子羊のような2本の角がある野獣である北の王がイランとトルコの連合国になる可能性について検討する
しかし、トルコの貿易関係を調べてみましたが、トルコは「小さな国民」によって支援されて、成長して「強大」になっているようにも見えません。(ダニエル11:23)それで、ダニエル11章にある北の王の特徴は、トルコに当てはまりません。
また、トルコが、米国に対する攻撃の先頭に立ち、成功するのでしょうか。しかし、現在のところ、トルコは親米国です。それで、現在のところ、トルコが米国に対する攻撃の先頭に立つとも、思えません。
イランには、現在のところ、啓示13章の前半の預言が成就しているようには見えません。それで、現在、啓示13章の初めの野獣の実体をわたしが取り違えているのかもしれません。まだ、北の王が登場する状況となっていないのではないかと思います。
啓示13章に基づいて北の王が二つの国の連合国家を形成する可能性
ダニエル11章によると聖なる所を汚す北の王が荒廃をもたらす像を据える
二本の角を持つ雄羊はメディアとペルシャの王を表わしていたので・・・
啓示13章の初めの野獣の実体と攻撃されるキリスト教の本拠地がどこかについての若干の解釈の変更
啓示13章には、前半と後半で二頭の野獣が登場します。今回の記事では、その「初めの野獣」に関する若干の解釈の変更を説明します。さらに、ダニエル11章に出てくる北の王が攻撃する「聖なる所」がどこになるかについて若干の解釈の変更も説明したいと思います。
(2)啓示13章の野獣を限定したEUあるいはNATOという解釈の方が現在の状況に合致しているのではないか
EUとNATOは密接な関係があります。そして、第二次大戦後に行われた国際紛争は、とりわけ、最近は、ダニエル7章の四つの古代帝国の領域で、しかも、その領域に存在する現代の諸国家によって行われることが多かったです。つまり、現代において、国際紛争はアメリカ主導で、NATOのメンバー国が加わって行われる場合が多くなっています。
ですから、啓示17章に登場する緋色の野獣が、EUもしくは、NATOであるという解釈の方が、それが国連軍であるという解釈よりも、より良く、この20世紀と21世紀初頭に行われた国際紛争の状況と合致しているのではないかと思います。
啓示13章に登場する初めの野獣はEUかNATOかGCCか
今回、啓示13章に登場する「初めの野獣」の実体を考え直しました。どのように考え直したのかを説明したいと思います。
ダニエル7章の四匹の獣はライオンのバビロン・熊のメディア・ペルシャ・豹のギリシャ・恐ろしい獣のローマとその派生国
それで、わたしは最初には、啓示13章に登場する野獣とは、歴史の中で、中東、ヨーロッパ、西アジア、北アフリカに登場してきた諸政府を、長い歴史を俯瞰してまとめて表しているのかと考えました。
ここで、解釈の変更をするので、申し訳ありません。ここで解釈の変更をすると、聖書預言の成就はまだ先になるということになるようです。
Maurice07EUはこれから啓示13章の初めの獣として発展していくだろうか
日本が太平洋大戦中に犯した流血の罪の神からの許しと被害者からの許しをどのようにして得られるか
わたしたちの祖父や父親の時代に、日本は、日中戦争や太平洋戦争で、何百万人、ひょっとすると何千万人ものアジアの人々の血を流しました。わたしは、日本人が、自分たちの父祖によって流されたアジアの人々の血の罪が命の与え主に対する罪であり、その罪を神に対して、また被害者に対してどのように償えるかを考えるべきだと思います。
(わたしは韓国との領土問題についてはまだ考えていないのですが、この動画が戦争犯罪について述べることをアジア人の視点から考えてみるべきなのは正しいと思います)
地上の王たちは、自国に何らかの災いが及ぶ場合に、自分たちの父祖の罪の応報が及んでいる場合があるかもしれないことを考慮する必要があると思います。
その理由のひとつは、日本人の先祖が行なった罪が、神の目にまだ残っているために、聖書の神は、日本人が戦後、ほとんど流血の罪を犯していないにもかかわらず、さまざまな災いをこうむることを許しておられるのではないかと思います。
しかしながら、少なくとも、国家に災いが起きている場合、それを緩和するためには、エホバ神中心に解決したら良いことをこの事例は示しています。
預言者ヨナの時代に、ニネベの王は、神を恐れてその流血を悔い改めため、自国の国民にも悔い改めることを勧めたために、ニネベの滅びは何百年も延期されることになりました。(ヨナ3:5-10。ルカ11:32)
ヨナが宣べ伝えることを聞いてニネベの王が悔い改めたのでニネベの滅びは延ばされることになった
自国が経験する災いをどのようにみなして北と南の間との抗争から離れていることができますか
わたしたちは自国が経験する災いをどのようにみなすことができますか。国家はさまざまな天災を経験したり、他国からの軍事攻撃を受けることがあるかもしれません。そうしたことがなぜ起こることをエホバ神は許されるのでしょうか。それをどのように考えて、北の王と南の王の間の抗争から離れていることができるでしょうか。
(1)流血を避けて北と南の間の抗争から離れているように勧める地上の王たちに対する聖書の助言
南の王との同盟国の地上の王たちは、どのように行動するのが最善の結果をもたらすのでしょうか。啓示18章では、地上の王たちが大娼婦と性的な不道徳をすることをとがめられています。(啓示18:3)地上の王たちが大娼婦と性的な不道徳をするということは、 軍事同盟を結んで、共に軍事行動に携わることを意味しています。
left to right, a Qatari F-1 Mirage, a French F-1C Mirage, a U.S. Air Force F-16C Fighting Falcon from the 401st Tactical Fighter Wing, a Canadian CF/A-18A Hornet and a Qatari Alpha Jet, during Operation Desert Shield.
諸政府が共同軍事行動をとることは神の目に淫行とみなされる
もし、南の王と共に軍事同盟を結んで、北の王や、関連諸国を軍事攻撃して、地上の人々の命を奪うならば、人間の命の与え主エホバ神の不興を買うことになります。
エホバ神はこのように言われています。「人が自分の兄弟の命を奪ったなら,その人に責任を問う。人を殺して人の血を流す者は,人に殺されて自分の血を流すことになる。」 (創世記9:5,6)
神の目に貴重な人間の命を奪うならば、エホバ神はそうしたことを行う国家に不興を覚えられて、さまざまな仕方で、その国家が災いを経験するようにされるでしょう。人間の命を奪うならば、人間の命の授与者エホバ神の不興を買うことは避けられないのです。
例えば、多くの諸国家が湾岸戦争やイラク戦争の時に米国と共になって中東諸国家に対する戦争に加わりました。その結果、多くのヨーロッパ諸国は、イスラム国によるテロを経験しています。イスラム国によるテロは、もちろん、正しいことではないとは言え、ヨーロッパ諸国が流した血についてのエホバ神の応報であるとみなせます。
わたしたちは聖書の神を崇拝し、その是認を得ようと願うならば、南の王を恐れて南の王に盲従して共に軍事行動をすることを避ける必要があります。そうしなければ、地上の王たちは、北の王から攻撃されて南の王と共に命を失う結果にもなりかねません。
また、反対に北の王が成功するにしても、北の王に盲従して、南の王に対する軍事行動に共に携わらないことが必要です。北の王に盲従するならば、北の王と共に、「第二の死」すなわち復活のない永遠の滅びをこうむることになるからです。(啓示13:8;20:15)南の王、北の王、どちらに盲従する立場も、神からの救いをもたらしません。
とりわけ、聖書は、大患難を生き残る「地上の王たち」に南の王が滅びる時に、同情して嘆くほど、南の王と良い関係を追い求める立場を勧めているように思います。
なぜなら、北と南の王との間の最後の争いである大患難を生き残るのは良い結果だからです。しかしながら、南の王との良い関係を追い求めることが勧められることではあっても、「離れたところに立つ」こと、北と南の間の抗争から距離をとって離れていることが求められます。(啓示18:10,15,17)そうしなければ、その抗争に巻き込まれて命を失う結果になるからです。
(2)国家が犯した流血行為の報いはどのようにしてもたらされるか
エホバ神はある人や国家がもたらした罪を後の時代になって応報をもたらされることがあります。民数記には、エホバ神に関してこのような描写があります。「罪がある人を処罰しないことは決してなく,父の過ちに対する処罰を子や孫やひ孫に及ぼす神」(民数記14:18新世界訳改訂版)
ですから、確かに、エホバ神は個人の罪に関しては、その個人の罪に応じて扱われますが、国家の罪に関しては、その子孫にもたらされる場合があります。イエスは、アベルから祭司ゼカリヤまでの流血の罪が、イエスの世代に求められると言われました。(マタイ23:35)ですから、神の人に対する応報が何百年も後になってもたらされたことになります。
アベルから祭司ゼカリヤまでの殺害に対する責任を神は何百年も後になって一世紀に問われた
神は国家に対する責任を子供や孫の時代に問われるかもしれない
確かにある国家によって多大な血が流された場合に、その流血の被害者になった国の人々の子孫は、何世代にもわたってその国家に恨みを抱いているということがよくあります。祖父や親は自分たちが経験した苦難を子供や孫に話して、ある国家に対して子供や孫がずっと悪感情を持ち続けるということがあります。そのため、両国の関係が改善されないで、後の世代になってから両国で戦争が起こるという場合もあります。ですから、父祖の罪に対する応報が子供や孫やひ孫の世代に来る場合があります。
なぜなら、過去に流した人の血に関して、エホバ神は当然の応報をもたらされ、北の王、あるいは南の王、あるいは地上の王たち、いずれであっても、「流血」の国家に対して、エホバ神は責任を問われるからです。(ナホム3:1)
ハバクク書では、アッシリアと思われる「流血の都市」の「レバノン」で表わされたエルサレムに対する「暴力」と「血」のためにエホバ神は「カルデア人」を起こされると述べられています。(ハバクク2:12,17)ですから、アッシリアの流血に対する報いは、レバノン、すなわちエルサレムを首都とするユダ王国によってもたらされるのではなく、その当時の世界強国であった「カルデア人」、すなわちバビロンによってもたらされました。
アッシリア人の流血と暴力の罪に対しては・・・
バビロニア帝国(緑)が台頭してアッシリアを滅ぼすようにすることによって神はアッシリアに責任を問われた
そのエホバ神からの応報は、必ずしも自国の軍隊が殺害した国家によってもたらされるのではなく、北の王、あるいは南の王によってもたらされるかもしれません。あるいは他の形、天災という形で災いがもたらされる場合があるかもしれません。
(3)流血は命の授与者に対する罪で神はその罪を犯した人あるいは国家に責任を問われる
例えば、日本は太平洋戦争後、基本的に長年平和国家となっています。しかし、過去に日本は、残虐にもアジアで多大の流血行為を行いました。何百万人、何千万人もの人々の血を流したと言われています。その罪は、エホバ神の目にとても、悪いことでした。本当は、日本人が殺害した人々の国家が復しゅうのために日本に戦争をしかけたとしても、不思議ではありません。
しかし、エホバ神は、過去に日本人が行なった流血を何もなかったことのように、ただ単に見逃すということはされません。上で述べたように、エホバ神は、人間の命の血が流されると、その血を流した人の命を求めることによって、責任を求められます。(創世記9:5,6)また、「私たち一人一人は,神に責任を問われることになるのです。」という言葉もあります。(ローマ14:12)
ですから、国家の流血は、人間の命の授与者に対する罪です。もし、わたしたち各自が流血の罪を犯すならば、エホバ神は、その国家、また、一人一人に対して命の血を流した責任を問われます。
エホバ神は・・・
地上の命の授与者であられ流血を行う国家や個人に対して責任を問われる
それで、現在、その罪の報いである災いがその子供や孫である日本人の子孫にさまざまな形で及ぶということもあると思います。キリスト教国家であるかどうかは関係がありません。日本のように主に仏教や神道を奉ずる国家であっても、エホバ神は流血の責任を問われます。キリストの贖いの犠牲に頼って罪の許しをエホバに求めるのでなければ消えないでしょう。
キリストの贖いの犠牲に基づいて・・・
エホバ神に罪の許しをお願いすることができる
聖書に、「私たち一人一人は,神に責任を問われることになるのです。」とあります。(ローマ14:12) ですから、国家の流血は、人間の命の授与者に対する罪です。もし、わたしたち各自が流血の罪を犯すならば、エホバ神は、その国家、また、一人一人に対して命の血を流した責任を問われます。キリスト教国家であるかどうかは関係がありません。日本のように主に仏教や神道を奉ずる国家であっても、エホバ神は流血の責任を問われます。
民族の記憶というのはなかなか消えないものです。ですから、地上の王たちは、自国に何らかの災いが及ぶ場合に、自分たちの父祖の罪の応報が及んでいる場合があるかもしれないことを考慮する必要があると思います。
さらに、地上の王たちは、自国が災いを経験する場合に、まず第一に自分とエホバ神との関係はどうなっているかを吟味する必要があると思います。国家の代表者としての王や大統領や首相の神との関係は、その国家の現在と将来にとても大きな影響を及ぼします。
