万人のエホバの証人が生き残るとしたら誰も数えきれない数と言えますか






 国連の20197月時点での世界の人口に関する最新情報によると、7 55000万人あまりです。その中で、900万人あまりの人がこの世の終わりを生き残るというのは、決して「誰も数えきれない」数で十分多いとは言えません。(啓示7:9,14新世界訳改訂版)


 ですから、エホバの証人の予測が当たって、ロシアが米国を軍事攻撃したとしても、大患難に関する啓示の書の預言が成就しませんから、その紛争は、最後の北の南に対する軍事攻撃とは言えないと思います。


 

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(27)目立たない油そそがれたクリスチャンに親切にするかどうかで永遠の命かどうかが分けられる

(1)従来のエホバの証人の統治体の聖書預言の解釈と異なる解釈を主張する聖霊で油そそがれたクリスチャンをどのようにみなしたらいいか


 もし、エホバの証人と異なる聖書預言の解釈を主張する人が登場したらどのように考えたらいいでしょうか。知識は、真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンを見分けるものとならないのでしょうか。確かに、聖書は愛や信仰や希望の方が知識よりも重要であると述べています。(コリント第一13:8,9,13)



 しかしながら、聖書は救いに至るために、「正確な知識」が必要だと述べています。「神は,あらゆる人が救われて真理の正確な知識を得ることを望んでいます。」と述べられています。 (テモテ第一2:4)ですから、知識は愛より重要ではないかもしれませんが、やはり真理の正確な知識は、神の是認と救いを得るために重要です。


 さらに、イエスフィラデルフィア会衆の使いたちに対して、「私はあなたの行いを知っています。見なさい,私はあなたの前にを開けました。誰もそれを閉じることはできません。」と述べられました。(啓示3:8新世界訳改訂版この開けられた「」とは何を意味しているでしょうか。ヨハネは「開かれた扉」があり、声がこう言うのを聞きました。「ここに昇ってきなさい。必ず起きることをあなたに示そう」。(啓示4:1)



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開かれた扉から必ず起きる事をイエスから示される





 開けられ扉がその前に置かれているということは、「必ず起きること」をイエスから示されるということを意味しています。ですから、フィラデルフィア会衆の使いは、忠実に聖書の研究を続ける結果、将来に対する洞察をイエスから示されることになります。そして、イエスは、忠実なフィラデルフィア会衆のクリスチャンたちを「世界中で生じる試練の時に・・・守りますという約束を差し伸べています。(啓示3:10新世界訳改訂版)

 



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フィラデルフィア会衆の成員は忠実に聖書を研究し続けてイエスから将来起きる事柄の啓示を受けた



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フィラデルフィア会衆はその忠実な努力のために将来の啓示を受けイエスからの保護を受ける






 ですから、エホバ神もイエスもクリスチャンたちのご自分に対する忠実さに報いてくださる方です。イエスの言葉を守る忠実さとたゆまぬ聖書研究のゆえに将来に起きる事について正しい洞察を持っていることは、イエスの好意と保護をもたらします。そして、そのクリスチャンが持っている将来起きる事に関する洞察は、イエスから好意を示されている証拠かもしれません。


 一方、エホバの証人がここ百年くらいの間、世の終わりが到来する時期に関して、何度も間違った思い込みをしてきたために、多くのエホバの証人の成員とその関係者を落胆させてきたことは事実です。このことは、エホバの証人が奉じる1914年説と、その他の聖書預言の解釈が正しいかどうか吟味するべき時が来ていることを示しているのではないでしょうか。


                         そして、申命記の中には、「あなたは心の中で,『エホバが話したのではない言葉だとどのようにして分かるのか』と言うかもしれない。預言者がエホバの名によって話してもその言葉が実現せず,その通りにならなければ,エホバはその言葉を話していない預言者が思い上がってそれを話したのである。その人を恐れてはならない」と述べられています。(申命記18:20-22新世界訳改訂版)


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聖書の言葉に正確な知識に厳密に基づかない預言の解釈は自分の考えを語る偽預言者とみなされエホバの是認を得られない






 ですから、聖書は、ある預言者がエホバの名によって話しても、その預言の言葉がその通りにならないならば、エホバ神がその預言者の後ろ盾になっていないと述べています。そして、偽預言者は「死ななければならない」という聖書の言葉さえあります。(申命記18:20新世界訳改訂版)


 ですから、エホバの証人の統治体の意図が誠実であったとしても、その預言の解釈の言葉が実現していないという現実を直視する必要があるのではないでしょうか。ですから、今のエホバの証人の統治体の預言の解釈と異なる預言の解釈を述べるクリスチャンがいても、エホバの証人の預言の解釈が何度もはずれてきたことを考えるならば、心を柔軟にして、その新たな聖書の預言の解釈が正しいかどうかを検討してみることが必要ではないでしょうか。



 エホバの証人の統治体と異なる聖書預言の解釈を述べている聖霊で油そそがれたクリスチャンがエホバ神とイエス・キリストの後ろ盾を得ているかもしれないのです。



 それで、このことはまた後程、詳細に述べますが、エホバの証人の統治体は、心を広くして自分たちの1914年説に固執するのではなく、他の聖霊で油そそがれたクリスチャンの聖書預言の解釈を検討して、それが実際に成就していくかどうかを観察していくことが必要であることを示していないでしょうか。


 
 そして、誰が真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンであるかどうかという点で、エホバの証人の独自の見方を改める必要があるかもしれません。

 

 

(2)キリスト教会の聖霊で油そそがれたクリスチャンをどのようにみなしたらいいのか


 しかし、エホバの証人は、キリスト教会のクリスチャンを「大いなるバビロン」とみなしています。(啓示17:5)それで、キリスト教会の聖職者たちや教会員を悪く言うことが多いです。でも、聖書中で神が求めておられることを考えるならば、それらのクリスチャンを過度に悪く言わないのが賢明ではないかと思います。少なくとも、彼らが行なっている良いことは認めるべきではないかと思います。


 このことは、エホバの証人が、大いなるバビロンをキリスト教会を含めた偽りの宗教組織だとみなす教理が、聖書的ではないだけでなく、エホバ神の不興を買う教理ではないかとわたしが考える理由です。


 なぜ、そのように言えるかというと、わたしは啓示の書の7つの会衆の成員は、聖霊で油そそがれたクリスチャン男女であるとみなしています。そして、7つの会衆の成員には、模範的に神に忠実に従う聖霊で油そそがれたクリスチャンもいれば、神とイエスの是認を失いかけている聖霊で油そそがれたクリスチャンも含まれています。(啓示2:4,5;3:1,8)しかし、神からの是認を失いかけているクリスチャンであっても、悔い改めるならば、真正の聖霊で油そそがれたクリスチャンとみなされることになります。(啓示3:19)



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Roymail 
ラオデキアの廃墟ーラオデキアの生ぬるいクリスチャンも悔い改めるならばイエスに是認される





 啓示の書の中で、天的な召しが差し伸べられるのは、144000人であることが書かれています。(啓示14:1-4)でも、全世界にいるキリスト教会の教会員の数を考えると、現時点では、聖霊で油そそがれたクリスチャン男女は、オーバーブッキングになっているのではないかと思います。その中で、最後まで忠実を保ったクリスチャンが、その報いを自分のものにすることになります。


ですから、あるクリスチャンが真正の聖霊で油そそがれたクリスチャンであるということが疑わしい場合でも、そのクリスチャンはこれから将来神に是認されるかもしれないので、敬意を払っている方がいいのではないかと思います。


 

(3)聖霊で油そそがれたクリスチャンとして妥当な証拠を示しているクリスチャンにどのように接するのが賢明か


 やはり、先回の記事で示したように聖書の中に示されているエホバ神の感じ方を考えると、聖霊で油そそがれたクリスチャンにふさわしい敬意を払った方がいいと思います。


 イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(25)統治体に手紙を書いた後ルームメイトを組むのを妨害した地域監督は事故死する


 なぜなら、神がわたしたちに永遠の命を与えるかどうかに関しては、条件がありますが、その一つは、イエスの「兄弟のうち最も目立たない人の1」、すなわち、聖霊で油そそがれたクリスチャンに実際的な愛ある親切を示すということだからです。(マタイ25:37-40,46)それによって、永遠の命を与えるか、永遠に滅びを与えることにされるかをイエスは決定されます。



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エスの最も目立たない霊的な兄弟にすることは信仰を持つ人々の将来の命を左右する







 もし、表象物にあずかって天的な希望を持つことを表明しているクリスチャンに対して、その立場を誤解や思い込みであると判断して、協力するどころか、そのクリスチャンの生活に、困難な事態をもたらしてしまうとエホバ神とイエス・キリストの不興を買ってその報いを失いかねません。



 もちろん、天的な希望を持つクリスチャンも大群衆のクリスチャンも同じように謙遜さを示す必要があるでしょう。しかしながら、イエスはご自分の兄弟たちに対する実際的な援助を、大群衆の羊が永遠の命を得るための条件だと言われたので、やはり、誰が真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンであるかどうかを見分けるのは必要なことだと思います。見分けないと、実際的な援助を差し伸べることはできません。


 さらに、聖書の重要なテーマのひとつは、油そそがれた者に極力敬意を払うことです。ダビデは油そそがれた者であるサウル王が不忠実になっても、極力敬意を払いました。そして、ダビデのその振る舞いは、エホバに喜ばれて報いを受けることになりました。(サムエル第一24:6) 


 それで、上で述べたように聖書中の神のご要求を考慮して、真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンを見分けることができます。


 まず、真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンには、聖書の言葉を定期的に読んで、正確な知識を増し加える努力が求められるでしょう。また、神の律法を守るように自分の生活の中で努力して、義の基準が守られるよう推進しているならば、真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンということができます。



 また、知識は最重要ではないとは言え、聖書の預言を正確に解釈して、将来に関して洞察を得られていれば、その聖霊で油そそがれたクリスチャンはイエス・キリストからの助けと保護を得られやすくなります。また、その聖書の研究結果を定期的に公にしている聖霊で油そそがれたクリスチャンがいたなら、そのクリスチャンは、「忠実で思慮深い奴隷」として将来イエスから任命されることになるかもしれません。(マタイ24:45)


 そのようなクリスチャンを見分けて、親切を示して協力するなら、エホバ神とイエス・キリストの是認と永遠の命の報いを得ることができると思います。


 わたしはヨハネは不完全ですが、聖霊で油そそがれたクリスチャンとしてエホバ神とイエス・キリストに忠実を示す努力を日々続けています。わたしは聖書の預言の研究を続けてその解釈の完成を目指しています。

  わたしと一緒に聖書研究をしたいという方は、
daughter-of-zion1029ingch    〇=@protonmail.  の方へご連絡ください。

 

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(27)証人の間で新たに表象物にあずかる人はどのようにみなされがちか

  イエスは、羊のようなクリスチャンは、イエスの兄弟のひとりに実際的な親切を示すことによって、永遠の命を享受することになると言われました。(マタイ25:37-40,46)ですから、真正なイエスの兄弟、つまり、真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンを見分けることは重要なことです。



 

 

0jesus and sheep
エスはご自分の兄弟に援助をする羊のようなクリスチャンに永遠の命を与えると言われた







 新約聖書に出てくる西暦一世紀の初期クリスチャンはほとんどが聖霊で油そそがれたクリスチャンでした。それで、今回の記事は真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンをどのように見分けることができるか、また、見分けることが重要であることを聖書の言葉から調べてみましょう。


(1)聖霊で油そそがれたクリスチャンの数は世界でどのような状況になっているか


 まず、エホバの証人は、初期クリスチャンの型に従って歩んでいると主張しています。2018年の奉仕報告では、8579909 がエホバの証人として毎月伝道に参加しています。エホバの証人の中で、聖霊で油そそがれたクリスチャンとして表象物にあずかっている人は全体からすると、割合が少ないです。2018年の総計では、全世界の記念式で表象物にあずかった人の数は、19,521人となっています。 ですから、天的な希望を持つクリスチャンは、エホバの証人の全体の500人に一人もいないことになります。



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全世界のエホバの証人の中で表象物にあずかるのは全体で一万九千人余りで五百人に一人もいない





 エホバの証人の傾向を分析したネットのサイトによると、2005, 2006年頃から記念式で表象物にあずかる人の数は増加傾向を見せているということです。



 また、世界中にいるキリスト教会の教会員は、ほとんど死後天に行くと信じており、いつも、パンとぶどう酒の表象物にあずかって、ご自分たちが聖霊で油そそがれたクリスチャンという立場にあることを表明されています。



 2016年の「ブリタニカ国際年鑑」2017年版による データによると、全世界の人口がおよそ74億人で、全世界のクリスチャン人口はおおよそ245000万人となっています。ですから、今世界中に聖霊で油そそがれたクリスチャンであり、天からの召しを与えられているみなしている男女は、少ないとは言え、かなりの人数がいると考えられます。



(2)エホバの証人の中で新たに表象物にあずかる人はその真正さを疑われる場合が多い


 上記したようにエホバの証人の中で、表象物にあずかる人の数は近年増加しています。例えば、20161月の研究記事の中には、「キリスト​の​死​の​記念​式​で​表象​物​に​あずかる​人​の​数​は,長年​に​わたり​減少​し​て​き​まし​た。しかし​最近,その​数​は​増加​し​て​い​ます。」という記載があります。


 エホバの証人はその状況を、以下のように説明しています。この記事には、「表象​物​に​あずかっ​た​人​の​数​に​は,自分​が​油そそが​れ​て​いる​と​誤解​し​て​いる​人​の​数​も​含ま​れ​て​い​ます。・・・ですから,表象​物​に​あずかっ​た​人​の​数​は,地上​に​残っ​て​いる​油そそが​れ​た​人​の​数​を​正確​に​示す​もの​で​は​あり​ませ​ん。」と説明しています。ですから、エホバの証人は、表象物にあずかっているクリスチャンの増加を、多くの場合、誤解や思い込みであるとみなしています。



 
ものみの塔19964/1号の「記念式をふさわしい仕方で祝う」には、以下のように新たに表象物にあずかる人たちに対する見方が書かれています。「間違って表象物にあずかる人がいるのはなぜでしょうか。忠実な人はみな天へ行くという以前の宗教的信条のためかもしれません。名誉心もしくは利己心,つまり,自分は他の人より功績があるという気持ちのためや目立ちたいという願望のためかもしれません。難しい問題や,地上での生活に対する関心を失わせるような悲劇的な事柄を経験して強い感情がわき起こった結果ということも考えられます。親しくしている人が天への召しを受けているから,ということもあるでしょう。」



 そのようにエホバの証人の間で、新たに表象物にあずかる人たちの真正さが疑われるのは、証人たちの間では、天的な希望への召しはほとんど終わっているとみなされているからです。ものみの塔20032/15号の「主の晩さんはあなたにとってどんな意味がありますか」という記事の中では、「1930年代までに,天的な級はおおむね選び終えられたことが明らかになっていました。」とあります。


 ですから、新たに表象物にあずかる人たちの真正さが疑われるのは、基本的にエホバの証人1914年説のためです。

 



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エホバの証人聖霊で油そそがれたクリスチャンの真正さが疑われるのは1914年説のため






 エホバの証人は西暦1914年にイエス・キリストが天で王に即位されたと信じられています。そして、1914年以降、天的な希望の人がたくさん集められたと考えられています。そして、だいたい1935年以降、エホバの証人は、野外宣教の主な対象として,地的な希望を抱くほかの羊に注意を向けてきました。ですから、基本的に天的な希望のクリスチャンの定員はほとんど既に満たされているとみなされています。

 

 

  それで、その記事の中では、「間違った思い込みをするのはなぜか」という見出しのもとに、「そのような召しを実際には受けていなかったことを知りながら,天的な王また祭司となる召しを受けた者のように振る舞う人を,神は好意をもってご覧になることはないはずです。・・・エホバは,レビ人であるコラを死罪に処されました。コラがせん越にもアロンの家系の祭司職に就こうとしたからです。」とあります。

 



 

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エホバの証人の中で新たに表象物にあずかるクリスチャンはせん越なコラのように神から裁かれるとみなされているかもしれない

 



 

 エホバの証人は西暦1914年にイエス・キリストが天で王に即位されたと信じられています。そして、1914年以降、天的な希望の人がたくさん集められたと考えられています。そして、だいたい1935年以降、エホバの証人は、野外宣教の主な対象として,地的な希望を抱くほかの羊に注意を向けてきました。ですから、基本的に天的な希望のクリスチャンの定員は既にほとんど満たされているとみなされています。


 ですから、自分を新たに天的な希望に召されているとみなすのは、間違った思い込みの場合は、神の不興を買って、死罪に処される、すなわち、証人たちから排斥される結果になるとみなされているかもしれません。それで、エホバの証人の間では、最近になって自分を天的な召しを受けているとみなすのは、神に不興を買っているのではないかとネガティブな見方がされます。


 なぜかというと、とりわけ、証人の解釈によると、世の終わりが間近に迫っているためです。例えば、20145月号のものみの塔の研究記事にも、「まもなくサタンの事物の体制が滅び,神の組織は終わりの日を生き残ります。(テモ二 3:1) 」という記載があります。それで、エホバの証人の間では、世の終わりの直前になって、エホバが天的な召しに召されるはずがないとみなされています。



 そのためにエホバの証人の間では、近年になって新たに表象物にあずかっている人は、真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンであるかどうか疑われる場合が多いです。しかしながら、世の終わりが非常に間近いということは、わたしヨハネもだいぶ以前、ダニエル書を研究するまではそう信じていました。



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エホバの証人は彼らのハルマゲドンつまり世の終わりがとても間近いとみなしているために近年天的な召しを受けた人の真正さを疑う場合が多い





(3)真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンはその忠実さによって見分けられる


  真正の聖霊で油そそがれたクリスチャンは、主にその人の知識によってではなく、その忠実さによって見分けられるでしょう。「主人が,従者たちに必要な食料を適切な時に与えていくため,彼らの上に任命する忠実な管理人,思慮深い者はいったい誰でしょうか 」とイエスは言われたことがありました。「管理人に期待されているのは忠実であることです。」と述べられています。 (ルカ12:42。コリント第一4:2)


 その忠実さの中には、神の律法を守って不義を退けることが含まれます。また、忠実に聖書を研究し続けて、聖書の音信をふれ告げてイエスの弟子を作るようにという命令に従うことも求められます。(マタイ24:14,28:19,20)


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聖書を忠実に読んで研究し続けることはエホバ神に対して忠実さを示すひとつの証拠

 

 

 

(4)真正の聖霊で油そそがれたクリスチャンをどのように見分けたらいいのか-聖書に基づく真理を信じ不義と罪を退ける


 さらに、真正の聖霊で油そそがれたクリスチャンをどのように見分けたらいいのでしょうか。テサロニケ人への第二の手紙には、あるクリスチャンが、「真理を信じないで不義を喜びとしたことに対して裁きを受ける」と書かれています。(テサロニケ第二2:9-12)ですから、神に忠実なクリスチャンは、聖書の正確な知識に基づいた真理を信じることが求められています。さらに、神に是認をされるクリスチャンは、不義を喜びとするべきではありません


 ですから、真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンは聖書の真理を信じて愛することが求められます。つまり、聖書の正確な知識を取り入れ続けるよう努力をする必要があり、また、自分の生活の中で神の律法を尊重する努力をして、不義を退けることが必要です。他の人の生活にも不義を推進しないようにする必要があります。  


 ですから、聖霊で油そそがれたクリスチャンは、この世の神の律法に違反する人々の中で生活しなければなりませんが、クリスチャンでない人と結婚しないように、また、彼らの神の律法に違反す不法な行いを共にしないように、気をつける必要があります。(コリント第二6:14。マタイ19:6)


 それで、神に是認される聖霊で油そそがれたクリスチャンは、この世の人々からは不評を買うことになっても、自分の生活の中で性の不道徳や同性愛、殺人、心霊術など神の律法に反することを避けて、聖書の教えを唱道することが求められます。人々を「あらゆる不法から救い出し,・・・清める」ように努力することが求められます。(テトス2:14)


 そのような聖書的な基準を推進するよう努力を払っている聖霊で油そそがれたクリスチャンであれば、真正の油そそがれた者であるという証拠の一つを示していると言えます。


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性の不道徳などの神の律法違反を退け不義を退けることは真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンである証拠のひとつ-エホバの証人の統治体はこの点で努力をしている

 

 


  わたしはエホバの証人としてとどまってきた間も、聖書の道徳律を個人の生活の中で守るように努力をしてきました。また、会衆が清さを保つように個人でできることは行ってきました。そのようにして、不完全ながら、生活の中で神の律法違反である不義を退けるようにと努力を払ってきました。わたしはエホバの証人はこの点で努力を払ってきたと思いますが、私自身もその努力をして、真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンの証拠の一つを示してきたのではないかと思います。