イスラエルの時代も、国民全体はかなり悪くなっていましたが、ユダの王ヒゼキヤの祈りをエホバ神が聞かれて、国家的な苦難を乗り越えたことがありました。それで、国家の指導者の神との関係は、その国家の状況に大きな影響があります。
エホバ神が不興を覚えられる偶像崇拝を行って、エホバ神が自国に関する自分の祈りを聞かれない状況を造り出していないでしょうか。
エホバ神に祈りを聞いていただくためにはあらゆる偶像崇拝を避ける必要があ ります
その場合、エホバ神に祈って贖いの犠牲に基づいて、エホバ神の罪の許しを求める必要があります。さらに、自国の国民に対しても、エホバ神との良い関係を追い求めて祈るように勧める必要があるかもしれません。
預言者ヨナの時代に、ニネベの王は、神を恐れてその流血を悔い改めため、自国の国民にも悔い改めることを勧めたために、ニネベの滅びは何百年も延期されることになりました。(ヨナ3:5-10。ルカ11:32)
ヨナが宣べ伝えニネベの王が悔い改めを国民に勧めたので神からの災いはニネベにすぐには及ばなかった
(4)終わりの時に住む神の民に勧められている生き方
聖書は、終わりの時に住む神の民が、南の王からも北の王からも迫害を受け、さまざまな仕方で命を落としてしまうことを予告しています。大娼婦南の王は、聖なる人たちの血に酔うことが預言されています。(啓示17:6)それは、おおむね、軍事的な紛争に巻き込まれる仕方で行われるはずです。
大いなるバビロンは聖なる人たちの違反のためにその血に酔うことになる
さらに、北の王が南の王を滅ぼすまでは、成功することになっていて、全世界で崇拝を受けることになることを予告しています。しかし、聖書がわたしたち神の民に勧めていることは、例え、南の王によって神の民が命を奪われているとしても、北の王が南の王を攻撃し滅ぼすことに成功するとしても、北の王の崇拝者となって剣をとって戦って南の王に復しゅうする者とならないことです。
なぜなら、キリスト教徒であっても、あるいは、どんな宗教を持っている人であっても、他の人々の命を奪うならば、その責任をエホバ神から問われることになるからです。ですから、わたしたちは他の人々の命の血を流した場合、神がその責任を問われる道具が北の王になったり、南の王になったりする場合があります。また、他の形で災いが臨むことがあるかもしれません。そして、それはエホバ神が過去に流された自国による血に関して責任を問われたとみなせる場合があります。
それで、自国が他国から軍事攻撃による災いを経験している場合、あるいは他の形での災いを経験していると考える場合、復しゅうをエホバ神に任せて事態の進展に任せることができます。
「愛する皆さん,復讐してはなりません。神の憤りに任せましょう。「『復讐は私がすることであり,私が報復する』とエホバは言う」と書いてあるからです。」(ローマ12:19新世界訳改訂版)私たちが剣をとってその国家に復しゅうしなくても、エホバ神は流血を行う国家に対していずれかの形で、その応報を受けるようにとりはからわれるからです。
エホバ神は人の命の血をとても貴重なものとみなしておられるので、わたしたちがその点で神からの憤りと復しゅうを招かないようにする唯一の方法は、ひとえにキリストの贖いの犠牲に頼ることです。(啓示7:14。ヨハネ第一2:2)
そして、聖書はこのように勧めています。「できる限りのことをして,どんな人とも平和な関係でいるようにしましょう 」(ローマ12:18)この言葉は国家間の関係にも個人間にも当てはめられると思います。平和な関係を追い求めるならば、平和な良い結果を刈り取ることができます。聖書は「平和を作りだす」ことができると述べています。(ヤコブ3:18)
ですから、私たちがエホバ神の是認を得て、救いを得たいと願うならば、人間よりも神に従う必要があります。(使徒5:29)すなわち、「復しゅう」は神に任せて、殺人を避けて平和を追い求め、エホバ神の是認された崇拝者としてとどまるよう努めましょう。(ローマ12:18,19)
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(34)真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンはどのように不法な者の精神を避けること… https://t.co/rR6IGfzZbk #r_blog
— ヨハネ (@littleyohane) 2019年9月1日
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(34)真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンはどのように不法な者の精神を避けることができるか
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(1-2)モーセの権威が表わしていたのは統治体ではなくイエス・キリスト
エホバの証人の統治体の兄弟たちは、荒野で反逆したイスラエル人を裁いたモーセの権威を持っていると主張されています。そのために、統治体の兄弟たちや、統治体によって任命された長老たちの権威に従わなければ、エホバ神に裁かれてしまうと示唆されます。
しかし、先回の「イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(1)統治体はモーセの権威を持っていますか」の中で、モーセのような預言者は、イエス・キリストであって、私たち霊的なイスラエル人はとりわけ、イエス・キリストの権威に従わなければ、イエスに裁かれてしまうことを説明しました。
今回の記事では、イエスはモーセのようにどのようなクリスチャンを裁かれることになるのかを説明したいと思います。イエスが啓示の書の中で、霊的なイスラエル人の七つの会衆に語っておられる音信を検討したいと思います。
(1)統治体がイエスの右手にある七つの星とは天的な希望を持つ長老たちを表しているという解釈は正しいですか
エホバの証人の統治体は、七つの会衆に対するイエスの音信に関連して、イエスの右手にある七つの星とは、とりわけ、長老でなる天的な希望を持つクリスチャンを表しているとみなしています。(啓示1:16新世界訳改訂版)そのために、エホバの証人の統治体は、イエスの完全な制御下にあるのは、ご自分たち、聖霊で油そそがれたクリスチャンの長老たちであり、ご自分たちに従うことを求められます。
イエスの右手の上の七つの星とは天的な希望の長老たちですか
では、まず、七つの会衆とはどのような実体を表していたでしょうか。イエスは、「主の日」に、天的な希望を持つクリスチャン全体に語られました。(啓示1:10新世界訳改訂版)そして、その中で、七つのタイプの会衆に対して語られています。七つの会衆とは、「主の日」の男性も女性も含む天的な希望を持つクリスチャンたちで構成されています。(啓示1:5,6新世界訳改訂版)
七つの会衆とは主の日の天的な希望を持つ男女を含むクリスチャン会衆を表す
例えば、テアテラ会衆には、「かの女イゼベル」のような女性のクリスチャンが含まれていたので、七つの会衆の成員の中に女性も含まれていたことが分かります。(啓示2:20)
七つの会衆の成員にはテアテラのイゼベルのような天的な希望の不忠実な女性の成員も含まれている
そして、イエスは、「七つの星は七つの会衆の使いたち」を表すと言われています。(啓示1:20新世界訳改訂版)証人たちは、イエスは、「七つの会衆の使いたち」を通して、七つの会衆の個々の成員に音信を伝えているとみなしています。そして、統治体は、七つの会衆の使いたちとは、聖霊で油そそがれたクリスチャンの長老たちを表すとみなしています。
(2)啓示の書のイエスの右手にある七つの星また七つの会衆の使いたちとは誰ですか
ところが、七つの星、すなわち七つの会衆の使いたちとは、男女を含む天的な希望を持つクリスチャンであるということが、聖句を検討すると分かります。
イエスは、エフェソス、スミルナ、ペルガモン、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキアにある会衆の使いに語りかけておられます。(啓示2:1,8,12,18;3:1,7,14)そして、どの会衆の使いたちにも、「あなた」と呼びかけて、それらの会衆の状況を知っていると述べられています。
さらに、イエスは、その会衆の使いたちに対して、忠実であることを励まされて、もし、忠実であれば、 その人に「私の神の名と,私の神の都市すなわち天の神のもとから下る新しいエルサレムの名と,私の新しい名 」を記すと約束されています。(啓示3:12)
ですから、七つの会衆の使いたちに差し伸べられているのは、「新しいエルサレム」の一員になるという希望、つまり、天的な希望です。ところで、天的な希望を差し伸べられるのは、長老だけ、また、男性だけではありません。会衆の一成員に過ぎない女性も天的な希望を差し伸べられて、「新しいエルサレム」の構成員になるという将来の希望を持っています。
七つの会衆の使いたちには聖なるエルサレムの構成員になるという希望が差し伸べられる
会衆の使いたちは天的な希望を持つ男女のクリスチャンを意味する
ですから、イエスの右手の上にある「七つの星」また、「七つの会衆の使者たち」とは、七つの会衆の一部の成員を表しているわけではありません。
「7つの金のランプ台」で表わされる七つの会衆とは、天的な希望を持つクリスチャンたちを組織を全体的に表現しています。(啓示1:12新世界訳改訂版)
一方、イエスの右手の上にある「七つの星」と、「七つの会衆の使者たち」とは、男女を含む天的な希望を持つ個々のクリスチャンたちを表しています。(啓示1:20新世界訳改訂版)そして、イエスは、会衆の使いたちを通して、会衆の成員に語っているというよりは、会衆の使いたち自身に、音信を伝えているというのが正しいです。
イエスは右手の上の七つの星つまり七つの会衆の使いたちに対して音信を伝えられた
七つの会衆の使いたちとは天的な希望を持つ忠実また不忠実な男女のクリスチャン
(3)七つの会衆の使いたちは性別や長老であるかどうかにかからわずイエスに忠実であることが求められている
しかしながら、七つの会衆の天的な希望を持つクリスチャンがすべて、天的な希望をとらえるのではありません。イエスは、「忠実」であるなら、神の王国に入ることができると約束されています。(啓示2:10新世界訳改訂版)ですから、男女にかかわらずイエスの指示に従って忠実を保つ天的な希望を持つクリスチャンだけが天的な希望を捕らえることができます。
その点で、男性も女性もありません。パウロは、イエスの体を構成する成員としては、「男性も女性」も平等の立場にあると述べています。(ガラテア3:28新世界訳改訂版)そして、「家令に求められるのは,忠実であること」だと述べられています。(コリント第一4:2新世界訳改訂版)
長老であること、男性であることが求められているのではありません。男女とも、第一にイエスに忠実であることが求められています。たとえ、男性であっても、長老であっても、イエスの命令と指示に不忠実ならば、神の王国に入ることはできません。ですから、大切なのはとりわけイエス・キリストに忠実であることです。
このことを考えてみても、イエスがただ単に、聖霊で油そそがれたクリスチャンの長老たちだけを用いて通して、会衆の成員に音信を伝えたとは考えられません。イエスは、男女を含む聖霊で油そそがれたクリスチャンの個々の人に音信を与えたとみなすのが妥当です。
(4)イエスはどんな聖霊で油そそがれたクリスチャンを否認されますか
イエスの権威に逆らうならば、荒野でモーセの権威に逆らったイスラエル人のような経験をすることになるでしょう。では、イエスは啓示の書の中のアジア地区の七つの会衆にどのようなクリスチャンに敵対すると言われたでしょうか。
それは、まず「初めの頃に抱いていた愛を失った 」者、「忠実であり続け」ることを死に直面してやめてしまう者です。(啓示2:4,10新世界訳改訂版)
さらに、「偶像に犠牲として捧げられた物を食べ,性的に不道徳な行為をする 」者、「ニコラオ派の教えを固く守っている 人」です。(啓示2:14,15新世界訳改訂版)ですから、神の律法に違反する者は否認されるでしょう。さらに、個人に従うことを強調し過ぎて、神の言葉から離れてしまう者を否認されるでしょう。
また、「性的に不道徳な行為をさせ,偶像に犠牲として捧げられた物を食べさせて」いる「あのイゼベルのような女性を容認している」者です。(啓示2:20新世界訳改訂版)さらに、「サタンの奥深い事柄」を 「知るように」なる者、すなわち、神の律法に違反する者です。 (啓示2:24新世界訳改訂版)
また、「生きているといわれていますが,実は死んでい る」者、「行い」が「神から見て十分であるとは言えない」者、「生ぬるく,熱くも冷たくもない」者など、すなわち、クリスチャンの責務に不熱心な者です。(啓示3:1,2,16新世界訳改訂版)
以上のような神の律法を守らない者、愛を示す努力をしない者、クリスチャンの責務を果たすことをなおざりにする者たちは、イエスの権威に逆らっています。そのような者たちは、昔、モーセの権威に反逆した者たちになぞらえられます。
昔神はモーセを用いて反逆者たちを裁かれました。同じようにイエスは、エホバの代表者として、以上のようなタイプのクリスチャンたちに対して敵対されます。
(5)イエスはご自分に不忠実な天的な希望のクリスチャンにどのように敵対されますか
モーセは神と自分の権威に不忠実であったイスラエル人に裁きを執行しました。では、イエスはご自分の権威に不忠実な天的な希望のクリスチャンにどのような形で敵対されるでしょうか。