 

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(25-2)地域監督がわたしのルームメイトの計画を妨害し事故死される

 今回わたしが述べる経験は、わたしがエホバの証人の統治体に啓示の書の七つの星は聖霊で油そそがれたクリスチャンであるという手紙を送った後、起きたことです。ある地域監督が事故死されました。それは、わたしが望んだことではありませんでした。そのいきさつをお話しします。

 

(1)ルームメイトを再び求めて地域監督に邪魔される


 わたしにとってはそのマンションの賃料は高額でした。そのため、わたしは経済的な困難を抱えていたので、わたしはそのマンションに一緒に住むルームメイトを探していました。ところで、わたしは近隣の会衆のとても熱心な正規開拓者の素敵な姉妹と知り合うことになりました。でも、どういったいきさつで、その姉妹と知り合うことになったのかは忘れてしまいました。


 その姉妹の車に乗せていただいたりしましたが、普通に楽しく会話ができました。また、その姉妹は、信仰のある積極的で明るい姉妹に見えました。わたしの住んでいたマンションにもその姉妹をお呼びして交わりました。その姉妹にわたしの住むマンションに越してこないかとお誘いしました。


 その姉妹は、そのマンションがリビングも広くてとても快適な感じのマンションだったこともあるからだったと思いますが、一緒に住むことに乗り気になっていました。



 ところが、後になってその姉妹がルームシェアを断ってきました。後になってその理由を知ることになりました。その姉妹がご自分のアパートで地域監督と食事の席を設けた時に、わたしのルームメイトにならないようにと言われたと彼女は言いました。長老の言うこと、とりわけ地域監督の言うことは、絶対だったので、その姉妹も従われたわけです。


 わたしはその姉妹とその後も仲良くしていて、地域大会の時など、親しく話しました。その正規開拓者の姉妹は、その後比較的すぐに感じの良い若い証人の兄弟と結婚されました。その姉妹は魅力的な若くて元気な姉妹だったので、その兄弟も姉妹をすぐに気に入ったのでしょう。


 でも、わたしは二度、経済的な困難を解決するために、他の姉妹とルームシェアをすることを大群衆の長老たちによって、阻まれました。


 どうして地域監督が反対したのかと思いますが、地域監督であれば、私が書いた手紙を支部を通して統治体からシェアされていたのかもしれません。何かの経路で、わたしが本部の統治体に手紙を書いたことを聞き及んでいたかもしれません。そうでなければ、反対する理由が分かりません。でも、そのことはあまり深く考えませんでした。


(2)地域監督が大会で聖霊で油そそがれた者であるわたしを悪く言われてその後事故で亡くなる


 ところで、その後、その地域監督が話をされる大会に出席しました。たぶん、地域大会ではなく、巡回大会、あるいは特別一日大会のような大会だったと思います。その時には、会衆に、ご年配の特別開拓者のふたりの姉妹が交わっていた時でした。


 大会や出版物で、わたしに対して良く短いメッセ―ジがありました。今は、何を言われたのか、なぜそのように感じたのかは忘れましたが、その大会で、地域監督がわたしをひどく悪く言われているのに気づきました。


 大会後、どうしてこのように悪く言われたのかと大会の話を記録した自分のノートを確認したことを覚えています。そして、そのことを誰かに電話で確認したようにも思います。でも、そのようにわたしがとてもひどく悪く言われていたのに気づいたのは、とても少人数だったと思います。たぶん、そのことに気づいた人がいるとしても、支部の長老レベル、もしかすると長老レベルなどとても少人数だったと思います。


 わたしはとても失礼だなと思いましたが、結局そのことを知っているのはごく少人数なので、気に留める必要はないと思いました。その地域監督が、統治体の指示を受けてそのような話をされたのか、あるいはただご自分の考えから話されたのかは分かりませんでした。


 でも、その地域監督がわたしが天的な希望を持つ者だということを知っていれば、まともに過度に悪くいうのは差し控えるのがエホバの目に良かったと思います。


 なぜなら、ダビデは、たとえ、サウルが神に不忠実になって罪を犯していたとしても、油そそがれた者サウルに敬意を払うように極力努力をしました。(サムエル第一24:6,7)また、シムイが油そそがれた者ダビデが苦境にあった時、彼をとても悪くののしったことがありました。(サムエル第二16:5-8)結局、シムイは、ダビデの死後、ソロモン王によって処刑されました。


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ダビデは油注がれた者サウルが罪を犯していても最大限の敬意を示した
油注がれた者に対する不敬は神に喜ばれない





   また、詩編の中にも、エホバが油そそがれた者を保護されていることが記されています。神は、『王たちを戒め言った。「私が選んだ者たちに触れてはならない。私の預言者たちに何も悪いことをしてはならない」(詩編104:14,15新世界訳改訂版)この「私が選んだ者たち」は旧版の新世界訳では、「わたしの油そそがれた者たち」となっています。


 
 さらに、エスの言葉は仲間のクリスチャンに対して自制をしないでこきおろすような言い方をする人に、エホバ神は好意を向けることはないことを示しています。もちろん、他のクリスチャンの神の律法に反するような悪い点を正しく指摘するのは間違っていません。(格言27:9) でも、根拠もないのに自制もしないでそうした言い方をするのはどうでしょうか。


 イエスは、「
ひどく侮辱的な言葉を仲間に言う人は最高法廷に引き出されます。また,『どうしようもない愚か者!』と言う人は,火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。 」と言われました。(マタイ5:22新世界訳改訂版)
      

 聖書は仲間のクリスチャンに対する言葉の用い方に対して、エホバ神が不興を示される場合があることを示唆しています。人の口から出てくる言葉は、その人の心の中から出てきます。(マタイ12:34)そして、クリスチャンは、仲間のクリスチャンを愛さなければなりません。(ヨハネ 13:34,35)ですから、そうした言葉は、仲間のクリスチャンに対して、心の中で愛を抱いていないことを示しているからでしょう。(マタイ15:18,19)

 

 

 

 

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神は仲間の兄弟に対する口から出た抑制されない侮辱に基づいて裁かれる




 ですから、わたしがたとえ、罪を犯していたとしても、過度にひどく悪く言ったり、何か悪いことをしたりするのは、エホバ神に喜ばれなかったと思います。それに、イエスの右手の上にある七つの星は大群衆の監督ではなく、聖霊で油そそがれたクリスチャンの男女です。(啓示1:20)


 その地域監督が、わたしが統治体に書いた手紙の内容をご存知であれば、エホバ神は責任を問われたのかもしれません。また、地域監督は、聖書の中に書かれていることに良く精通しているはずの責任ある立場にある長老です。


 その後まもなく、その地域監督の兄弟は、夏の休暇中に海で潜水をしていて、事故で亡くなってしまわれました。わたしはたぶんルームメイトを組むはずだった姉妹からそのニュースを、聞いたのではないかと思います。わたしはそのニュースを聞いてとても苦しみました。それは、わたしが一応象徴物にあずかっている神の子だったので、エホバ神が行動されたのではないかと思ったからです。


 その地域監督は、わたしがルームシェアをするのを妨げ、その上、大会で、いわゆる公衆の面前で、わたしをとても悪く言っていました。事情を知っていた人はごく少人数だと思いますが、いたかもしれません。それで、わたしはエホバがわたしのためにそのことが起きるようにされたのかと考え、とても苦しくてエホバ神に心の中で叫んで祈りました。


 あなたはわたしのために、地域監督が死ぬようにされたのでしょうかとエホバ神に尋ねました。わたしはそのことをエホバ神に望んでいなかったと祈りの中で言いました。でも、分かりませんが、エホバ神はわたしたちが祈らなくても、望まなくても、独自に行動されることがあるように思います。


(3)神はご自分の僕が願わなくても不敬な行為のために独自に行動されることがある


           聖書時代にもエホバ神は、時々神の民の間のことに突然、独自に介入されたことが記録されています。サムエル第二には、「ウザに対してエホバの怒りが燃え,真の神はその場でウザを打った。彼が不敬な行為をしたからである。彼は真の神の箱のそばで死んだ」とあります。(サムエル第二6:7新世界訳改訂版)それで、その時、ウザの不敬な行為のために、エホバ神が突然憤激されて、ウザを打ち倒されました。




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ウザの不敬な行為のためにエホバ神は独自に行動されウザを打ち倒された





 当然、そのことはダビデがエホバ神に望んで起きたことではありませんでした。(サムエル第二6:8)エホバがご自分の見地から、自主的に行動されたことです。当然、エホバ神は神の僕たちの祈りや願いを聞かれますが、神の僕たちとは別行動をとられ、独自に行動されることがあります。


 このような事態が起きるのを避けるためにどうしたらいいのかを考慮した記事を作りましたので、読まれてください。

 

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(27)統治体と異なる預言の解釈の油そそがれたクリスチャンをどう見なせるか

 

 

 

 でも、万が一、その兄弟がわたしに悪いことをして、その上大会で私のことを悪く言って、そのために命を落とす結果になったのだとしても、わたしはその兄弟のために祈ったので、その兄弟は楽園に復活されるのではないかと思います。


(4)聖霊で油そそがれたクリスチャンに対する迫害や行動はどのような結果になるか


 でも、すべての聖霊で油そそがれたクリスチャンの男女がそうだと思いますが、だからと言って、ひとりひとりエホバ神から奇跡的な保護を保証されているわけではないと思います。一世紀のクリスチャンも、神に是認されていても、ステファノやヨハネの兄弟ヤコブのように寿命が来る前に迫害で命を失った人もいました。(使徒7:59,60;12:2)


 一方、使徒ヨハネのように長生きした人もいました。また、使徒パウロ使徒ペテロは、死んでも当然な状況をエホバの助けで、生き延びることもありました。(使徒12:2-5,11)


 物事は、自由に発展していきますし、突然の事故や病気や事故死も起こります。(伝道の書9:11,12)ですから、エホバ神は聖霊で油そそがれたクリスチャンを保護されますが、それでも、わたしが不死身ということはありませんし、殉教することがあり得ると思います。さらに、寿命が来る前に、病気で死ぬこともあると思います。


 ただ、聖霊で油そそがれたクリスチャンの命が迫害で奪われることになると、大患難が起きる結果になると思います。なぜなら、啓示の書によると、大いなるバビロンの滅びが生じるのは、彼女が聖なる者たちや預言者たちの血を流したからだからです。(啓示18:20,24)


 エスは、「この世代は,世が始まって以来流された全ての預言者の血の責任を問われる」と言われました。(ルカ11:50)ですから、エスは、一世紀のエルサレムにローマの帝国の軍事攻撃が行われる結果になったのは、預言者を含むアベルからゼカリヤまで流された血のためだと言われました。(ルカ11:51)


           ですから、エホバ神はご自分に忠実な信仰を抱く人々を大切にしておられるので、その命を奪うと、そうする国家や組織や人はエホバ神から復しゅうされることになります。エホバ神は、ご自分のご意志を行う者たちに、『触れる者たちは私の瞳に触れているのである』と言われています。 (詩編17:8。ゼカリヤ2:8)


(5)しばらくして事情によりそのマンションを引っ越すことになる


 わたしはわたしにとっては高額の賃料のマンションに住み続けました。その当時は、時間が経つうちに、英会話グループの生徒の数が増えて、経済的に好調になったので、なんとかその家賃でもやっていけるようになりました。


 わたしは、ひょっとして統治体は以前は私が誰かと結婚することを望んでいたのではないかと思います。油注がれた姉妹は、教える資格はないので、誰かと結婚すれば、その兄弟がわたしが言ったことを他の人に教えることができると考えられたかもしれません。


 一時的には、経済問題のために、結婚した方が助かるかなと思ったこともありました。でも、わたしは、早朝の聖書朗読と野外奉仕などのエホバへの奉仕に忙しい生活に満足していてその生活を続けたいと望んでいました。その生活に専念したかったので、基本的に結婚したいとは考えていませんでした。


 現在でも結婚を望まないのは同じです。これからも死ぬまで、独身で聖書研究にできるだけ時間をとりたいというのがわたしの願いです。


 でも、また、別の機会に話しますが、水の事件のために、わたしは別のアパートに引っ越しました。それは、賃料の節約のためもありました。また、ストーカーに悩まされたためもあります。

 

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(26)わたしヨハネは原水事件のために再び正規開拓者から降ろされる

 わたしは大群衆の長老たちによって、わたしにとっては比較的賃料が高いマンションにひとりで住むようにさせられました。大群衆の長老たちからは、はっきり分かっているだけでも、少なくとも、ふたりの長老により、ルームメイトを組むことを妨げられました。そのうちに、わたしはある程度は経済的に、やっていけるようになりましたが、そこで、ひとつの事件が起きました。


 同じマンションに住むエホバの証人の姉妹から浄水器を通さない原水の水を浄水と偽って分けられました。そのこと自体は、実際、さほど大きな問題ではありませんでしたが、わたしがその事実を長老に話した結果として、わたしは反対に、正規開拓者を降ろされました。また、その正規開拓者の姉妹は、その結果かどうかは分かりませんが、エホバの証人の大会の実演に用いられ、高められました。


 そして、長老たちは、わたしが表象物にあずかって、聖霊で油そそがれたクリスチャンであるという立場を表明することを望んでいませんでした。彼らは、わたしがそのようにすることをできるだけ目立たなくさせようとしました。それは、わたしの聖霊で油そそがれたクリスチャンとしての立場が疑われたからだと思います。 


(1)浄水器を通さない原水を証人から分けられる


 わたしはとても腸が弱く、すぐに下痢をしました。それで、良い水か悪い水かで腸が大きな影響を受けました。同じマンションに住んでいる正規開拓者の姉妹がお宅にとても高額の浄水器を持っておられました。それで、その姉妹のところに、空のタンクを持って行って浄水器の水を分けてくれるように頼みました。その姉妹は、わたしが腸がとても弱いことをご存知で、わたしが頼みに行くと分けてくれました。


 わたしはその姉妹の親切だと思って感謝していたのですが、わたしのマンションに来て、その水を飲んだわたしの研究生が、この水は浄水器で浄化された水ではなく原水だと言いました。その人は、ご自分が水に非常に敏感で、分かると言われました。


 それで私は、浄水器の業者に水が浄水か原水かどのようにして確かめられるかを尋ねました。そうしたら、試薬で確かめられると言われました。たぶん、水のペーハーを確かめる試薬であったのだと思います。わたしは以前浄水器を持っていて、その試薬を持っていました。それで、それを使って調べると、その水は原水だという反応が出ました。


 わたしはその姉妹に、なぜ原水を浄水と偽ってわたしに分けたのかと非難しました。その姉妹は、私が言ったことを半分否定しませんでした。そして、その姉妹はわたしに他の機会に食事や物品の差し入れをしたということを指摘しました。確かに、それは事実でした。でも、その姉妹は一言も謝罪はされず、ただそのことを見逃すように求めたと思います。


 彼女は「意地悪をしてごめんなさい。もうしません。これからはいい水をあげます。」とは言われませんでした。実際、親切であるべきエホバの証人の姉妹が、そうした意地悪をするのは、あってはならないことだと私には思えました。普通は、信じられないことでした。


 その姉妹は、浄水の水を分けるのは、過分のご親切なので、浄水された水を分けたくないのであればわたしにそう言えば良かったわけです。それをわざわざ原水をわたしにくださるというのは、とても意地悪だと思いました。


 でも、確かにその姉妹にとてもよくしていただいていたので、わたしはその姉妹がご自分が意地悪をしたことをはっきり認めて謝罪をしてくださっていたら、それで見逃していたと思います。でも、彼女が私に謝らなかったので、私は、あやふやにしてただ見逃すのはいやだと思いました。


 でも、そういうことを姉妹が認めるとなぜそのような意地悪をしたのかということが問題になります。姉妹はそのことを認めることができなかったのではないかと思います。エホバの証人の姉妹の中では、そのような意地悪は決してあってはならないことだったと思います。


 その姉妹は、迫害のために離婚になっていた姉妹でしたが、ご主人が再婚されておらず、淫行がなかったので、その当時、まだ、神の目には、再婚は許されないという状況にありました。そのことを話しておられました。そして、姉妹は、会衆の別の正規の若い独身姉妹が、その独身の長老兄弟にアピールしているのを気にしておられました。


 わたしのマンションに住む姉妹は、独身の正規開拓者の長老たちを何度も食事招待をして親切にしていました。その姉妹は、長老たちに厚遇してもらいたかったんだと思います。あるいは、その正規開拓者の独身長老と結婚したいと願っておられたのかもしれません。


 そして、わたしはかなり会衆で目立たないようにされていましたが、長老たちは、わたしが雑誌の配布など奉仕でがんばっていることは知っていました。奉仕報告を見れば分かるでしょう。独身の正規の長老兄弟がそのことを私に言われました。


 私としては、その兄弟が年下ということもあり、全く異性としては関心はありませんでした。でも、その正規の姉妹は、その主宰監督の独身兄弟がわたしに注目していたことに気づいていて、面白くなかったのではないかと思います。


 エホバの証人の中では、男性よりも女性の数が圧倒的に多く、魅力的な独身姉妹がたくさんいます。多くの独身の姉妹たちは結婚を望んでおられるので、独身の長老や独身男性の特開者や正規開拓者が会衆にいる場合、姉妹たちの間で少し、競争みたいなことが生じることがあります。


 その姉妹は、別の正規の若い姉妹がその独身兄弟にアピールしていることを気にしていることを私に話されたので、わたしがその点で、その姉妹の味方だと考えておられたんだと思います。


  でも、わたしはその姉妹がもし、完全独身の立場だったら、彼女がその兄弟に好意を持っていることに、協力もしたと思います。でも、わたしは同じマンションのその正規の姉妹がまだ神の目にまだ独身でなかったのに、独身の長老兄弟たちに過度に親しくするのを少し不愉快に思っていました。


 

  その姉妹がわたしにはっきりと謝罪しなかったことと、そのことが少し不愉快だったこともあり、その水の件をその独身長老に話しました。


 でも、わたしは後でその姉妹が、ご主人が再婚したということを言われたので、それなら、姉妹は自由に結婚できますとその姉妹に言いました。それで、わたしはその姉妹と兄弟の仲に反対していたのではなく、聖書の原則が踏みにじられているように感じていやでした。


(2)わたしがその当時正規開拓者を再び降ろされ油そそがれた者としての立場を疑問視される


 わたしはその独身の主宰監督にわたしが経験した水の問題について知らせました。わたしは自分の研究生の証言についても、試薬で確認をしたことも話しました。するとその兄弟は、不愉快な顔をされて、ご自分によくしてくれる姉妹がしたことでもあったからではないかと思いますが、水が悪かったくらい小さなことなので、気にしないで流すようにと私に言いました。わたしは幾らかそれは良い判断かもしれないと感じました。


 ところが、その後、長老たちは、その正規の姉妹に事情を確認しました。するとその姉妹は、うそを言われて事実を完全否定をされました。その時も、以前と同じように、わたしと別の姉妹の証言が食い違った時に、長老たちに気に入られている姉妹の証言だけが、正しいこととして受け入れられました。また、わたしが、その姉妹を陥れるためにうそを言ったということになったと思います。そのために私は正規開拓者を降ろされました。


  その正規の姉妹は、その後、大会で実演の特権が与えられました。その姉妹は、独身の兄弟の主宰監督にとても親切にしていたので、その特権が与えられたのではないかと思いました。その姉妹が特権を与えられたのは、原水事件の後だったと思います。


 その後、その正規開拓者の姉妹は、大会の実演の特権が与えられた後のことだったと思いますが、わたしひとりの前で、ご自分がうそを言ったことを認めて、ご自分がとても悪かったことを示唆しました。その姉妹も良心が痛んだのではないかと思います。でも、もし現在、万が一、その姉妹がそのことを確認されたなら、そのことを認められるかどうかは分かりません。


 でも、わたしはだいぶ後になって、背教者としてエホバの証人から排斥されることになりました。わたしはエホバの証人の間は、そのことを全然他の人に口外しませんでした。それで、その姉妹は、そのことを現在、確認されても、わたしにそのことを認めたり、謝罪をすることもないと思います。 背教者になるのであれば、その当時、そのように言って、わたしが正規開拓者を降ろされる結果になるようにされた良かったくらいに考えておられるかもしれません。



 さらに、わたしが会衆の長老たちにルームメイトを探すのに反対して画策したかということを尋ねたことも長老たちは、おもしろくなかったと思います。そして、その後、わたしが表象物にあずかろうとした時、長老たちは、わたしが他の会衆の兄弟たちが見ている前で表象物にあずからないようにしようとしました。


 その会衆の王国会館は、後方が二階になっていて、一部が小さな独立した部屋になっていました。長老たちは、記念式のために集会に行った時、わたしが一階の広い集会場ではなく、二階の小さな部屋で、たったひとりで、表象物にあずかるようにとわたしに言いました。わたしは、表象物にあずかるのは、その立場を公表するためもあるので、そのことは、拒否しました。そして、二階の他の出席者もいる所で、表象物にあずかりました。