そのようなクリスチャンたちに対しては、イエスは、「ランプ台を取り去り 」、「口から出る長い剣 」で「戦い」、「病気にならせ 」、「姦淫をしている人たち 」を「大きな苦難に遭わせます。」また、「死に至る病気によって殺します 」(啓示2:5,16,22,23新世界訳改訂版)
また、イエスが、「必ず泥棒のように来」る時に不意を打たれるでしょう。(啓示3:3新世界訳改訂版)また、イエスはそのようなクリスチャンを「口から吐き出」します。(啓示3:7新世界訳改訂版)
すなわち、イエスは神の王国に入るという特権を不忠実なクリスチャンから奪います。さらに、聖書の言葉を用いてそれらのクリスチャンと戦います。さらに、それらのクリスチャンが霊的また身体的な病気にかかることを許されるかもしれません。
さらに、「大きな苦難」に巻き込まれて命を失うようにされます。さらに、イエスが天で王になられる時に、不意を打たれ、準備ができていないために、やはり、神の王国に入ることができないでしょう。
そして、このことは、昔、イスラエル人がモーセの権威に逆らった時に、さまざまな神からの裁きを受けたことになぞらえられます。ですから、モーセの権威に逆らった不忠実なイスラエル人が神の裁きを受けたことは、今日の不忠実な聖霊で油そそがれたクリスチャンが、イエスの権威に反逆するならば、イエスから神の王国の特権を奪われ、「大きな苦難」に遭わせられ、霊的・身体的な病気にかかるという形で、裁かれることを意味しています。
基本的に、荒野でモーセの反逆して裁かれたイスラエル人の事例は、わたしたちが第一にイエス・キリストの権威に従わなければどんなことが起こるかを示しています。
啓示の書は、イエスの権威に敵対する者たちが、荒野のモーセの権威を認めなかった者たちが、災いをこうむったように災いを経験し、命さえ失うことを述べています。ですから、エホバの証人の統治体の兄弟たちは、確かに神の言葉から語って神の律法に従うように勧めておられますから、その言葉に従わないなら、災いをこうむることもあるでしょう。
しかしながら、第一の権威は、イエス・キリストにあります。ですから、他の天的な希望のクリスチャンや大群衆のクリスチャンが神の律法に従いながら、神の言葉に基づいて論じている場合、その人は、統治体と異なることを語っていても、イエスの言葉に従っていれば、神とイエスの不興をこうむって、神とイエスの是認を失うと言うことはありません。
イエスはみ言葉聖書によって語られ権威を行使されます
統治体と論じていてもイエスの権威に従って聖書から論じていればイエスの是認を失うことはありません
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(1-1)モーセの権威を持っているのは統治体ですかそれともイエス・キリストですか
エホバの証人の統治体は、大会でも、ものみの塔の研究記事の中でも、ご自分たちの権威を強調なさいます。そのことを裏付ける聖書的な根拠として、荒野でイスラエル人を導いていたモーセとアロンの権威に逆らった一部のイスラエル人が、神罰で命を失ったことを挙げます。(民数記31:31-35)
昔反逆者を裁いたモーセの権威は誰の権威を表していましたか
ご自分たちの権威は、その当時のモーセとアロンの権威を表していると考えておられます。そのために、ご自分たちの権威に逆らうならば、エホバ神の不興をこうむり裁かれることになると主張しておられます。
では、その当時、荒野で起きた一部のイスラエル人の反逆に対するエホバの対応は何を予示していたのでしょうか。わたしたちは、そのことから、どのような教訓を得られるのでしょうか。今回、シリーズで考えてみます。
最初は、エホバの証人の統治体の兄弟たちが持たれる権威は、゜荒野で反逆したイスラエル人を裁いたモーセが持っていた権威と同じ権威を持っていると言えるかという点を検討したいと思います。
モーセの権威は誰の権威を表していたのでしょうか。申命記の中では、モーセのような預言者を立てることが預言されていました。神はそのモーセのような預言者がエホバの「名によって話す」言葉に「従わない人に責任を問う」と言われました。(申命記18:18,19新世界訳改訂版)
不従順のために責任を問われたクリスチャンは、命を失うことになるでしょう。それで、エホバ神は、モーセのような預言者に民の従順を求める権威を与えることを予告されていました。
モーセのような預言者とは誰でしょうか。それは、イエス・キリストです。モーセは古い契約の仲介者であり、イエス・キリストは、「新しい契約の仲介者」です。(ヘブライ9:15新世界訳改訂版)ですから、モーセのような権威を与えられているのは、イエス・キリストご自身です。
新しい契約の仲介者であるイエス・キリスト
イエスはクリスチャン「会衆という体の頭」としての立場にあります。(エフェソス5:23新世界訳改訂版)ですから、わたしたち、とりわけ、天的な希望を持つクリスチャンたちが、第一に従わなければならないのは、一部の天的な希望を持つクリスチャンたちに対してではありません。イエス・キリストご自身に第一に従わなければなりません。
(2)荒野のイスラエル人は新しい契約に入る霊的なイスラエル人を表していた
では、荒野にいたイスラエル人は、将来のどんな実体を表していたのでしょうか。イスラエル人は、シナイ山でモーセの律法契約、いわゆる古い契約を与えられました。イスラエル国家は肉のイスラエル人で構成されていました。そして、イスラエル人は、その当時神と古い契約を結んでいました。
そして、イエス・キリストは、新しい契約の仲介者になられました。(ヘブライ9:15新世界訳改訂版)新しい契約を神と結ぶ民とは、イエスを仲介者として神の王国に入る希望を持つ多国籍のクリスチャンたちです。(ルカ22:20)
それで、荒野にいた古い契約に入っていたイスラエル人が表していたのは、イエス・キリストの到来後、新しい契約に入る天的な希望を持つクリスチャンたちを表していました。
古い契約であるモーセの律法契約に入った肉のイスラエル人は・・・
上記はイメージ画像
イエスを仲介者としてエホバと結ばれる新しい契約に入った多国籍のクリスチャンを表す
ですから、今日の天的な希望を持つクリスチャンと地的な希望を持つ大群衆が第一に従わなければならないのは、特定の聖霊で油そそがれたクリスチャンではありません。昔のイスラエル人がモーセの権威に従わなければならなかったことは、とりわけ、天的な希望を持つクリスチャンたちが、イエス・キリストの権威に従わなければならないことを意味しています。
新しい契約に入るクリスチャンたちはまず第一に人間ではなくイエス・キリストの権威に従わなければならない
ですから、反逆者を裁いたモーセによって表わされていたのは、イエス・キリストです。エホバの証人の統治体が、モーセによって予示されていたのではありません。
エホバの証人の統治体の兄弟たちも、霊的なイスラエル人に含まれています。ですから、荒野でモーセの権威に逆らって裁かれたイスラエル人のようにならないように、気をつけなければならない立場にあります。
エホバの証人の統治体の兄弟たちを含めて天的な希望を持つクリスチャンたちは、イエス・キリストの権威に第一に従わなければならず、イエスの権威に反逆するならば、荒野のモーセの権威に逆らったと同じことが起きることになります。イエスがモーセのような預言者だからです。
それで、次回は、わたしたちが霊的なイスラエル人としてイエス・キリストに裁かれてしまわないようにどんな点に気を付けなければならないかを検討したいと思います。
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(33)イエスの兄弟たちは力ある業を行っていても不法を避けなければならない
(1)真正な油そそがれたクリスチャンには不法を避けていることが求められる
エホバ神の真の崇拝者である真正な油そそがれたクリスチャンの場合は、そのクリスチャンが「不法」つまり、「罪」を退けていることが必要です。(ヨハネ第一3:4)
現代は、聖書に対する信仰や信頼が弱くなっています。また、聖書の神とその律法を無視して、自由に生きたいと願う人も数多くいます。また、聖書が述べる事、聖書の預言が気に入らないという人も多いです。ですから、人々は聖書が広められることを気に入らないかもしれません。しかし、一般の人々に不人気であったとしても、不法、つまり罪を退けることを唱道することが求められます。
つまり、淫行、殺人、偶像崇拝、心霊術、悪魔崇拝、盗み、飲酒などの神の律法に違反する業を断固として退ける努力を払うことが必要です。(啓示21:8)また、そのことが神から求められていることを人々に教えることが必要です。
ある人がエホバ神の選ばれた者であり、イエスの霊的な兄弟であると主張していても、その人が婚前交渉、不倫、同性愛などの性の不道徳や殺人や流血、また、偶像崇拝を行っていれば、その人は、エホバ神から是認されている油そそがれたクリスチャンではありません。聖書は「偽キリスト」が存在すると述べています。(マタイ24:24新世界訳改訂版)
不倫などの性の不道徳などの罪を犯すならその油そそがれた者はイエスから退けられてしまう
最初に述べたように、わたしヨハネは、神の律法に違反することは避けるように努力を払っています。エホバ神とイエス・キリストに是認されるように性の不道徳や偶像崇拝、心霊術、悪魔崇拝などの神の律法違反に陥らないように努力を払っています。
聖書の預言は、エホバ神の律法と結びついています。世界で、災いとなるある出来事が起きることになる原因のひとつは、政治指導者たちや宗教指導者たちや一般の人々が、神の律法に違反するために起きます。ですから、聖書中にある否定的な災いは、神の律法「違犯」のために起きます。(ダニエル8:13)そのためにも、エホバ神に是認される聖霊で油そそがれたクリスチャンは神の律法の遵守が求められます。
(6)強力な行いやしるしがイエスの是認を証明するか
油そそがれたクリスチャンが行なう強力な行いやしるしには、さまざまな種類のものがあると思います。それは、はなばなしいもので、人々の注意を引くものかもしれません。そして、聖書によるとそれは、多くの人々を死に至らせたり、あたかも天から火を降らせたりというような種類の人々の注目を集める出来事かもしれません。(啓示13:11-13)
しかし、多くの人々の注目を集めること自体が、エホバ神の是認を証明しません。キリスト教会が是認している奇跡の中には、非常に大勢の人が目撃した奇跡などもあります。カトリック教会が公認しているようなファティマの聖母の奇跡などのように大勢の人が見た奇跡もあります。けれども、こうした奇跡は大勢の人々に目撃されたとしても、それ自体が聖書の神の後ろ盾を証明するものとはなりません。
さらに、聖書は悪魔が天から火を下らせることができることを示しています。(ヨブ1:16)子羊のような二本の角のある野獣は、「大きな奇跡を行い,人類の前で火を天から地に降らせることさえする。」と預言されています。(啓示13:13)しかし、 その野獣は、「偽預言者」と呼ばれます。(啓示19:20)
ですから、その業が人目を引くものであっても、人々の命を奪ったり、世界の環境を破壊したりというものであれば、それは、聖書の神の是認を得ているとは言えません。
しかしながら、それらの油そそがれたクリスチャンによって行われる行いが人々を助けるものであったり、信仰の仲間や一般の人々に対する愛や親切を表わすものである時、それは確かに、それがイエスの是認を得ていることを示すものにはなり得ます。イエスは、ご自分の弟子たちに、仲間同士愛し合うように、また、他のすべての人に良いことを行うことを奨励されたからです。(ヨハネ18:34。テサロニケ第一5:15)
そして、良い木か悪い木であるかどうかは、その生じる実によって見分けられるとイエスは言われました。(マタイ7:17,18)ですから、ある油そそがれたクリスチャン、あるいはあるキリスト教の組織が行なっていることが、愛や親切や平和を産み出している時、それは、エホバ神とイエスの是認を得ていることを示すかもしれません。
しかしながら、そうした良い行いをする時に、上記で指摘したような神の律法違反を伴うことのないように努力する必要があります。例え、良い行いや「多くの強力な行い」をしていても、「不法」を働いているならば、否認される場合があると言われました。(マタイ7:21-23)ですから、良い行いをしている人たちが、神の律法に「故意に」繰り返し違反しているならば、エホバ神の是認が得られているとは言えません。(ヘブライ10:16)
でも、わたしたち人間は弱く不完全な罪人なので、誰もが罪を犯します。(ローマ3:23)故意に繰り返し行われる罪でない罪は、イエスの贖いの犠牲に頼って、エホバ神に罪の許しをお願いし、神とイエス・キリストに是認された状態を保つ必要があります。
ですから、この記事では、奇跡は真正な油そそがれたクリスチャンであることを証明するものとはならないということを説明しました。ある個人、あるいはキリスト教のグループが行なう強力な行いに関しては、識別力を働かせて、判断する必要があります。
その奇跡に見える業や力ある業が、まことの神とイエス・キリストの是認を得ているかどうかは、さまざまな条件を満たしている必要があります。その業が単に「強力な行い」であるだけでなく神の律法に調和して行われていることが求められています。
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(33)イエスの霊的な兄弟たちは奇跡では判断できない
神に是認される油そそがれたクリスチャンを見分けることは必要なことです。なぜなら、先回の記事にあるように聖書の中に示されているエホバ神やイエス・キリストの感じ方や言葉を考えると、天的な希望を持つことを表明するイエスの霊的な兄弟たちにふさわしい敬意を払った方がいいと思います。
表象物にあずかり天的希望を表明するクリスチャンにふさわしい敬意を表すのが正しい
彼らに親切に協力するかどうかで、将来永遠の命を受けるか永遠の死を受けるかが決まるからです。(マタイ24:45,46)
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(27)目立たない油そそがれたクリスチャンに親切にするかどうかで永遠の命かどうかが分けられる
わたしヨハネの場合、わたしにかかわるビジネスに巻き込まれているために、奇跡を行っているとみなされる可能性があると思います。しかしながら、それは、悪魔サタンや悪霊による奇跡ではないと思います。
わたしは、魔術やオカルトに関係した物品を持ってはいませんし、心霊術者や霊媒に相談に行ったりして、悪魔崇拝や悪霊崇拝に関わることは避けています。(使徒19:19。レビ19:31)また、偶像崇拝は避けています。 (コリント第一6:9,10)エホバ神ではなく、死者を崇拝することもしません。(伝道の書9:5)
ですから、ヨハネに関わるビジネスは、心霊術に伴う奇跡ではありません。わたしはこれがどのようにして行われるのか十分理解していませんが、何らかの最新現代科学が関係しているのではないかと思います。
今回の記事では、神とイエスに是認される油そそがれたクリスチャンを彼らが行なう奇跡や強力な業では判断できない事について説明したいと思います。
(1)イエスや初期クリスチャンたちは奇跡を行えた
一世紀には、エホバ神はある神の僕をご自分が是認されていることを聖霊によるさまざまな奇跡しるしで確証を与えられました。エホバ神は背後でイエスをさまざまな仕方で支援されました。(ヘブライ2:4)エホバ神は天からの言葉でイエスがご自分の子であることを語られたこともありました。(マタイ3:17)また、イエスが神の子であり、メシアであることを、さまざまな奇跡としるし与えて人々に示されました。(ヨハネ1:32-34;20:30。使徒10:38)
エホバ神はイエスが神の子であることを証しするために多くの奇跡を行う力を与えた
イエスの奇跡やしるしを見た人は、神の後ろ盾のある人でなければ、そのようなことを行えないと判断しました。(ヨハネ3:2;9:30-33)
さらに、イエスは十二使徒たちに病気の人をいやしたり、死者を復活させたり、悪霊を追い出す権威を与えました。(ルカ3:14,15。マタイ10:8)また、イエスは七十人の弟子たちにも、いやしや悪霊たちを制御する権威を与えたことが記されています。(ルカ10:8,9,19)
例えば使徒ペテロは病気で死んだドルカスをよみがえらせました。(使徒9:36-41)また他に、使徒パウロも奇跡を行えました。(ヘブライ2:4。使徒4:16;5:12;14:3;15: 12。コリント第二12:12)
エホバ神はペテロにドルカスをよみがえらせる力を与えてクリスチャンたちに対するご自分の支持を示された
そのようにして、エホバ神は、彼らに与えた奇跡やしるしによって、イエスの弟子たちがエホバ神の是認と後ろ盾を得ていることの証明をされました。
(2)エホバ神が奇跡を行う力をイエスやイエスの弟子たちに与えたのはなぜか
エホバ神がそのような奇跡を行う力をイエスやイエスの弟子たちに与えたのはなぜでしょうか。それまで、エホバ神はモーセの律法下にいた肉のイスラエル国民との契約関係を尊重しておられました。けれども、イスラエル国民は、背後に神がおられる証拠を豊富に示したイエスを殺害しました。(マタイ27:25,26)また、イエスの弟子たちのある者たちを殺害しました。(マタイ23:37,38。ヨハネ19:7)そのようにして、イスラエル国民はエホバ神を退けました。
イスラエル人は神の子イエスを殺したため神との契約関係を失った
そのために、神と肉のイスラエル人の間の契約で合ったモーセの律法契約は破棄されました。代わりに、イエスを仲介者とする新しい契約が神とイエスの弟子たちの間で成立することになりました。(エレミヤ31:31,32)それで、エホバ神は、その大きな変化をイエスと彼の弟子たちにさまざまな奇跡を行わせることにより、確証を与えられました。
古い契約は神とイエスの弟子たちの新しい契約に変えられた
神はこの大きな変化を奇跡によって確証された
奇跡やしるしがその当時、必要であった理由は他にもあります。一世紀当初は、まだ聖書全体が完成していませんでした。また当時は、聖書は希少な本で、みんなが十分手に入れることも難しく、また、科学も考古学も発達していないという状況でした。
そのために、イエスの弟子たちが効果的に宣教を行うために、彼らが奇跡を行えることが必要でした。
さらに、時間の経過と共に、奇跡的な聖霊の賜物は必要がなくなってきていました。ユダヤ教の体制から、キリスト教の体制へと移り変わったことは、イエスと初期クリスチャンに与えられていたしるしによって十分証明されたからです。 そして、イエスから奇跡を行う力と権威を与えられた弟子たちの死と共に、奇跡の賜物は、過ぎ去っていきました。
それで、聖霊による奇跡は過ぎ去ることが予告されていました。(コリント第一13:8-11)そのために、誰が本当に聖霊で油そそがれたクリスチャンであり、エホバ神の後ろ盾を得ているかは、一世紀のように誰かが行なう奇跡で判断することは基本的にできなくなりました。
そして、今日、エホバ神とイエス・キリストがご自分の是認される僕にどんなことを求められているかは、今まで出した記事でご説明しました。
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(31)勘違いで表象物にあずかると証人から排斥されてコラのようにエホバから裁かれるというのは正しいか
(3)奇跡やしるしや強力な業は偽預言者も行えることになっている
今日、誰が神に是認された油そそがれたクリスチャンであるか判断する方法は一世紀と異なります。必ずしもそのクリスチャンが行なうしるしや異兆や不思議によって判断できないことを聖書は示しています。
イエスはご自分の名によって「預言し,・・・邪悪な天使たちを追い出し,・・・多くの強力な行い」をする人々を否認される場合があると言われました。(マタイ7:21-23)預言や悪霊を追い出すこと、多くの強力な行いは神に喜ばれるように見えるのに、このイエスの言葉は不思議です。
イエスは、そのようにしたある者たちに対して「不法なことをする人たち,離れ去りなさい」と言われます。(マタイ7:22,23新世界訳改訂版) このことは、真正な油そそがれたクリスチャンの場合は、「不法」つまり、「罪」を犯すことを退けている必要があることを示しています。(ヨハネ第一3:4)
さらに、イエスは「偽キリスト」や「偽預言者」が、「大きな奇跡や不思議なことを行う」とも言われました。(マタイ24:24新世界訳改訂版)ですから、神に本当に是認された聖霊で油そそがれたクリスチャンを奇跡や不思議を行なうことによっても見分けられないことが分かります。
パウロは「不法の者」に関して、「サタンの力によって,あらゆる強力な行い,偽りの奇跡,不思議なことを見せ」ると述べられています。(テサロニケ第二2:10。マタイ7:23新世界訳改訂版)この聖句からも、人目を引くような「強力な行い」や「奇跡」や「不思議なこと」を見せることだけが、真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンを証明するものとはならないということが分かります。
なぜなら、その奇跡や不思議なことや強力な業は、「サタンの力によって」行われる場合があるからです。
(3)神の僕だけでなく悪魔サタンと悪霊たちも人々に奇跡を行わせることができる
実際、昔から奇跡だけでは、それがまことの神エホバの崇拝であるかどうかを見分けることはできませんでした。
悪魔サタンや悪霊たちは、エホバ神と同じように自分たちの崇拝者たちに奇跡を行わせることができます。例えば、イスラエル人がエジプトにいた時、モーセは、エホバ神の後ろ盾により、さまざまな奇跡を行いました。モーセは杖を投げて、蛇に変えることができました。(出エジプト4:1-5)しかし、エジプトにいた魔術師たちも、同じことができました。(出エジプト7:10-12)杖を投げて蛇に変えることができたのです。
エジプトの魔術師たちもモーセと同じく杖を蛇に変えることができた
魔術師たちは、モーセには決してかないませんでしたが、さまざまな奇跡を行うことができました。ですから、悪霊たちも自分の崇拝者たちに奇跡やしるしを行わせることができたのです。
一世紀にもシモンという人は、魔術によって「注目」を集めるような大きな事を行なっていましたが、それはイエスの是認を得てはいませんでした。(使徒8:9-11;18-24)当然、魔術を行うことによって神とイエスの是認を証明することはできません。
聖書は、占いなどを含む心霊術や魔術も神の王国を授けられることのできない業であると述べています。(ガラテア5:19-21)なぜなら、それらは、悪魔サタンと悪霊たちによって行われているからです。
占いや魔術などの心霊術の背後には悪魔サタンと悪霊たちが存在する
悪魔サタンと悪霊たちも自分たちの崇拝者たちに奇跡を行わせることができる
ですから、エホバ神は、ご自分の力によって奇跡を行わせることができますが、悪魔サタンも悪霊も自分の崇拝者たちにさまざまな奇跡を行わせることができるのです。ですから、エホバ神は、ご自分に対する真の崇拝を奇跡によって証明することはやめられました。
(4)今日奇跡やしるしが必要でない理由
一世紀の末に聖書全体は完成したので、それ以上に奇跡的に神からの音信を付け加えることも取り去ることもしてはいけなくなりました。(啓示22:18,19)それ以降、後世のイエスの弟子たちは、すでに完成した聖書を研究することによって、聖書の正確な知識を探求できました。それで、奇跡的に神からの音信や預言が与えられる必要性はなくなりました。聖書の写本を参照すれば良かったのです。
一世紀の末に聖書が完成したのでもう奇跡的な音信を付け加える必要がなくなった
また、初期クリスチャンの熱心な宣教によって、ある程度聖書から離れていましたが、キリスト教がローマ帝国の国教とされました。さらに、ローマ帝国のキリスト教の団体は、熱心にローマ帝国の外に宣教活動を推し進めて、キリスト教を普及させていきました。それは、人々がキリスト教と聖書に親しむ機会を与えました。
そして、現代は、とりわけ、聖書は身近なものになっています。聖書は膨大な数全世界で頒布されています。無料で聖書を手に入れる人も多いです。また、ネットには無料のオンラインの聖書があり、IT検索ツールなどがあるので、ネット上で聖書を読むことができます。また、望めば、お金を払って書店やネットで紙製の聖書を手に入れられます。
また、ネットを用いて、聖書が歴史的に真実な記録であることを裏付ける豊富な情報に接することができます。それらは、奇跡的な助けの代替手段になっています。
また、現代医学の進歩や、物流の改善によって、医療や薬や薬用植物などを手近に利用できるようになっているので、いやしなどの奇跡の代替手段になっていると思います。病気になっても、奇跡的ないやしに頼るのではなく、神に知恵を祈り求めて、病気の治療のための実際的な方策を講ずることができます。
ですから、エホバ神はイエスや初期クリスチャンに奇跡を行う力を与えて、その後ろ盾となられましたが、聖書は偽キリストや偽預言者も奇跡を行えることを示しています。また、悪魔サタンや悪霊たちも彼らの崇拝者たちに奇跡を行わせることができるため、今日、エホバに是認される油そそがれたクリスチャンをその奇跡によって見分けることはできません。また、今日、奇跡はその代替になるものがあるために、奇跡は必要がなくなっています。
昭和天皇はご自分のもとで行われた太平洋戦争に対し深い悔恨と反省の念を抱いておられた
(1)昭和天皇のもとで行われた戦争
1928年に昭和天皇の即位の後、31年に満州事変、37年に日中戦争、41年に太平洋戦争が行われました。天皇は軍部に押し切られた感もありますが、天皇が最高権力を持っていたので、日本がさまざまな戦争を行なってきたことにある程度責任もあったと思います。
昭和天皇のもとで多くの戦争が行われましたが昭和天皇は深い悔恨の念を抱いておられた
大日本帝国陸軍の憲兵
戦前は日本の軍隊が権力を振るっていました
とりわけ太平洋戦争前は、昭和天皇が戦争推進派の東条英機に内閣を作るように命じたのは、致命的な間違いでした。
その結果、とりわけ、太平洋戦争は日本に壊滅的な結果をもたらしました。ですから、天皇制は日本にとってかなり悪い結果となった部分もありました。神道には、戦争を避けて平和を追い求めるという概念がなかったからです。
明治、大正、昭和を通じて、日本はできるだけ諸国家間の紛争に中立と平和を保っていたら良かったと思います。しかし、日本はその当時帝国主義、また軍国主義でした。そして、日本の影響力を海外に拡大しようと考えており、とりわけ大勢の東アジアの人々の命を犠牲にして多大の流血を行ないました。それは、とても悪い事でした。それは、日本の天皇制と、古事記と日本書紀のような神話と伝説を日本人が信じていたので刈り取った結果でした。
それは、幾つかのヨーロッパ諸国がキリスト教の倫理観に影響されて戦争に中立の立場を保ったのとは、対照的でした。そして、それらの諸国家は、平和を保ったために、戦後比較的に苦労することなく、経済的な繁栄を享受しました。それらの諸国家は平和の産み出す実を享受したと言えます。
(2)戦後軍部に押し切られて戦争の惨禍をもたらしたことに強い悔恨を抱いたおられた昭和天皇