 わたしが、その姉妹を陥れるために、うそを言ったことになったので、わたしが聖霊で油そそがれたクリスチャンであるという立場が、長老たちにより、疑問視されることになったと思います。


(3)審理委員会などでふたりの証人の証言が食い違う場合どのように対応できるのか


 以前もお話ししましたが、ものみの塔の出版物の中にも、審理委員会などで、ふたりの証人の証言が食い違う場合、どちらかが、正しいことを語っているわけです。また、どちらかが偽りを語っている場合もあることを思いにとめなければならないという指摘がありました。それは、どちらが正しいことを言っているかは分かりません。


 検索語句が正しくないのかもしれませんが、どこにそのことが書かれているのか今回は指摘できませんが、確かにそのような記載が出版物にあるのを見たことがあります。



 それで、昔は、使徒ペテロがアナニアとサッピラの偽りを奇跡的に見抜きましたが、今日そうすることはできません。(使徒5:1-11)

 




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使徒ペテロはアナニアのうそを奇跡的に見抜きましたが今日そういう奇跡は起きません





そして、ソロモン王はふたりの売春婦の証言が食い違った時に、一方のうそを見抜きましたが、そんなことは誰もができるわけではありません。(列王第一3:16-27)



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今日ソロモン王のようにふたりの売春婦のうちひとりがうそをついていたことを見破るようなことができる人はほとんどいません





 ですから、そのような場合は、エホバ神にゆだねて、その問題を保留にして、どちらに対しても、手厳しい処置をとらないようにするということしかできないと思います。あるいは、実際、意地悪ではありますが、大きな問題ではないので、長老たちは私たちの双方がとにかく、仲良くするという仕方で、解決を図ることもできたと思います。


 でも、長老たちは、わたしが一方的にうそを言い、その姉妹は事実を言ったとみなされ、わたしに陥れられようとした被害者とみなされたのではないかと思います。わたしだけを、正規開拓奉仕を降ろすという裁きをされました。でも、エホバ神は、ほんとうのことをご存知なので、最終的には、ご自分の方針に従って裁かれることになると思います。



 その正規の姉妹は、わたしが表象物にあずかっているということをご存知でしたが、イエスの右手の上にある七つの星は、大群衆の長老であるとされていたので、聖霊で油そそがれたクリスチャンであるわたしの是認を得ることよりも、大群衆の長老の前で良い立場を得ることを優先して求められたのだと思います。



 その姉妹は、会衆内の長老からの良い評判を失いたくなかったのでしょう。実際、そのような意地悪は証人たちの間で普通に起こることではありません。おおむね姉妹たちは、親切です。でも、エホバの証人の会衆の中で、姉妹たちが長老たちから良い心証を得るというのはとても重要なことです。それでその姉妹は、長老たちの前で素敵な姉妹として面目を保ちたかったんだと思います。


   でも、実際は、永遠の命を得られるかどうかは、イエスの霊的な兄弟たち、すなわち聖霊で油そそがれたクリスチャン男女に愛ある親切を示すかどうかにかかっているとイエスは、言われました。(マタイ24:45,46)

  

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永遠の命を得られるかどうかは羊のようにイエスの兄弟たちに親切を示すかどうかにかかっているとイエスは言われた





 ですから、表面的に、聖霊で油そそがれたクリスチャンをなおざりにして会衆の長老たちの心証を良くすることは、当面は好都合であると思えても、長い目で見れば、エホバ神の是認と祝福を失う結果になると聖書は述べています。



(4)長老の言うことすることが自動的奇跡的に正しいこと良いことにならないのはどうしてか


 エホバの証人の会衆では、長老とりわけ主宰監督の権力がとても強いです。なにしろ、今でもそうだと思いますが、その当時は、大群衆の長老たちもイエスの右手の上にある七つの星だとみなされていました。


 それで、神の律法や聖書の基準を考慮することが強調されるのではなく、長老たちの言うことには、何でも疑うことなく、それが奇妙であっても、盲従するように教育が行われています。長老たちの指示することに盲従すれば、長老たちのすることは、自動的奇跡的に正しく良い結果になるという指導がなされていると思います。



 ですから、わたしたちが判断や決定をくだす時には、エホバ神に導きを祈り求めながら、聖書の原則や事例を考慮して、この場合にどのように当てはまるか熟慮をすることが必要だと思います。(箴言3:5,6)エホバの証人の会衆の長老の判断や決定がそうした熟慮をしないでなされる場合、時には、間違った判断と決定になり、エホバ神のご意志からははずれることになると思います。


 

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エホバ神の導きを祈り求めながら聖書の事例と原則を考慮しなければ正しい判断と決定にはならない





 さらに、エホバの証人の会衆内で、特権が欲しい証人が、食事招待をしたり、差し入れをしたりして長老たちによくすることもあります。地域監督や巡回監督、また、支部の監督の場合は、決して高給ではありませんが、ささやかな手当と会衆からの援助があります。


 でも、エホバの証人の地元の会衆の長老たちや奉仕の僕たちはキリスト教会の牧師たちのようにお金をもらって会衆の集会で話をしているわけではありません。無償で会衆で聖書から話をする労を払っておられるので、その自己犠牲的な労のゆえに感謝をするのはふさわしいことではあります。


 でも、エホバの証人の中では、長老たちの判断や決定がいつも自動的奇跡的に正しいものになるとみなされていて、長老たちが過度に高められていると思います。そのために、聖霊で油そそがれたクリスチャンであるわたしヨハネが不当な扱いを受けるという結果になったと思います。


 わたしが表象物にあずかって、天的な希望を持っていることを表明しても、地元の証人たちの間で敬意をもって扱われることはほとんどありませんでした。わたしは権威のない大群衆の姉妹のひとりに過ぎない扱いどころか、かえって下に見られていたと思います。エホバの証人の間では、新たに表象物にあずかる人々はおおむね間違った思い込みのゆえにあずかっているとみなされています。


 もちろん、天的な希望を抱くのは、人々の間で目立つためとか栄光を受けるためではありません。それで、そういうことは、あまり気にしませんでした。天的な希望の自覚を持つのは、自分とエホバ神との間の問題だからです。


(5)マンションで起きたストーカーの問題のために引っ越したが問題については口外しなかった


 わたしは、そのわたしにとって高い賃料のマンションから引っ越すことにしました。 そのマンションの大家さんは、エホバの証人でしたが、とてもよくしていただきました。でも、そのマンションでは、ストーカーの問題があったからです。


 わたしのマンションの部屋の屋根裏に何者かが侵入している音がいつもしていました。そこのマンションの作りは、玄関の外の廊下にあった置物の倉庫から、屋根裏に入れる作りになっていました。わたしはその問題を巡回監督に相談しましたが、解決しませんでした。その問題を避けるために、隣の会衆のアパートに引っ越ししました。また、引っ越したのは、家賃を少しでも低く抑えるためもありました。


 わたしは隣の会衆に移りましたが、その会衆でも、以前住んでいたマンションで起きたことは一切長老にも個々の成員にも話しませんでした。別の会衆で起きたことですから、話しても、事情が複雑で、理解されたり、信じてもらえない可能性がかなり高いと思っていました。


 たぶん、長老たちの権威がとても強いので、長老たちの意見だけが尊重された可能性が高かったと思います。わたしはその問題をエホバ神に委ねました。


 結局、証人たちの間で、天的な召しはほとんど終わったとされていたので、間違った思い込みをしているか、キリスト教会の間違った教理の影響を受けて、天的な希望を持つようになったと思われたのではないかと思います。そうしたことがものみの塔の記事で扱われました。


 

 でも、天的な希望を抱く姉妹の場合、兄弟たちと違ってほとんど好遇されないのは、他の姉妹も同じ状況のように思えます。また、わたしは他の兄弟姉妹たちに、自分の天的な希望について話すこともほとんどなかったので、ご存知だったのは、昔生きていた統治体の兄弟たちと日本の支部委員少数と、会衆の数少ない長老兄弟だちと少数の会衆の成員だけだったと思います。


 また、別の機会にどのように真正の聖霊で油そそがれたクリスチャンを見分けることができると聖書が述べているか考察したいと思います。


(6)多くの姉妹たちは特権を追い求めることなく聖書を当てはめ親切であること


 でも、この点でも、エホバの証人の名誉のために申し上げたいと思いますが、多くの姉妹たちは、別に特権があってもなくても、不平を言わず、聖書の教えを当てはめるよう努力をされていると思います。普通の伝道者の姉妹たちが、わたしにも個人的にとても親切にしてくださいました。その当時も、わたしに少額のお金をくださったり、車に乗せたり、家に呼んで食事招待してよくしてくださる姉妹たちもおられました。


(7)エホバの証人の中で必ずしも完全に公正なことがいつもすぐに起こるわけでない事


 それで、わたしはエホバの証人として二度、正規開拓者を降ろされましたが、どちらも不当な理由であり、それは、統治体の、イエスの右手の上にある七つの星が長老たちであるという聖書からはずれた教義の説明が関係していたのではないかと思います。長老たちが不当に過度に高められています。


 さらには、会衆の成員が、エホバ神を恐れて正直にするのではなく、会衆の長老たちの心証を良くしたいと願う余り、不正直であったことも原因していました。わたしたちの目には見えないエホバ神に対する信仰の欠如であったと思います。また、聖霊で油そそがれたクリスチャンの姉妹がとりわけ、エホバの証人の間で、低く見られていたからだと思います。


 そして、大群衆の長老たちに不当な誉れが帰せられる結果、大群衆の長老たちはご自分たちの権力を振るい、必ずしもその動機は愛ではない場合もあったと思います。


 それで、長老たちのすることが決して自動的奇跡的に正しい結果になるわけではありません。エホバの証人の中で起きる事が必ずしも、いつも完全に公正な事、神の目に正しいことが起きるわけではありません。排斥されたり、立場を降ろされたりすることもそうです。


 奇跡があった一世紀のように会衆内で、物事の真偽が完全に暴かれて公正がただちに行なわれるということもありません。(使徒5:1-9)奇跡は過ぎ去ったからです。(コリント第一13:8)ですから、エホバの証人の間の処置は聖書にかなった正しいものであったり、別の場合には不当なものであったりすることがあります。


 それでもわたしは、エホバ神に対する信仰を失いませんでした。わたしは不完全であり、賢明でなかったり巧みでなかったりしたかもしれませんが、わたしが神の目に悪いことをしようとする意図はないこと、不当な扱いを受けていたことはエホバ神はご存知だと思いました。わたしは自分がエホバ神の是認があればそれで良かったです。