昭和天皇は、実際は平和を望んでおられ、戦争を推進したいと願っていませんでしたが、戦時中にとりわけ、中国にいた関東軍などの軍部が戦争を勝手に推し進めてしまい、天皇はそれを押さえることができなかったということは、よく言われることです。実際、そのことは、戦後、軍部の関係者も認めています。しかし、そのことを昭和天皇自らそのように語っておられたことを、NHKが特集し、2019年に『昭和天皇「拝謁記」-戦争への悔恨-』という番組で放映しました。
それは、初代宮内庁長官田島道治が5年近くにわたる昭和天皇との対話を詳細に書き残した「拝謁記」に基づいています。その記述から、昭和天皇は田島長官を相手に敗戦に至った道のりを何度も振り返り、軍が勝手に動いていた様を「下剋上」と表現し、「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」などと後悔の言葉を繰り返し語っていたことがわかりました。
さらに、昭和天皇は、終戦から7年後の日本の独立回復を祝う式典で、国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望しておられました。当時の吉田茂総理大臣の反対で、昭和天皇が戦争に対する深い悔恨の念を抱いておられたことを示す一節が削られていたことがわかりました。その時、昭和天皇が国民の前で表明したいと願っておられたのは、次のようなお言葉です。
「国民の康福(こうふく)を増進し、国交の親善を図ることは、もと我が国の国是であり、又摂政以来終始変わらざる念願であったにも拘(かか)わらず、勢の赴くところ、兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡(せいせき)に顧みて、悔恨悲痛、寝食(しんしょく)為(ため)に、安からぬものがあります」
それで、昭和天皇は、平和をもたらしたいと願いもあったにもかかわらず、戦前の情勢に巻き込まれて、太平洋戦争をもたらして日本に甚大な被害をもたらしてしまったことを、個人的に強く反省し、その後悔の念のために穏やかな気持ちで食事をしたり、休んだりすることもままならなかったと述べておられます。ですから、昭和天皇は、ご自分の責任を痛感しておられたことが分かります。
結局、昭和天皇は日中戦争・太平洋戦争の渦中におられた方ですから、事情を一番ご存知でした。それで、なぜ、日本が敗戦という悲惨な結果を刈り取ったのか過去を振り返って深く考え苦しまれていたということが分かります。
その当時、満州の日本軍の関東軍は本土の政府の意向を無視して勝手に行動していました。1928年に中国の満州では関東軍司令官は満州軍閥の張作霖が邪魔になり、暗殺を計画しました。司令官の部下は張が乗っている列車ごと爆破して殺害し、そのことを中国側のせいにしようとしました。日本政府が、犯人の軍人たちを、きびしく罰しなかったせいで、のちに軍部は政府や議会のいうことを聞かなくなっていきました。
昭和天皇は、事件をあいまいに処理しようとした当時の田中義一総理大臣を叱責しましたが、首謀者が停職になるという軽い処罰で終わり、田中内閣は総辞職しました。その後、関東軍は同種の企てを行い満州鉄道を爆破して、中国側のせいにするというあくどいやり方を再びしました。
張作霖事件の3年後、張作霖爆殺事件の現場から、わずか数キロの地点で関東軍は満州鉄道の爆破事件を起こしました。張作霖事件の関係者の関東軍の後任は、これを中国の東北軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移りました。戦後のGHQの調査などによっても、本事件は関東軍が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った陰謀だったことが分かっています。
そして、関東軍は、奉天などの都市を占領し支配下におきました。 そして1932年に、日本軍は溥儀を擁立して満州国の建国を宣言しました。そして、満州事変は全面的な日中戦争へと拡大していきました。それで、日本が太平洋戦争につき進むことになったのは、満州事変が発端になっています。
それで内地の政府は最初は不拡大方針でしたが、関東軍は、内地の政府の方針を無視して、独断で行動していました。しかし、後になって、内地の政府も関東軍の行動を追認し、また、閣議で派兵を決定し、関東軍と協力して日中戦争に突き進む結果になりました。
「拝謁記」の中で、昭和天皇は軍が勝手に動く様を「下剋上」と表現して繰り返し批判したと記載され、この張作霖の殺害事件を十分処罰しなかったことが発端と考えて深く後悔しておられたことが分かります。
昭和27年5月30日の拝謁では「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ。田中内閣の時ニ張作霖爆死を厳罰ニすればよかつたのだ。」また、昭和26年6月8日の拝謁では「張作霖事件のさばき方が不徹底であつた事が今日(こんにち)の敗戦ニ至る禍根の抑々(そもそも)の発端」などと繰り返し事件に触れて当時の対応を悔やんでおられたのことです。田島長官は「御信念より相当繰り返し御主張ニなる」と記しています。
また、戦前の軍部の暴走を物語る事件として、昭和11年の陸軍の青年将校たちが起こしたクーデターである「2・26事件」は有名です。昭和25年11月7日の拝謁で、昭和天皇は「青年将校ハ私をかつぐけれど私の真意を少しも尊重しないむしろありもせぬ事をいつて彼是(かれこれ)極端な説をなすものだ」と振り返ったと記されています。昭和天皇は厳罰にするよう指示し、反乱は鎮圧されましたが、天皇の意志を無視した軍部の勝手な行動はエスカレートしていきました。
さらに、拝謁記によると、昭和天皇は「東條が唯一の陸軍を抑え得る人間と思つて内閣を作らしたのだ。勿論(もちろん)見込み違いをしたといえばその通りだが」と振り返り、昭和26年12月14日の拝謁では「平和を念じながら止められなかった」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」と述べられたということです。
わたしは昭和天皇が中国の関東軍の関東軍参謀長に就任し、北方のソ連と南方の英米との双方に対する戦争を推進していることが知られていた東條英機に内閣を作らせたのは、昭和天皇が太平洋戦争を引き起こすセッティングをしたようなものだと考えていました。でも、昭和天皇は必ずしも、戦争を始めようという意図はなく、軍部を抑えようと意図があったことが分かります。
日本語: 昭和16年 October 18th, 1941 |
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原典 | http://blue.ap.teacup.com/masamichi/img/1380514663.jpg |
昭和天皇が戦争推進派の東条英機に内閣を作らせ軍部を抑えて平和を作ろうと考えたのは致命的な間違いでした
昭和天皇は日米開戦を決めた御前会議の時にも平和努力をするようにと言われてその天皇の意向は他の人々に確証されている
しかし、昭和天皇が平和を願ったのであれば、東條英機を登用するのは全くのミスキャストで、昭和天皇の判断に間違いがありました。しかし、結局、人は完全に正しい判断と行動はできないものです。
また、昭和天皇は、「南京事件」に言及されました。南京事件とは、1937年(昭和12年)12月日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間もしくは最大で2か月以内にわたって、日本軍が中国軍の捕虜、敗残兵、一般市民などに対して殺傷や暴行を行ったとされる事件のことです。
この中で昭和天皇は「支那事変で南京でひどい事が行ハれてるといふ事をひくい其筋(そのすじ)でないものからウス/\(うすうす)聞いてはゐたが別ニ表だつて誰もいはず従つて私は此事(このこと)を注意もしなかつたが、市ケ谷裁判で公ニなつた事を見れば実ニひどい。私の届かぬ事であるが軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだ」と述べたと記されています。
それで、驚いてしまうのは、一国の長であり、日本軍の総責任者である昭和天皇が、南京事件の真相について少ししか知らなかったということです。それで、当時の日本は、当時の政治的な責任者であった天皇に十分の情報を知らせませんでした。さらに、確かに、昭和天皇が責任者でしたが、軍部が暴走することがこの時にも起きていたということです。
もちろん、政治的に上に立つ人は、国民に起きていること、また配下にある人々がどのような状況なのか実情を徹底的に知るように努める必要があります。
聖書は、「あなたは自分の羊の群れの様子をはっきり知っておくべきである。」と述べ、上に立つ人が配下の世話をすべき人々の状況をはっきり把握する必要があると述べています。(箴言27:23)
それで、日本では、天皇に対する崇敬の気持ちは強いです。しかしながら、戦後、昭和天皇は人間宣言をされ、ご自分が現人神でないことを認められました。そのことにも調和して、天皇は戦時中のご自分の判断や行動に間違いがあったことを痛感しておられて、とりわけ日本を日中戦争や太平洋戦争に巻き込んでしまったことに深い悔恨の念を抱いておられました。やはり、人であれば、誰でも、間違いは避けられません。
そして、昭和天皇は二度と戦争を推進する人々に勝手にやらせることによって、戦争を繰り返したくないと願っておられました。
(3)戦後諸国家への親善大使としての役割を果たしてこられた天皇一族
しかしながら、天皇家は、何百年ものあいだ日本の支配階級にあり、日本のために尽くしてこられ、尊ばれたきたのですから、その事実は認められると思います。そして、戦後は、諸国家への親善大使としての役割を果たして下さっています。
日本で歴史的に政治支配者の立場の家系にあった人々がある意味日本の代表者として諸外国と平和を促進する業務を行われるというのはふさわしいと思います。また、先祖がした過ちを今の天皇家が謝罪をするのはふさわしいのではないかと思います。
1960年(昭和35年) 日米修好100周年記念晩餐会にて アイゼンハワー大統領夫妻とワシントンD.C.のホワイトハウスにて
今の天皇は外国との親善大使として働いてくださっています
(4)政治指導者に敬意を払うのは正しいが悪い事でも盲従して崇拝するのは間違い
聖書は、政治支配者に「誉れ」を帰すようにと勧めています。(ローマ13:7)確かに、為政者は大抵の場合、臣民の益を考えて労を払っているのですから、敬意に値します。しかし、聖書は支配者を崇拝することは正しくないと述べています。
聖書は国家を野獣に例えることがあります。そして、野獣などの動物が「理性がない」と述べています。(ペテロ第二2:12)人間政府の多くは、歴史を通して理性のない野獣のように戦争や流血を行なってきました。
政府が理性のない動物のように振る舞うことがあるので聖書は政府を動物に例えることもあります
A mass Sieg Heil during a rally in the Tempelhof-Schoneberg district of Berlin in 1935
支配者に敬意を払うのは正しいのですが崇拝を捧げないように気をつける必要があります
そして、支配者が流血や殺人をするよう要求する時、それに盲従するのは、聖書のいう野獣の崇拝ということになります。(啓示13:4)エホバ神はそのことを不興を示され、野獣に対する崇拝に反対されています。人間の命は神の目に貴重なものだからです。(創世記9:7)
A mass Sieg Heil during a rally in the Tempelhof-Schoneberg district of Berlin in 1935
兵士として戦い人殺しをするのは政府に対する盲従であり野獣の崇拝です
聖書はすべての人が罪人であると述べています。(ローマ5:12)ですから、単なる人間を崇拝することを奨励するのは正しくありません。罪人であるという点では、天皇も例外ではありません。それで、昭和天皇も戦前に間違った判断をなさったのです。また、すべての人が罪を犯す者なのですから、天皇の神の律法に反する命令に従って命を捨てるということは誰にも強制されるべきものではありません。
天皇家自体が古事記が歴史的な記録としては信頼できない部分があることを認めておられます。それで、天皇を神とみなしたり、あるいは神の子孫として過度の不当な誉れを帰すのは真理にそぐわないでしょう。
(5)私たちの崇拝に値するエホバ神
聖書は、わたしたちにまず第一に創造者エホバ神を愛するようにと命じています。(マタイ22:37,38)エホバ神は、創造者であり、絶対の愛の神です。(イザヤ42:5。ヨハネ第一4:8)この方は、私たちの命の源であり、世界のすべての良い物を備えて下さった方ですから、私たちが命を犠牲にするのに値する方です。(詩編36:9)
エホバ神は光の神
Takeaway エホバ神は万物の創造者である愛の神 わたしたちの崇拝に値する唯一の方 |
エホバ神はわたしたちのために非常に多くのことをしてくださいました。キリストの贖いの犠牲を備えて人類が永遠の命を得られるようにとりはからってくださいました。(ヨハネ3:16)そして、聖書の中に、人類を幸福に導くための知恵の言葉を含めて下さいました。そして、この方のために、命を犠牲にすることがあっても、エホバ神は、わたしたちを復活させて命を再び与えることができます。(使徒24:15。啓示20:4)
日本は戦前は、事実に基づかない神話や伝説に影響されていたので、国土が荒廃するという結果を刈り取ってしまったと言えると思います。