 そして、聖書朗読をしていたので、ダビデが神の選民の国民の中で生活していながら、悪いことをしていなくても不当な経験をしたということを知っていました。(サムエル第一18:10,11)また、ヨセフも神に信仰を抱く家族の中で、肉親の兄弟たちに欺かれたり、ボテパルの妻のうそのために不当な扱いを受けたことも知っていました。(創世記39:13-20)

 




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ヨセフは神に信仰をいだく肉の兄弟たちによって不当な扱いを受けエジプトの奴隷とされた


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ヨセフはボテパルの妻のうそによって投獄されることになった





 昔の神の民の間で、いつも完璧に正しいことが起きてきたわけではありません。神に信仰を持つ人たちでさえ神の目に間違った行動をする場合があることを知っていました。そして、昔の神の民の間で、罪のない人が苦しみを経験すると言うことも起きていました。それで何も驚きませんでした。



 しかし、ダビデの場合も、ヨセフの場合も、エホバ神は、彼らが公正に扱われるように行動していかれました。ダビデの場合は、大きな罪を犯していましたが、エホバ神は彼のご自分に対する生涯の専心を評価されて、ダビデがふさわしく扱われように助けられました。


 それで、私はすべてのことをご存知のエホバ神が存在されるという信仰を引き続き抱いていました。確かに、エホバは何が起きているかご存知なので、エホバの証人の中でただちに正しく公正なことが行われなくても、エホバはわたしがしていることを見ておられて、何らかの形でいつか公正な事を行ってくださるかもしれないと考えていました。


 例え、わたしが生きている間に、そうした公正なことが起きないとしても、結局、エホバ神はわたしが死んだ後、将来、定められた時に、天に迎え入れてくださいます。そのようにしてエホバ神はわたしに報いてくださいます。わたしは隣の会衆のアパートに引っ越して、集会に出席し続け、奉仕をし続けました。

 

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(25-1)わたしヨハネが統治体に七つの星について聖書的な手紙を書いたいきさつ

 

 わたしはエホバの証人だった時、大群衆の長老のために、不当に困難を経験させられたと思います。でも、わたしはある都会のマンションに住み続けて、毎日早朝に起きて聖書朗読を続け、聖書に精通していきました。



 それから、今から二十年以上前のことになると思いますが、統治体に啓示の書の七つの星について聖書から論じた英文の手紙を書き送りました。その後、自分の住むマンションで、わたしはルームメイトを組むことを計画しました。その結果、その当時、どんなことが起きたかを今回は、お伝えしたいと思います。


(1)統治体に啓示の書の七つの星についての聖書的な考察について手紙を書く


 私は、私にとっては高い賃料のマンションに暮らして、英会話の講師をしながら、正規開拓奉仕していました。わたしはその頃、朝四時か四時半ごろには起床して緑茶を飲んで目を覚まして毎日日本語と英語の聖書を読んで、英語の聖書朗読のテープも聞いていました。



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わたしヨハネは緑茶のカフェインで目を覚まして聖書朗読を続けました




 それ以前から、聖書朗読は定期的にしていましたが、新世界訳の英語版も読み始めました。そのマンションでそのようにし始めたのは、わたしが三十代の半ば過ぎ頃から四十代に入った頃になると思います。


     わたしは会衆の長老からは、冷遇されていたと思いますが、わたしは基本的に創造者なる神エホバ神が自分に命とすべてのものを与えてくださっていることに心から感謝をしていました。そして、わたしは神の言葉聖書をとても愛していたので、エホバ神を見つめていました。そして、奉仕にも最善を尽くしていました。




 その会衆に正規開拓者の長老兄弟が組織から任命されて引っ越して来られました。ひょっとしたら、その兄弟は、統治体の任命だったかもしれません。支部の任命だったかもしれません。覚えていません。


 わたしが啓示の書の七つの星についての聖書的な考察について統治体に手紙を送るきっかけになったのは、その兄弟が、七つの星は聖霊で油そそがれた監督であるということを指摘されたからだったと思います。(啓示1:20-2:1)その兄弟はたぶん、統治体の教えを疑うことなく全面的に受け入れておられたんだと思います。


 わたしは、その兄弟に、七つの星は聖霊で油そそがれたクリスチャンの男女を表すと考えると言いました。そして、その長老に、そのことに関して統治体に手紙を書くことを知らせました。


 それで、わたしは七つの星が聖霊で油そそがれたクリスチャンの男女であるという聖書的な根拠を挙げた英文の手紙をエホバの証人の米国ニューヨーク本部の統治体に送りました。その頃、以前の経験談で述べたように、わたしはエホバ神に天的な子供として召されているという自覚がとても強くなりました。私が、象徴物にあずかったのは、一応自制して一年くらいは、自分を吟味してあずかるのを控えた後です。


(2)近くの表象物にあずかる兄弟に会いに行って自分の天的な希望を吟味してみる

 

 近県に象徴物にあずかっている聖霊で油そそがれたクリスチャン兄弟がおられるということを聞きました。どのようにしてその兄弟の名前と住所と連絡先が分かったのか、今では不思議ですが、とにかく、彼とその妻の姉妹に会いに行って話を聞きました。


 その時は、その兄弟の話をお聞きして、誰かが聖霊で油そそがれたクリスチャンとしての自覚を持つようエホバ神から動かされるのは、特定の目的か趣旨があってのことだと感じました。


 何であったか忘れましたがその兄弟も、何かの点で、特定の意見を持つようになられてから、象徴物にあずかり始めたと言っておられました。その後、わたしも象徴物にあずかり始めました。


(3)自分の天的希望についてほとんど自分からは兄弟たちに話さなかったこと

 

 でも、わたしは記念式で象徴物にあずかる以外は、自分が聖霊で油そそがれたクリスチャンという立場にあることを他の人に自分からはほとんど話しませんでした。なぜかというと、その立場は目立つためのものではなく、自分が誉れを受けるためのものでもなく、自分とエホバ神との関係だと考えたからです。


 記念式の時、パンとぶどう酒を運ぶ係の奉仕の僕の兄弟とその報告を受けた地元の長老兄弟たちは分かると思います。また、近くに座っていた兄弟姉妹たちも中には気づく人も少数いると思います。初めて記念式で象徴物にあずかった後、会衆のごく親しい姉妹たちふたりがそのことについて言及しました。


 でも、わたしがそういう立場にあることを知らない会衆の人たちも多かったと思います。長老兄弟たちも、そのことについて会衆の集会で触れるわけではありませんでした。とても親しくしていた別の会衆の姉妹でさえも何年も経ってから、わたしが象徴物にあずかっていることを知らなかったことが分かりました。それで、わたしのその立場は、エホバの証人の間で、あまり知られていなかったのではないかと思います。



(4)統治体の兄弟たちは幾分かわたしの油そそがれた者の立場に注目されたのはなぜかわたしが考えた理由

 

 わたしが手紙を書いた頃の統治体の兄弟たちは、現在からすると一世代前のご年配の兄弟たちで、わたしが手紙を書いた頃の統治体の兄弟たちは今もうほとんど亡くなっています。でも、20197月の今でもその当時の統治体の兄弟がひとりくらいはおられるかもしれないと思います。


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わたしが手紙を書いた頃統治体はこのようなメンバーだったと思います





 わたしが天的な希望が強くなっていることをその手紙の中で書いたので、統治体の兄弟たちは、私を聖霊で油そそがれたクリスチャンとして注目することになったんだと思います。天的な希望を持つ兄弟たちが、同じ希望を持つクリスチャンに注意を払うのは当然でしょう。


  でも、どちらかというと、わたしが持つ天的な希望が真にエホバから与えられたものかどうか、様子を見てみたいと考えておられたのではないかと思います。ものみの塔誌に、思い込みで表象物にあずかる人たちが多いと書かれていました。ですから、わたしがエホバの証人の組織の中で頭角を表わしてくれば、わたしが真の聖霊で油そそがれたクリスチャンで、そうでなければ、思い込みだとみなすということになったのかもしれません。


 でも、ダビデの場合は、確かにサウル王の軍隊の中で、重宝されるようになりましたが、結局、サウル王によって、王の組織の中から追い出されることになったわけでしたが。

 

 

 その手紙を書いた後、目ざめよ誌が出ましたが、わたしが統治体に書いた手紙の反応が記されていたように感じました。わたしはとにかくその当時の統治体の兄弟たちから良かれ悪しかれ注目されるようになりました。


 目ざめよ誌の記事を通して、一部の統治体の兄弟たちはわたしが高慢であると感じられたような印象を受けました。わたしが女性だったので、そのようなことを論じる資格はないと感じられたのかもしれません。でも、一部の統治体の兄弟たちは、わたしの論議がもっともだと感じられたのかもしれません。でも、その記事の聖書的な論議に対する直接のお返事はありませんでした。


 最新科学によって盗撮を行い、室内を観察できるという記事が目ざめよ誌に掲載されました。それで、どうもわたしのそのマンションの部屋が窓を通して盗撮されているのかもしれないと後で思いました。そして、これはその盗撮と関係があるかどうかは分かりませんが、わたしは後でそのマンションでストーカーにもとても悩まされました。


 ものみの塔の研究記事には、わたしに対する短いメッセージが掲載されるようになりました。それがどうして自分に対するメッセージだと分かるのかは、少し説明しにくいです。


 わたしは、統治体の兄弟の一部が、私に米国に来て欲しいと望んでおられるようにも思いました。実際、わたしも一時は米国に行って住みたいと思っていました。でも、結局、健康上の理由と経済力に自信がなかったことが主な理由で、米国に行くのはやめにしました。


 七つの星の実体が聖書的にどうであるかは保留にされたのではないかと思います。でも、今でも、七つの星が何であるかについての統治体の見解は変わっていないと思います。今でも、七つの星は、聖霊で油そそがれた監督、あるいは大群衆の長老を含めた監督たちだという解釈になっていると思います。


 その後、地元の会衆の長老たちに、そのマンションに引っ越すに当たって、わたしのルームメイトになるはずだった姉妹の会衆の長老に依頼して、ルームメイトになるのをやめるように言わなかったかと尋ねました。長老たちふたりは否定されましたが、わたしの実家のある県の会衆の長老に連絡して調べることはしないようにと強く言いました。わたしはおかしいと思いました。


 

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(24)クリスチャンの交わりの際飲酒に関する聖書の指針を守って健全な交わりを楽しむ