私たちは、エホバを恐れて崇拝し、神の律法を守り、偶像崇拝や流血や殺人を避けるようにしましょう。天皇などの政治指導者に敬意を払うとしても、神の律法に反する流血を強制されるとすれば、それに盲従することは避けましょう。結局、良心的な政治指導者であったも、間違いは避けられないのです。敬意を払うとしても、殺人を犯すことなど、政治指導者に盲従することは避けましょう。
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(32)大いなるバビロンの教理のために証人から排斥されるがヨハネのブログを始め聖書研究を続ける
わたしは東京で、エホバの証人の会衆に交わりながら、聖書朗読を続けていました。エホバの証人の根幹になっている教えのひとつに、啓示の書に登場する大娼婦大いなるバビロンが偽りの宗教組織全体であるという教えがあります。しかし、わたしは東京でその大いなるバビロンが米国であることに気づきました。
その後、実家に戻りました。そのことは、以前記事にしたので、お読みください。
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(29)わたしヨハネは大いなるバビロンが米国であることにどのようにして気づいたか
今回の記事では、わたしが実家に戻った後、どのようなことを行ったのかをお話しします。
(1)大いなるバビロンが米国であるという解釈を統治体に知らせる
わたしは実家に戻って、自分の発見した聖書の預言の解釈について考え続けました。実家ではテレビがあったので、わたしは世界情勢について情報を得ることができるようになりました。また、図書館の本を借りて読んだりして自分の解釈に関係した情報を得るようにしました。
そして、わたしは実家の会衆の長老たちに大いなるバビロンが米国であるという自分の聖書の解釈を説明した文書を作成して、提出し、何人かに読んでいただきました。何人かの地元の長老がわたしの文書を読んでくださいました。
その時は、長老たちは最初はわたしの論議に反論しませんでした。ひとりの若い長老はその文書を何度も読んだと言われました。実家の会衆のひとりの高齢の長老兄弟はひょっとして、わたしの解釈も一理あると考えてくださっていたのかもしれませんが、わたしに良くしてくださいました。それで、聖書的な根拠を示した文書を提出したことは、排斥される時期を少しだけ遅らせることになったようです。
わたしが大いなるバビロンが米国であるはずだということを気づいたのが、東京で、おそらく2003年9月頃だったと思います。それから、排斥されるまで、およそ5年くらいはエホバの証人としてとどまっていたことになります。現在、大いなるバビロンの実体に気づいてから、早くも16年も経ってしまいました。
そして、同じような文書をその当時、米国ニューヨークエホバの証人の本部に郵送しました。 そして、さらに研究を進めた文書をニューヨーク本部を訪問して、ベテル奉仕者に渡して、統治体の兄弟たちが確実にその解釈を知ることができるようにしました。
わたしはできれば、そのことについて統治体の兄弟たちと英語で論じたかったのですが、それはできませんでした。統治体の兄弟たちは普通とてもお忙しいので、わたしが本部に前もって連絡することもなく、突然行ったせいもあると思います。
でも、思うに統治体の兄弟たちは、七つの星に関しては、そうかもしれないと考えた兄弟たちもいたかもしれませんが、大いなるバビロンの実体が南の王であるというわたしの見解にはついていけないと考えられたのではないかと思います。大いなるバビロンが偽りの宗教の組織であるという解釈は、エホバの証人の教理の根幹部分にあるからです。
わたしは最初は聖句をノートに書いて研究していました。でも、後になって中古のパソコンを手に入れて、それをワープロにして自分が研究した結果を文書として作成するようになりました。さらに、ものみの塔ライブラリーのCDも利用するようになって、わたしの聖書研究は進みました。でも、最初からネットはしてはいませんでした。
(2)大いなるバビロンの実体についての理解のための背教という理由で排斥される
ところが、ひょっとしてわたしを擁護してくださっていたのかもしれない長老兄弟は、ご高齢で亡くなってしまわれました。後になって会衆に特開者のご夫婦が派遣されましたが、その長老兄弟にわたしは文書を提出していませんでした。
それで、特開者の長老兄弟がわたしの聖書の解釈について尋ねた時に、自分が組織とは異なる解釈を信じていることをわたしは認めました。それで、その特開者の兄弟が中心になって、わたしはその会衆から背教という名目で排斥されました。つまり、大いなるバビロンの実体の理解がエホバの証人の組織と異なっているという理由で排斥されました。そして、地元の会衆の長老たちは最後には、統治体の解釈に固くついたと思います。
わたしはその自分の解釈は、聖書に基づいていると考えていたので、自分で聖書に基づいていて正しいと考える解釈のために、エホバの証人から排斥されることはちっともショックではありませんでした。それで、エホバ神はわたしと共にいてくださっていると考えていました。
なぜなら、聖書は明らかに主に世界帝国の移り変わりに注目しているからです。ですから、啓示の書に預言されている緋色の野獣と大娼婦の抗争は、やはり双方とも政治的な実体であるという理解は間違いがないと思いました。
聖書の預言は世界帝国の移り変わりにフォーカスし政治的な実体に注 目している
大娼婦も緋色の野獣も両方が政治的な実体のはず
さらに、世界情勢を調べて、わたしの聖書の解釈は現実の世界の情勢とも合致していると考えました。エホバの証人の統治体の解釈の方が、世界の現実と遊離していると考えました。
米国と国連軍が血に酔っている状況は今の世界に起きている
それは、わたしが人間である統治体ではなく、エホバ神に従うためにトラブルを経験することを意味しました。(使徒5:29)自分で正しいと考える聖書の理解を固守することは、エホバ神に喜ばれていたはずです。(ペテロ第一2:19,20)
もし、エホバの証人の組織からわたしが排斥されると、エホバ神の目から見て正しい立場に立つ人がわたしひとりになって、エホバの証人の組織全体がエホバから非とされる立場に立つことになると思いました。
おそらく、エホバの証人の組織にとってはわたしの排斥はマイナスになったのではないかと思います。一世紀のエルサレムの長老団は、自分たちと異なる意見を持っていたパウロを排斥しなかったからです。
その排斥処置は、統治体の意向もあったのではないかと思います。結局、おそらく、エホバの証人の統治体はその解釈をおおむね受け入れるのが難しかったんだと思います。
エホバの証人は、大いなるバビロンが偽りの宗教の世界帝国であるという教理がその根幹になっているからです。そのために、エホバの証人はキリスト教会を初め、聖書以外の宗教の習慣を禁忌します。
エホバの証人のアメリカ合衆国について特集していた日本語の1976年年鑑の記述には、協会の二代目の会長ラザフォード兄弟が、投獄された時に、大いなるバビロンとして考えたキリスト教の僧職者たちに対して、徹底的に戦おうと考えたということが書かれています。(1976年年鑑114-115ページ)
エホバの証人はローマカトリック教会を初めとして偽りの宗教組織が大いなるバビロンだと解釈している
確かにローマカトリック教会はぜいたくかもしれないが現在流血に酔ってはいない
エホバの証人はラザフォード兄弟の頃から大いなるバビロンは自分たち以外の宗教組織だという解釈で自分たちの教理を作り上げている
それで、大いなるバビロンが偽りの宗教で、いつかはエホバから滅ぼされるという解釈で、エホバの証人の聖書の解釈全体が固く塗り固められています。それでちっとやそっとの聖書的な論議では、エホバの証人のその教理を論駁することはできないと考えました。
(3)エホバの証人から排斥されないようにという祈りが聞かれなかったことは霊的な祝福につながる
わたしは一応エホバの証人から排斥されないようにと祈りました。でも、その祈りは聞かれず排斥されてしまいました。2008年11月でした。今2019年8月で、排斥されてからおよそ11年ほどになります。でも、わたしは排斥されても、エホバ神に対する信仰を失わず、かえってエホバ神はわたしと共にいてくださっていると考えていました。
証人から排斥されたので、エホバの証人として伝道したり、集会の準備をしたり、集会に出席する時間を自分の聖書研究に当てることができるようになりました。それで、排斥されたことは、わたしに聖書研究を行う時間を産み出すことになりました。そして、エホバ神に祈り続け、自分のその解釈が正しいのかどうかを聖書朗読を続けて研究して検証を続けました。
排斥されたので集会や野外奉仕の時間を聖書研究に当てたため聖書の理解が進んだ
その結果、わたしの聖書に対する理解は急速に深まりました。それで、聖書からの霊的な祝福という点では、わたしにとっては証人から排斥されたことが益になりました。それで、エホバ神への祈りが聞かれない場合に、その方が益になるということがあります。
一方、わたしはエホバの証人の間で長年培ってきた人的なネットワーク、親しい友人たちを失ってしまいました。そして、とりわけ、エホバの証人の統治体のためにわたしが払ってきた敬意や労はすべて無駄になりました。
親しい友人たちを失ったことは、確かに大きな痛手でした。その後、自分が困難に直面した時、それまでは実際的な助けになってくれていた証人たち、とりわけ姉妹たちからの支援は得られなくなりました
でも、わたしが排斥された時にもエホバの証人たちの中には、わたしの解釈が正しいと感じている兄弟姉妹がいるように思いました。わたしが証人の中で、一番親しくしていて行き来していた同い年の姉妹は、わたしの意見と同じことを言っていました。でも、会衆が違っていて、私は排斥されたために、その姉妹と連絡できなくなりました。その姉妹は、もともと膠原病を患っていて体の弱い姉妹だったのですが、その後亡くなってしまいました。
わたしはエホバの証人から排斥されているので、基本的にエホバの証人の成員と話をすることができません。また、エホバの証人の集会では、自分の理解を話すことができません。それで、集会に行っても、面白くありませんし、エホバの証人の集会に行こうという気持ちはあまりないのですが、イエスの死の記念式だけは、エホバの証人の集会に出席しています。
なぜなら、イエスは表象物に毎週あずかるようにとは命じられませんでした。イエスは、昔の過ぎ越しの祭りの時期に年に一度だけ、祝うようにと命じられたと思います。キリスト教会で、年に一度だけ表象物にあずかるようにしている教会はありません。それで、イエスの死の記念式の時だけは、エホバの証人の集会に出席しています。
2019年主の記念式シリーズ(1)初期クリスチャンは日ごとあるいは週ごとに表象物にあずかっていましたか【新共同訳・回復訳・Biblehub】
(4)聖書の研究を独自に続けて増し加わる聖書の理解という祝福を受ける
わたしは実家にいたおかげで、部屋代や生活費を稼ぐ必要がなかったので、少し働くだけで後の時間を聖書研究に当てられたのは良かったです。そのため、私の聖書の研究は急速に進みました。仏教徒の母には感謝をしなければなりません。
わたしは、それまで、エホバの証人の教えをそのまま聖書の教えだと信じてうのみにしていたのですが、聖書の研究を続けました。つまり、エホバの証人の教えが、聖書がほんとに聖書にのっとっているかを検証していきました。
すると、自分が聖書の教えだと信じていたことは、ある教えは、やはり正しいと分かりました。今までもお話ししたことがあるようにエホバの証人から学んできた創造者の存在、進化論の間違い、聖書が神の言葉であること、殺人や淫行や輸血や心霊術などを避けるという神の律法の重要性、霊魂不滅説や地獄の教理の間違いなどは正しかったと考えています。そうした確信は、エホバの証人と交わっていなければ得られなかったと考えるので、その点では、エホバの証人の組織に感謝しています。
万物の創造者が存在されるという証人の教えは真実
聖書が神の言葉であるという証人の信念は正しい
また、聖書の研究を続ける点で、エホバの証人の洞察の本などの出版物や、その他の出版物や集会で学んだことは助けになりました。最初は分からなかったことも、聖書全体が一貫して調和しているはずだという考え方で、解釈していくと、次々に分かっていくように思いました。
それで、やはり、イエスが約束してくださったように、エホバ神のもとから「真理の霊」「真理を伝える聖なる力」が送られてわたしの理解を導いてくださったのではないかと感じています。イエスは、「真理を伝える聖なる力が来ると,真理を十分に理解できるように導いてくれます。」と言われたことがありました。 (ヨハネ15:26;16:13)
旧版の新世界訳では、その聖句は、「真理の霊が到来するとき,あなた方を真理の全体へと案内するでしょう。」と言われています。それで、聖書の研究を続けて、聖書全体が調和していて、一貫していることをますます理解するようになりました。
実際、わたしが聖書を解釈する際の手法のひとつは、聖書全体がおひとりの神によって霊感が与えられているので、互いに一貫しているはずだという信念に基づいています。そのようにして、聖書を解釈することによって、聖書の理解がどんどん進んでいきました。
わたしは証人から排斥されたおかげで、聖書の研究に打ち込むことができたので、聖書に関する新たな宝石のような洞察をさまざまに得ることができて、エホバ神に感謝しています。わたしは自分がエホバの証人の統治体よりも、聖書をより理解できていると考えています。
エホバの証人の場合は、聖書の各書を、たとえば、ダニエル書や啓示の書やイザヤ書などを各々別個に解釈するように、取り組んでいると思います。そうすると、聖書の各本のつながりや調和が分かりません。