 1980年の前後だと思われますが、中南米のある国でエホバの証人の結婚式の披ろう宴が夜の明けるまで続き,人々は一晩中酒を飲んでいました。その結果,一つの会衆の長老団と奉仕の僕全員がその立場から除かれたということがあったそうです。(ものみの塔1983/7/15飲酒-あなたは聖書と同じ見方をしていますか)


 ですから、エホバの証人は、パーティで飲み過ぎないということでも、神の律法を守るよう組織として努力を払っています。また、会衆で大勢で定期的に星を見に行って、寒かったので、テントの中で夜遅くまで皆でお酒を飲んで暖をとったということもあったことを知っています。それで、エホバの証人も交わりの席で、飲酒をすることがあります。



 それで、今回の記事は、飲酒に関する聖書の指針と、それを守る必要性を考えてみたいと思います。そして、わたしが過去に交わったエホバの証人の交わりをご紹介します。これは、神の律法に違反しなくても、クリスチャンが健全な交わりを楽しめることを示しています。




(1)クリスチャンの交わりの際主催者は飲み過ぎや酩酊にならないように気をつけることが必要


  ペテロはクリスチャンに仲間に世の人と異なる基準を持つよう次のように勧めました。「かつて皆さんは,恥知らずな行い,激しい欲情,飲み過ぎ,ばか騒ぎ,飲み比べ,忌まわしい偶像崇拝にふけっていましたが,世の人々の好むことを行うのはもう十分です。堕落した放蕩の道を皆さんが人々と一緒に走り続けることはありません。」(ペテロ第一4:3,4新世界訳改訂版)


 ですから、世間では普通に行われることかもしれませんが、聖書は、「飲み過ぎ」や「飲み比べ」を非としています。(ペテロ第一4:3,4新世界訳改訂版)飲み過ぎや飲み比べは、世の人々の好むことです。放とうの道であると述べられています。

 

 また、聖書は「酩酊(めいてい)する人」は神の王国を受け継げないので排斥するようにと指示しています。新世界訳の旧版では、この「酩酊する人」は、「大酒飲み」となっています。 (コリント第一5:11-13;6:9,10)


 


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聖書はお酒を飲むことを非としてはいないが飲み過ぎを非としている


Flickr/Menno van der Horst




   さらに、聖書は、監督や援助奉仕者の資格に酩酊を避けることを求めています。監督は『酩酊』を避けなければならないと述べられています。(テモテ第一 3:23)さらに,パウロは「援助奉仕者 の資格のひとつに、『多量の酒を飲まない』ことをあげています。他の聖書翻訳でも、「酒を飲み過ぎない」今日の英語聖書、「自分たちの飲む酒の量に節度を守る」エルサレム聖書』となっています。(テモテ第一 3:8) 


   聖書の言葉を考慮すると、一晩中か、非常に遅くまで開催される酩酊を目的としたパーティの開催は、非とされています。

 

 

  イザヤ書に、こうあります。「酒を飲むために朝早く起きる人たちには災いがある!彼らは夕方遅くまでだらだらと過ごし,ぶどう酒にのまれる。彼らの宴会には,たて琴と弦楽器,タンバリン,笛,ぶどう酒がある。彼らはエホバの行いについて考えず,その方の偉業を見ようともしない。」(イザヤ5:11,12新世界訳改訂版)


(2)酩酊のもたらす弊害


    聖書は飲み過ぎや飲み比べを非としています。飲み過ぎや飲み比べには、健康被害が伴います。飲み過ぎのために急性アルコール中毒で命を落とす若い人もいます。急性アルコール中毒とは、短時間にアルコールを大量摂取したとき、分解できなかったアルコールが血液を介して脳に達し、脳の神経細胞を麻痺させる中毒症状です。


 

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Payton Chung

 

急性アルコール中毒で昏睡状態に陥り死ぬこともある

 

 



 その症状は吐き気や嘔吐、酩酊、歩行障害昏睡呼吸停止となり死に至るケースもあります。 東京消防庁「他人事ではない急性アルコール中毒」によると、クリスマスや忘年会の多い12月に出動回数が多くなっています。そして、急性アルコール中毒で搬送された人の年代別では、男女ともに20歳代の人数が抜きんでて多くなっています。


 世間では、大学の新入生歓迎コンパ等で先輩に一気飲みを強制され重症の急性アルコール中毒となり、死亡した例もあることを耳にします。お酒を飲み慣れていないため、自分の適正量や限界を知らず、つい飲み過ぎてしまうようです。「飲み比べ」は確かに結果が悪いです。




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とりわけ若者は一気のみで急性アルコール中毒になり死亡することもある

Miguel Castaneda

 

 

 

 

  イザヤ書の中でも、神の民は、時間の制限なく大酒をすることが非とされていますが、そうすると、多くの場合、酔っ払ってしまい、理性をかなぐり捨てて、後で後悔するような性の不道徳や「ばか騒ぎ」や暴力行為に至ります。(ペテロ第一4:3新世界訳改訂版)

 

 実際、飲み過ぎは健康問題を引き起こすだけでなく、大酒は若い人の場合とりわけ、事件・事故につながりやすくなっています。

 例えば、日本の外務省の資料によると、リオのカーニバル期間中は特に,飲酒,薬物等によって興奮した若者達による乱闘騒ぎや,銃の乱射等が頻発するということです。

 

 厚生労働省のサイトによると、スウェーデンで行なわれた調査では、18歳・19歳時点における週の飲酒量と、その後15年間の全体の死亡率は比例していて、その多くが暴行によるものでした。このことは、大酒が暴力行為につながりやすいこと、暴力行為のために命を落とす結果になることを示しています。




 また、その他にも若い男性では中年男性に比べて、低い血中アルコール濃度でも死亡交通事故を起こしやすくなるという調査や暴力事件を起こしやすいとする報告があります。 それで、若い人の場合、より低濃度より少ない量の飲酒でも、死亡事故や暴力事件につながりやすいことになります。


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若い人の場合大人より少ない量で酔ってしまい事故になりがち

 

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とりわけ若い人が酔っぱらうと殴り合いなど暴行につながりがち







 それで、クリスチャンの交わりでも、とりわけ、若い人がアルコールに度を過ごさないように交わりを開催する人の方で配慮が必要です。アルコールを飲む時間に制限を設けたり、準備するアルコールが適正な量となるように配慮することが賢明です。 

 

 20歳以下の飲酒は日本では禁じられていますから、その法律に従うことが賢明だと言えます。若い時に、アルコール依存になる人は、やはり、年をとってアルコール依存になっている割合が高いという統計があるからです。



(3)どのようにクリスチャンのパーティの主催者がパーティの設定を楽しく聖書的なものにできるか


 カーニバルなど多くのキリスト教やそれ以外の宗教のお祭りや交わりには、偶像崇拝と性的な不道徳や泥酔や理性をかなぐり捨てた「ばか騒ぎ」が結び付けられています。


 ですから、クリスチャンのパーティは、最後にはめをはずして性の不道徳や偶像崇拝や放とうや泥酔に陥ることを意図したパーティであってはならないと言えます。ですから、パーティの主催者は、そのパーティの結果がそうならないよう配慮をする必要があります。


 夫婦がふさわしい服装で共に出席して、結婚の絆が尊重されることを示しているようなパーティであれば、性の不道徳に陥るような影響は最低限にできます。反対に、そのパーティは、もし、出席者が裸だったり、露出しすぎていて性的な欲情を強く刺激するような装いで開催されるならば、それは、結果的に、性の不道徳や乱交や理性をかなぐり捨てた振る舞いにつながり得ます。


 クリスチャンがパーティに行く場合、フォーマルな服装の必要はないかもしれませんが、健全でおしゃれな服装をしていくことができると思います。


 でも、男性だけ、あるいは女性だけで、夜がふけるまで、神との関係や人生の目的や将来の計画、聖書的な問題や社会問題について話し合いを続けるということがあるかもしれません。それは、聖書の中で非とされているとは言えないと思います。

 

 

 イザヤ書があるパーティを非としている理由のひとつは、エホバの行いや偉業について考えていなかったという理由もあるからです。(イザヤ5:11,12新世界訳改訂版)普通は、それは性の不道徳を促進することを意図してはいません。


 しかしながら、最近は、同性愛的な傾向がある人が増えています。そのような健全な目的の集まりであっても、夜遅くまで出席しているならば、性的な刺激を受け、性的欲情がかきたてられるというのであれば、その人は、そうした集まりから早く退出することが必要かもしれません。


 男女混合の場合は、ふさわしい時間の設定は望ましいのではないかと思います。聖書は、楽器の演奏を伴う「夕方遅くまでだらだらと過ごす」パーティを非としています。ですから、そのパーティや交わりの解散の時間を設定されていることが望ましいのではないかと思います。


 また、決して聖書は結婚式の宴会のようなパーティを楽しむことを非としてはいません。(ヨハネ2:1,2)ですから、その交わりが聖書的にふさわしいかどうかは、その交わりが性の不道徳や大酒をはめをはずした「ばか騒ぎ」にふけることを奨励するものであるか、ふさわしく時間も設定された健全な楽しみを目的としたものであるかどうかということになると思います。ですから、クリスチャンの交わりを主宰する人がそうしたことを考慮するならば賢明だと思います。


(4)パーティーや交わりに楽しいイベントを企画する


 わたし自身も、何度もエホバの証人の間の結婚式のパーティに参加したことがあります。ある結婚式は、公共の施設で開催され、エホバの証人の友人たちによるコーラスや劇の催し、楽器の演奏がありました。わたしも、そうした聖書の原則に基づいた劇作成にあずかり、また自分でも出演者になったりしました。それは楽しい思い出になりました。健全で楽しい集まりになっていました。


  そして、その結婚式の食事は、結婚したカップルや会衆の兄弟姉妹たちが準備したサンドイッチやその他の料理で、十分食事を楽しめた上、そのカップルには、ホテルの式場で上げる披露宴などからすると、経済的な負担が少なかったと思います。


 わたしは、また、聖書の知識を競うゲームを楽しむ若い人の交わりにも何度か参加したことがあります。それは、健全で楽しい交わりでした。聖書の知識を取り入れることを促進して、楽しいゲームの様になります。でも、競争がし烈になって聖書の知識があることで人が思いあがったり、聖書の知識があまりない人を過度にがっかりさせないように気をつける必要があると思います。室内の交わりで、トランプなどのゲームをしたりして楽しんだこともあります。