でも、現時点で、わたしもまだ聖書を完全に全部を理解できているとは考えてはいません。研究の途上にあります。
(5)エホバの証人から排斥後にヨハネのブログを作成して自分の聖書の理解を公に知らせる
わたしは排斥されてからしばらくして、2009年8月に自分のパソコンをネットにつないで、パソコンで作成した聖書研究の文書をブログの形でネット上で公表するようになりました。最初は、アメブロを利用し、さらにライブドアブログなどの他のブログで、「ヨハネのブログ」を出すようになりました。
そして、わたしはネット上の情報を得ることができるようになりました。しかしながら、わたしが実家で、ネットを利用できたのは、しばらくでした。ここでは詳述しませんが、実家に母と住んでいた元オウム真理教の弟と仲間たちは、わたしにありとあらゆるいやがらせをして、わたしの聖書研究と、世俗の仕事を妨げました。弟とその仲間たちの妨害で、わたしはネットを利用できないようにされ、また実家の固定電話も利用できないようにされました。
それで、わたしはそのようになってから実家の外のネットを利用して、ブログを出すしかありませんでした。それで、わたしは世界情勢は、ネットではなく、主にテレビに頼って情報を得るようにしました。
(6)聖書研究を続けることによってエホバの証人の教理との乖離が大きくなる
しかし、私は、聖書研究を続けて、他のエホバの証人の幾つかの教理の中にも、さらに聖書的に間違いがあると考えるようになりました。そのひとつはエホバの証人の1914年説です。
キリスト教会の人々は、最初から1914年説は受け入れておらず、それは正しいことでした。そのようにして、わたしは聖書について、理解を深めていきました。
さらに、エホバの証人は、社会問題についてあまり、深くタッチしない部分もあります。選挙に参加しないからです。でも、わたしは選挙について聖書に基づいて考えてみて、聖書は選挙に参加することを否定していないのではないかと思いました。今回はその点について詳述しませんが、上位の権威は、選挙に参加して、自分の意見を表明するように勧めており、聖書は上位の権威に従うように勧めています。(ローマ13:1)そして、選挙は、神の律法に違反することではありません。
戦争や暴力によって社会問題を解決するのとは違って選挙は問題を解決する平和的な方法のひとつ
もちろん、一番大切なのは、聖書の内容そのものであり、聖書の音信を広める事です。聖書から離れて社会問題だけに、頭をつっこむのは、クリスチャンがするべきではありません。また、クリスチャンは、今の事物の体制での努力によって、今の世界の問題がすべて解決することを期待はできません。
今の世界は、悪魔サタンの支配下にあって、問題は複雑すぎて、解決は不可能だからです。(ヨハネ第一5:19)できることは、問題を緩和することだけです。それでも、少しでも、社会問題にかかわるならば、社会問題の緩和になり、それは、親切なサマリア人のように人々に実際的な助けを差し伸べることになります。(ヨハネ第一3:18)
(7)英語の勉強をして世界の社会問題について考える
実家では、わたしは英語の資格試験にトライしました。そして、英語の勉強のために英検準一級と一級の試験にトライしました。英検の二次の面接試験は、時事問題について考え、英文を作り質問に答えるという形式のものでした。わたしは英検の二次試験の準備をすることは、さまざまな時事問題について調べたり、その時事問題ついて考える機会になりました。
それで、英検の資格試験にトライすることは、自分の関心をさまざまな社会問題に広げて、その対策を聖書の預言や原則を考慮しつつ考えて、自分を成長させることにつながったと感じています。英検の資格試験にトライしていなければ、さまざまな社会問題や時事問題について考えることもなかったと思います。そして、英検準一級を取得した後、私は再び英会話の講師として教え始めました。
(8)今後のわたしの目標
わたしは聖書研究の努力を続けて、聖書全体をさらに一層明快に理解できるようになりたいです。それで、聖書の研究を自分が死ぬまで続けていきたいです。それが現在のわたしに残された人生の目的です。
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(12-4)イランが北の王として米国を攻撃した場合予想される結果
(1)イランが諸国家と共に米国を軍事攻撃する場合勝利する可能性もある
ロシアがもし、イランを総合司令官にして、連携して米国を攻撃した場合、イラン、ロシア側の勝利の可能性があります。それは、聖書預言の成就であるかもしれないからです。北の王の、一度目の南の王に対する攻撃になるかもしれないからです。
世界情勢の流れを観察して、そのように聖書預言が成就する可能性があると考えます。イランに北の王に関する預言が成就していく可能性もあります。でも、さまざまな条件が整っていなければ、聖書預言の成就ではないということになると思います。
(2)イランが率いる米国攻撃が成功する場合どのような進展が考えられるか
現在、イランの国政全般にわたる最終決定権を持つ 終身の最高指導者は、アリー・ハーメネイー氏(80)で、2021年までの任期の大統領がハサン・ロウハーニー 氏(70)です。しかしながら、両氏はどちらも反米保守の敬虔なイスラム教徒のはずです。
しかしながら、2019年6月13日の時点で、ハーメネイー氏は、「核兵器を製造も、保有も、使用もしない。その意図もない」という意向を日本の首相との会談で伝えられたとのことです。また、ロウハニ大統領は戦争は望んでいないとの明確な発言があったということです。
わたしは両氏の発言が本心からのものであり、そのお気持ちが続くことを望みますが、実際、敬虔なイスラム教徒であれば、平和を望む気持ちもお持ちのはずです。
わたしはイランが北の王であると断定しているわけではありませんが、もし、万が一、イランが将来、北の王であるということになると、イラン側が米国側と戦って勝利を収める可能性があります。北の南に対する第一回目の軍事攻撃と言うことになります。
すると、米国側も非常に大軍である同盟軍を率いて戦うことになります。すると、米国は、多くの同盟国に共に戦うよう要請することになります。南の王の同盟軍の方が兵力としては、北の王の軍勢を上回っており、しかも強力であることが予期できます。
なぜなら、ダニエル書には、「彼(北の王)は力と勇気を奮い起こし,大きな軍隊で南の王を攻めます。南の王も戦いに備え,非常に強大な軍隊で応戦します。」と予告されています。(ダニエル11:25)
北の王の軍勢は「大きな軍隊」ですが、南の王の側は、「非常に強大な軍隊」となっています。英訳聖書 (Berean Study Bible)で確認すると、北の王の側は、「large army」、ギリシャ語の原語をBiblehubのストロングコンコーダンスで確認すると、「great army」とも訳すことができます。
一方、南の王の側は、「a large great and powerful army(Berean Study Bible)」、ストロングのコンコーダンスを確認すると「as far as great and powerful (or numerous) army」と訳すことができます。ですから、南の王の側も北の王の側に劣らず、大軍であり、しかも、軍事の装備も強力となることが予期できます。
ですから、軍勢の大きさと、その能力を考えると、普通は南の王の勝利が予期できます。以前、米国と西欧諸国が湾岸戦争やイラク戦争で、イスラム教の中東を攻撃した時には米国側は容易に勝利しました。しかし、今回は異なる結果になります。
聖書の預言によると、予想外の展開となります。「人々が陰謀を企てるため,彼は立ち続けることができません。彼の美食を食べていた者たちが彼を倒れさせます。彼の軍隊は押し流され,大勢が殺されて倒れます。 」と預言されています。(ダニエル11:25,26新世界訳改訂版)
ですから、南の王の近臣が南の王に対して陰謀を企てるために、南の王は戦い半ばで、命を落とします。確かに、普通は、戦争中に総司令官が死んでしまうと軍隊の兵士の士気に強く影響します。それで、総司令官がいなくなってしまうのですから、巧みな作戦を立てることができなくなり、南の王の軍隊は、総崩れになり、大勢の死者が出るということが考えられます。
でも、普通は軍事力で勝っている軍隊が勝利を収めるはずなので、何が他に南の王の敗因となるのか、さらに聖書の説明があるかを調べていきたいと思います。
それで、もし、北の王がイランであるということになると、日本やその他の同盟国は、米国と共に戦うと敗北することになります。その後、北の王と次の南の王は停戦交渉をし、和平を語るのでしょう。しかし、どちらの王も真の意図を隠し、偽りを語るようです。(ダニエル11:27)
おそらく、北の王の側も兵力で劣っているので、長期戦になると不利になることが予想され、停戦にするのではないかと思います。この点、北の王は実際的な処置をとって、自軍も壊滅的なダメージを受けないようにするのではないかと思います。
その後、「彼(北の王)は大量の貨財を携えて自分の土地に戻る。その心は聖なる契約に逆らう。そして彼は効果的に行動し,必ず自分の土地に戻る。」と予告されています。(ダニエル11:28)
それで、南の王の側は一応敗北ということになるので、たくさんの戦争賠償金を北の王の側に払うことになるようです。あるいは、北の王は大量の物資を略奪しているのかもしれません。ですから、その時、南の王と共に戦うと、数多くの人命を失うか、戦後、多額の賠償金を払わなければならないか、物質的な多大な損失を被ることになるのではないかと思います。
(3)わたしヨハネはイランのある政治指導者が北の王になることは決して勧めません
北の王の側が勝利を収めるとしても、私自身は、イランの政治指導者たちにそのようにするようにと勧めるわけでは決してありません。なぜなら、北の王は、第一回目の米国に対する軍事攻撃に成功するとしても、神の目に非とされる立場に自らを置くことになるからです。北の王になることはおそらく、他の大勢の人々を「滅ぼす者」「アポルオン」となるだけでなく、神の目から見て「滅びる者」となることを意味します。(啓示9:11。テサロニケ第二2:3)
ですから、北の王となることは、創造者から非とされ、永遠の死を招く立場です。イエスは、「全世界をかち得ても,それによって自分の魂を失うなら,その人にとって何の益になるでしょうか。」と言われました。(マタイ16:26)
北の王となり・・・
全世界を手中に収めても・・・
神に復活させていただけず滅びるとしたらその人にとって何の益になるでしょうか
今の事物の体制で全世界を勝ち得たとしても、永遠の命の見込みを失い、楽園での死後の復活の見込みを失うような立場に立つことは決して勧められることではありません。
そして、啓示の書は、北の王に従って戦う大軍が、やはり、永遠の死をこうむることを予告しています。なぜなら、その大軍は、北の王の崇拝者ですから、野獣の崇拝者と言えるからです。野獣の崇拝者は、永遠の命の見込みはないからです。ですから、北の王の側に従って、戦うことも勧められることではありません。
啓示8・9章-七人のみ使いが第一から第六のラッパを吹く(49)二億の騎兵隊には神の是認と復活がないと考えられる理由
(3)北の王が聖なる契約に逆らうとは北の王があらゆる宗教よりも自らを高めることを意味する
北の王は「聖なる契約」に逆らうことになっています。(ダニエル11:28)「聖なる契約」とは、ルカによる書によると、「わたしたちの父祖アブラハムに誓われたその誓い」と説明されています。(ルカ1:73,74)神のアブラハムに対する誓いとは何を意味するのでしょうか。
それは、聖書の中の基本的な神の契約のひとつです。エホバはアブラハムに対して彼の子孫に「カナンの地」、すなわち約束の地を与えることを誓われました。(詩編105:9-11)
北の王は、そうした聖書の中の神の約束に逆らうでしょう。もしかすると、現在、肉のイスラエルの子孫がカナンの地を占拠していますが、ユダヤ教のイスラエル人を攻撃することによって、その聖書の言葉に対する反対を表わそうとするのかもしれません。
しかしながら、後になってアブラハムの肉の子孫のイスラエル人は、神の律法を破り、神の子とその追随者を殺害したために、神から捨てられました。ですから、肉のイスラエルの子孫に対する神の約束は無効にされました。しかし、北の王がこの点を理解するかどうかは分かりません。
さらに、イスラム教は、アブラハムの子孫のひとりイシュマエルから、現在のイスラム教徒が出てきていると教えています。しかし、北の王は「自分の父祖たちの神を無視」することが予告されています。(ダニエル11:37)すなわち、北の王は、イスラム教も顧みないことが預言されています。しかし、このことは、とりわけ、後継者の北の王について言えるかもしれません。それで、最初の北の王にはイスラム教も影響を与えるかもしれません。
しかし、北の王は、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などのあらゆる宗教よりも自分を高めることが予期できます。北の王に関して、「自分はあらゆる神より上だと考え,神の中の神に向かって厚かましいことを語ります。」と預言されているからです。(ダニエル11:36)
ですから、北の王は聖書から離れたキリスト教にしても、聖書に従うキリスト教にしても、両方に逆らい、キリスト教や聖書を悪く言うのではないかと思います。
その時、南の王と共に戦うのはおおむね欧州その他の大陸のキリスト教の同盟軍であると考えられます。ですから、北の王は、この時にも、平和を推進しているべきキリスト教が米国と共に戦ったことを非難するのではないかと思います。そして、その非難に調和して何らかの仕方で効果的に行動することが予期できます。