   また、会衆の兄弟たちが計画して、野外で集会をして、お弁当を食べて、その後にさまざまな遊びを楽しむ集まりにも参加しました。その時には、みんなで、組み分けをして伝言ゲームで競い合ったりしました。老若男女加わっていたので楽しかったです。バトミントンをしたり、草野球もしたり、その応援をしたりもしました。



 会衆で草野球をした時には、小さな子供たちも、バッターになってもらって、わたしも、ヘタッピでしたが、バッターになりました。大人も子供も女性もみんな加わる野球は競争でないので、楽しかったです。でも、若い兄弟たちが野球をした時にホームランをかっとばすのを見て、すごいなと感心したり、応援するだけでも楽しかったです。野球が上手かどうかは、聖書の知識とは関係なく、会衆の成員の思いがけない一面を見るのは楽しかったです。



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男の子も女の子も小さい子も若者も加わった草野球は競争でなく楽しめました





 また、個人的な交わりで、室内で卓球を楽しんだりしました。野外のピクニックで、賛美の歌の本を持って行ってみんなで歌ったりしました。野外の交わりで、ギターなどを演奏する兄弟もいました。群れで野外公園にピクニックにでかけていって、バーベキューを楽しんだりしました。こうしたイベントはとりわけ、元気な若者や子供たちは楽しむのではないかと思います。


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Kevin Krejci

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老若男女が加わったなごやかなピクニックでの飲み食いも楽しい

 




 それから、個人的な交わりで、家族の経験をお聞きしたり、ご夫婦のなれそめをお聞きしたり、家族の頭のお仕事についてお聞きしたのも、楽しめました。特に年を取るとただ経験を話して互いに親睦を深めるだけでも、楽しく思うと思います。


 それで、エホバの証人の間では、会衆の全体で、あるいは群れごと、あるいは個人で健全な楽しみを得られるように親睦の集まりがもたれていたというのが事実です。これは、交わりを主宰する人の裁量によると思います。



 わたしは過去の交わりで出た食事の内容はほとんど覚えていませんが、その交わりでなされたことや話は少し覚えています。それで、ある程度お腹を満たすのであれば、それほど豪勢な食事でなくても構わないのではないかと思います。もちろん、お腹をすかせていた時期に交わりが栄養補給になったこともあります。それで、ごちそうであればなおいいかもしれませんが、そうでなく軽食でも、楽しめると思います。



 男女別々だったらダンスなどもいいのではないかと思います。ミリアムを娘たちを率いて歌とダンスをして神を賛美したこともありました。(出エジプト15:20,21)男女別々がいいのは、異性に少しでも触れると強い性的な刺激を受けるという人もいるからです。(コリント第一7:1)


(5)クリスチャンが交わりを神の目に健全なものにするべき理由


 このようにクリスチャンが交わりが神の基準から離れないように気をつけなければならないのには、理由があります。クリスチャンは世の人と違って、聖書の預言がどのように成就していくかに、注意を払っていなければなりません。そのためには、理性を保っている必要があります。


   「眠る人は夜に眠り,酒に酔う人は夜に酔います。しかし,昼のものである私たちは,頭がさえた状態を保ち・・・ましょう」と聖書は勧めています。(テサロニケ第一5:7,8新世界訳改訂版それでクリスチャンは聖書の預言を知っているので、霊的に眠っていたり、酔っぱらった状態にならないようにする必要があります。理性を保って、世界で起きていることを冷静に見つめる必要があります。

 




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クリスチャンは世界の出来事に注目しつつ聖書の預言に注意を払うために霊的に酩酊しないようにする必要があります




 イエスは、神の王国の到来に関して、「食べ過ぎや飲み過ぎ・・・で心が圧迫されないよう注意していなさい。そうでないと,その日が全く突然に訪れます。 」と助言されました。(ルカ12:34新世界訳改訂版)

 

 クリスチャンが性の不道徳やばか騒ぎや酩酊や快楽におぼれるならば、霊的に重要な事に注意を集中することができないでしょう。すると、エホバ神の日が到来した時に、ふいを打たれて命を失うことになりかねません。



 また、今の危機的な時代にエホバ神による保護は絶対必要です。詩編には、「エホバは忠実な人を保護する」とあります。(詩編31:23新世界訳改訂版)

 

  ですから、 エホバ神は、キリストの贖いの犠牲に頼りながらも、神の律法を忠実に守って、神の是認を保つよう努力する人を保護します。ですから、クリスチャンは、交わりをする時にも、この世の一般の人々の基準とは異なる聖書中の神の律法を守るように懸命な努力を払う必要があります。


 交わりの時などに、神の律法に違反する事件が起きた場合、交わりの実情を調べた監督は聖書的な助言を与えて、その助言を聞く人がその助言を受け入れると言うのであれば、排斥の処置は必要がないかもしれないとは思います。でも、その聖書に基づいて助言を受け入れない態度を示すのであれば、排斥が必要かもしれないと思います。



 そのようにして長老は自分たちが任命されている地元のクリスチャン会衆を神のみ前に清い状態に保ち、この危機的な時代にあっても、会衆がエホバ神の是認と保護を享受するようにすることができます。(格言27:23新世界訳改訂版)

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(23-2)祭司が性の不道徳を避けることに率先して神の保護を失なわないようにする必要性

    クリスチャンが交わりを楽しむのは決して悪いことではなく良いこと楽しいことです。ユダの手紙には、初期クリスチャンがみなで「食事の席」を楽しんでいたことを示しています。(ユダ12新世界訳改訂版)でも、クリスチャンは、世の人々の祭りやイベントや交わりの様に性の不道徳や偶像崇拝やはめをはずした振る舞いを自分たちの交わりに持ち込まないよう気をつける必要があります。


 およそ30年前のことですが、エホバの証人のある会衆で、若い人の参加する交わりが開催され、それに関連して、排斥者と役長老と奉仕の僕の削除が行なわれたことがありました。まだ、他にもそうした事例はあるでしょう。


イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(17)エホバの証人の会衆での雑魚寝事件


 今回の記事では、エホバ神は過去に性の不道徳と偶像崇拝が伴ったパーティに敵対されたことを示します。さらに、神は、祭司級に神の律法を固守することを求められること、祭司がそうしなければ、神の保護を失い自分たちの組織に大きな災いが起こることになるかもしれないことを今回の記事ではとりあげたいと思います。

 

 

(1)神は性の不道徳を奨励する異教のパーティに対して敵対される


 昔エジプトから脱出したイスラエル人はシッテムの荒野で「モアブの娘たち」とパーティをしました。民はそのパーティで、「食べたり」偶像崇拝をしたりしました。そして、民は、モアブの女性たちと、性的に不道徳な行為」をしました。(民数記25:1,2新世界訳改訂版)偶像崇拝を行う集まりとは、つまり、神の民にとっては異教のお祭りや交わりを意味しています。


     そのために、イスラエル人全体に神罰が臨んで、神罰で死んだ人は24000人に上った」と記されています。(民数記25:9新世界訳改訂版) この神罰とは「疫病」であると考えられます。(サムエル第二24:15新世界訳改訂版)




 イスラエル人がモアブ人の女性とのパーティで淫行と偶像崇拝に陥る結果になったので、疫病によって数万のイスラエル人が死にました。この事例からも、性的な不道徳と偶像崇拝が結び付けられる交わりは、エホバ神に是認されないということが分かります。



 この疫病は、ひょっとすると、何らかの性感染症であったかもしれません。近年の新興難病であるエイズエボラ出血熱やジカ熱なども、体液や血液を介して感染すると言われています。つまり、性行為によって感染するわけです。


 もちろん、そのような集まりが行なわれる場にいても、個人的に偶像崇拝や性の不道徳や大酒などを避けることは可能だと思います。でも、そうした行いにふけるようにという強い圧力を確実に受けることになります。



(2)祭司が淫行に対してとった行動はその子孫に大きな影響があった-祭司ピネハスと大祭司エリ


 シッテムの荒野では、淫行を行ったイスラエル人の男とミディアン人の女ふたりを槍で処刑したアロンの孫の祭司ピネハスの行動は、エホバ神から喜ばれました。そのため、エホバ神の道徳基準を断固として守ろうとする行動のゆえに、ピネハスは彼の子孫が、祭司の職をずっと保つという契約をエホバ神からいただくことになりました。(民数記25:6-13)

 



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祭司ピネハスの淫行に対する毅然とした行動はエホバに是認され疫病がとどめられピネハスの子孫が報いを受けた






 一方、聖書は、エホバ神が淫行に反対され、とりわけ、それに祭司が関係している場合、不興を強く表わされることを示しています。


 大祭司エリは、自分の息子たちの祭司の淫行を大目に見て、断固とした処置をとりませんでした。(サムエル第一2:22-25)神の人がエリの子孫は、年取った人がいなくなり、大多数が剣によって命を失うことを予告しました。(サムエル第一2:31-33)サムエルも、エホバが「(エリ)の家系に永遠の処罰を下す」という音信を伝えました。(サムエル第一3:13新世界訳改訂版)



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大祭司エリは息子たちの淫行に対して毅然とした態度をとらなかったので神の不興を受け彼の子孫の祭司たちは災いを被ることになった






 そして、実際、サウル王の時代には、エホバ神の保護を失っていたためもあったと考えられますが、エリの子孫の祭司たちが、大勢サウル王によって大勢命を失いました。(サムエル第一22:16-19)さらにエリの子孫の祭司アビヤタルは、ダビデの晩年に不忠実のために祭司職から退けられました。そのようにして、エリに対するエホバの言葉を成就しました。(列王第一2:26,27)




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大祭司エリが神の律法を施行に生ぬるかったのでドエグによりエリ
の子孫の祭司たちの大量の血が流された




     ですから、エホバ神の律法と道徳基準を固守した祭司ピネハスとその子孫はエホバ神の祝福を受け、それをなおざりにした大祭司エリの子孫は、災いを被りました。このことからも、エホバ神は、性の不道徳を避けることを断固として求められていることが分かります。


 とりわけ、「祭司」級の聖霊で油そそがれたクリスチャンには、エホバ神の基準を固守する努力に率先することが求められます。(ペテロ第一2:4,5,9)祭司級が淫行や偶像崇拝に対して、なまぬるい態度をとると、それは後になってその祭司の大勢の関係者からエホバの保護を取り去り、命を失ったり、エホバの是認を失う結果になり得ます。


 私たちクリスチャンは異教の、とりわけ、性の不道徳に陥らせるパーティには気をつけて避ける必要があります。また、クリスチャンはエホバ神の是認と保護を保つために、自分たちの交わりがエホバ神の律法と基準を保つよう極力努力を払うべきだと言えます。