エホバ神は、ご自分の律法に違反して、殺人を行うクリスチャン、あるいはキリスト教国家に対する不興をまず表して、それらの諸国家が災いを経験することを許される可能性があります。ですから、この時、エホバ神の是認を保ち自国に災いが降りかかるのを避ける唯一の方法は、米国と共になって戦うことを避けることだと思います。
そして、第一回目の北の王と南の王の紛争の時に、米国と共にキリスト教諸国家がかなり、敗北を被ることになるので、キリスト教はこの時点から早くも世界的に評判が落ちることになるのではないかと思います。
そして、最初の北の王は、あらゆる宗教を顧みない王になるので、世界は、世俗的な権威が高められて進化論や無神論、創造者や聖書に対する不信仰や非難や反対が強くなるのではないかと思います。(ダニエル8:12)また、一時的には、世界的にイスラム教の方が人気を高めることにもなるでしょう。
北の王は、「真理を地面に投げ付け,行動して成功を収め」ることが予告されています。(ダニエル8:12新世界訳改訂版)これは、北の王が何をすることを意味しているのでしょうか。同じダニエル8章には、北の王を表わす「小さな角」が「美しい地」に力を及ぼすことが予告されています。(ダニエル8:9新世界訳改訂版)
この「美しい地」とは、乳と蜜の流れる地であり、それは文字通りには昔の約束の地のパレスチナの地を意味する場合もあります。また、イザヤ書では、バビロンが「輝かしい王国」とありますが、これは、「美しい地」に用いられた同じギリシャ語が原語に用いられています。(イザヤ13:19)
ですから、北の王が「美しい地に力を及ぼす」とは、エホバ神を崇拝すると唱えながら、実際はバビロンのように異教を崇拝する国家、また地域を攻撃することを意味するのではないかと思います。ですから、このことは、北の王が、とりわけ、今のパレスチナ、また、キリスト教の拠点や、キリスト教国家を攻撃して、軍事的に成功を収めることを意味しているのではないかと思います。現在は、わたしはこのように解釈しています。
また、 北の王は、「天の軍勢に達するまでに強大になり,その軍勢と星の幾らかを地上に落として踏みにじ」ることも預言されています。(ダニエル8:10) 星とは七つの会衆の使いたちを意味しています。ですから、世界のキリスト教の天的な希望を持つ教会員が命を落とすことを意味しているのではないかと思います。
キリスト教の七つの会衆の天的な希望を持つ星の多くが軍事攻撃で命を失ってしまう
それで、多くのヨーロッパ諸国は、キリスト教を奉じる首相が政権をとって、聖書の神を崇拝していると主張しています。しかし、もし、米国とは共に軍事行動に携わって、聖書の神が禁じられた殺人をほしいままにするならば、そのキリスト教政権は、大きなダメージを受け、政権を失ってしまう可能性が高いでしょう。
また、米国を本拠地にしているエホバの証人も、北の王の攻撃を受ける可能性はあるのではないかと思います。エホバの証人は、人々が聖書を理解するよう助けて殺人を避けて義の道を歩むように助けています。
しかしながら、ダニエル11章には、「洞察力のある人たちは、大勢に物事を理解させます。彼らはしばらくの間、剣や炎、拘禁や強奪によって倒れることになります。」という預言があります。(ダニエル11:33新世界訳改訂版)この預言は、早くも北の王の一度目の南に対する攻撃の時に成就することになるかもしれません。
北の王はキリスト教を蔑視することになっています。今、イランでイスラム教徒以外がどのように扱われているかをWikiで調べました。すると、「現在のイランでは・・・「憲法でゾロアスター教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒が厳しい制限つきながら信教の自由を認められて」います。
しかしながら、今、ロシアや中国がイランと共に軍事行動をとる場合、ロシアや中国でエホバの証人が、迫害を受けていることを考えるならば、北の王に率いられた軍勢が、米国を本拠地としているエホバの証人を軍事攻撃の標的にする可能性があるかもしれません。そのようにして北の王は、聖書の真理を非難して、聖書に対する信仰を損ない、行動してうまくいくことになっています。
わたしは、預言がそのように成就する可能性があると考えるので、ニューヨーク州の本部にいるエホバの証人の統治体の兄弟たちを心配して、前もってお知らせします。それで、今回はまだ南の王は完全に倒れることになってはいませんが、もうすでに、「私の民よ,彼女から出なさい。彼女の罪に関わったり,災厄に巻き込まれたりしないためである」という神の命令に従うのが賢明なのではないかと思います。(啓示18:4新世界訳改訂版)
二度目に北の王が敗北した後に、北の王は「聖なる所」を攻撃します。わたしは現在のところ、その時に、ローマカトリック教会とギリシャ正教会の本拠地が攻撃されることになることを意味していると解釈しています。そのような結果になるのは、「違犯」のためです。(ダニエル8:12新世界訳改訂版)
すなわち、殺人を禁ずる聖書の命令にキリスト教諸国家が違犯するために、そのような軍事攻撃を受ける結果になります。そして、その「違犯」の罪は、一回目の北と南の間の抗争の時にも聖書の神を崇拝すると主張する諸国家によって犯されることになります。
(4)聖書の解釈者は諸政府に戦争と殺人を避けるようにお勧めします
預言者は、聖書の預言を説明することはできますが、基本的に諸政府が互いに争い合うように勧めることはしません。基本的に聖書は殺人に反対だからです。(啓示21:8)
それで、ローマカトリック教会とギリシャ正教会の敗北をもたらすキリスト教諸国家の「違犯」は第一回目の米国のキリスト教の同盟国にも生じているのではないかと思います。
ですから、カナダ、フランス、英国、イタリア、ルクセンブルク、ギリシャ、カナダ、ドイツ、スペインその他NATO諸国のキリスト教諸国家には、米国と共に戦うことにより、エホバ神に対する不興をこうむることを避けるようにお勧めしたいと思います。
さらに、上で述べたように、北の王は勝利を得るとは言え、それはエホバ神の是認を得ているとか、エホバ神が北の王を支援しているからではありません。北の王は非常に大勢の死者を生じさせ、自らも復活のない滅びをこうむることになります。ですから、当然、北の王に従って戦うことも決して勧められることではありません。結局、戦争はたとえ勝利を収めるとしても、勧められることではありません。
しかしながら、諸政府の指導者たちは、必ずしも、聖書の解釈者の勧めに従って行動するのではなく、自由意志に基づいて行動していきます。ですから、世界情勢は、聖書の預言の研究者の勧めには関わりなく、自由に進展していきます。
聖書に忠実なクリスチャンの立場は北の王と南の王の勢力争いや諸国家の紛争に中立です。(ヨハネ15:17-19;18:36。ルカ21:20,21)聖書に忠実なクリスチャンは北の王からも南の王からも迫害され、命を落とすことが予告されています。(啓示17:5,6。ダニエル8:24)ですから、どちらの側にも立ちません。また、どの政府に対しても武器をとって戦うのではなく、紛争が起こるならば、戦火から逃げるという立場になります。(ルカ21:20,21)
さらに、聖書預言がどのように成就していくかを、聖書の解釈者はすべて理解しているわけではありません。また、イラン以外の国家が今から北の王として台頭してくるという可能性も皆無ではありません。ですから、わたしたちが予想だにしなかった別の仕方で、世界情勢は展開して今とは異なる仕方で聖書預言が成就していくかもしれません。
ただ、聖書を解釈する人は、聖書の預言がどのように成就していくのかに深い関心を持ち、世界情勢を注視し続けます。(ペテロ第二1:19)
なぜもっと早く終戦にしなかったのかについての昭和天皇の考察と降伏を恥とする国民教育が行われたこと
(1)もっと早く戦争を終わらせたいと願っておられた昭和天皇の見込み違い
昭和天皇はなぜもっと早く戦争を終わらせることができなかったのかなど、終戦時のことも田島長官に繰り返し語ったと「拝謁記」に記されています。
昭和27年2月26日の拝謁では、昭和天皇が「実ハ私はもつと早く終戦といふ考を持つてゐたが条約の信義といふ事を私は非常ニ重んじてた為、単独媾和ハせぬと独乙(ドイツ)と一旦条約を結んだ以上之を破るはわるいと思つた為おそくなつた」と語ったほか、日独伊三国同盟を結んだ理由については、日本の軍閥がドイツが勝つことを信じ切っていたためだが、その予想が違ったと述べたと記されています。
近衛や東條はドイツのヒットラーを過信して勝つと信じていた
それで、実際、天皇ももっと早く終戦を迎えたいという願いを持っておられました。そして、日本の当時の政治家たちと同じように同盟国のドイツを過信して、勝利を得るという見込み違いを昭和天皇も持っておられたことが分かります。その見込み違いは、日本に悲惨な結果をもたらしました。
(2)国土が焦土になる結果を招いた日本の降伏が遅くなったことの背後にあった考え方
昭和天皇はポツダム宣言を受け入れる、いわゆる「聖断」を行い、昭和20年8月15日に戦争が終わりましたが、昭和27年3月14日の拝謁では「私ハ実ハ無条件降伏は矢張りいやで、どこかいゝ機会を見て早く平和ニ持つて行きたいと念願し、それには一寸(ちょっと)こちらが勝つたような時ニ其時を見付けたいといふ念もあつた」と語ったと記されています。
しかし、太平洋戦争で日本が勝利をしていたのは、最初の半年くらいで、後はミッドウェー海戦を初めとして、日本は負け続けており、そのような機会は決して訪れませんでした。それで、ドイツを信頼しきっていたことや、いいタイミングで終戦を迎えようという昭和天皇の思惑は、悲惨な結果を招きました。
日本には降伏を良しとする文化はありませんでした。日本は儒教の影響を受けていましたが、儒教の教えには、降伏するのを恥として、死ぬまで戦い続けるのが美しいことだという教えがありました。
それで、やはり、そのような考え方の影響が昭和天皇にもあったのではないかと思います。聖書の中には、敵国が自国に対して攻めてきた場合に、柔軟に早期に和平を図るようにという勧めがあります。
イエスはこのように言われました。「どんな王が,別の王と戦いを交えようとして行進するにあたり,まず座って,二万の軍勢で攻めて来る者に,一万の軍勢で相対することができるかどうかを諮らないでしょうか。事実,それができないなら,その者がまだ遠く離れた所にいる間に,一団の大使を遣わして和平を求めるのです。」(ルカ14:31,32)
このイエスの勧めは経済的にもわたしたちの益を守るものです。第二次世界大戦中に、聖書のキリスト教の影響を受けたヨーロッパ各国は、中立の立場を保つかドイツが侵略して来た時に、早期に降伏しました。そのようにしてヨーロッパ諸国は後になって観光名所となった多くの建物の破壊を免れました。その結果、フランスのパリやイタリアのローマなど、日本のように焼け野原になることを免れ、後になって多くのヨーロッパ諸国は戦火を免れた建造物を呼びものにして観光産業を続けることができました。
また、戦火を免れたことは、富を保全することにつながり、大戦後、ほとんど中立を保った北欧を初めとしてヨーロッパ諸国の経済復興は比較的に早いものでした。
Bundesarchiv, Bild 183-H25217 / CC-BY-SA 3.0
ドイツのナチスの軍勢が攻めてきた時フランスの政権はいち早く和平を講じたので。。。
パリの被害を最低限にとどめ後の観光収入につなげた
Bundesarchiv, Bild 183-H28708 / CC BY-SA 3.0 DE
しかし、近年、ヨーロッパ諸国は、そのような中立政策や平和主義政策を放棄したために、米軍と共に中東などで軍事行動をとり、ISISなどのよるテロ攻撃を受けています。そのため、テロ事件が起きたパリなどは、経済的なダメージを受けました。ユーロモニターによると、2015年11月にパリで起きた事件の影響で、2016年の訪フランス外客数は前年比5%減、8440万人から8000万人に減少。さらに同社暫定データによると、パリへの外客数は4%以上減少したとのことです。
一方、太平洋戦争時に、日本ではどのような考え方が称揚されていたでしょうか。戦時中には、戦果がメディアを通して発表されました。ラジオ発表では、放送前後などに陸軍発表では陸海軍合同の戦勝発表では『敵は幾万』、敗戦発表では『海行かば』といった楽曲が流されたということです。 大本営による戦果発表の前後に流された「敵は幾万」という歌詞の三番は次のようになつています。
「破れて逃(に)ぐるは国(くに)の耻(はじ)
進みて死(し)ぬるは身(み)の誉(ほま)れ
瓦(かわら)となりて残る(のこる)より
玉(たま)となりつつ砕け(くだけ)よや 」
それで、戦争に負けて逃げるのが恥とされ、進んで死ぬことが誉れあることであるという国民教育が組織的に行われました。
また、敗戦発表の時に流された「海行かば」という曲は、次のような意味の歌詞がついています。
「海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない」
つまり、殺人をして天皇のために戦って、死ぬことが美しいことで反省はしないという意味です。わたしは、正しいことを守るために、命を犠牲にすることは正しいことだと思いますが、天皇を崇拝して殺人をして死ぬのは、正しいことでも、美しいことでもないと思います。
こうした考え方のために、日本人は、日本国民が大勢犠牲になり、国土が焦土になつても、戦闘を続けるべきであるという考えが吹きこまれました。また、戦争のため殺人をして死ぬことが「玉砕」として美化されました。それで、こうした国民教育のために終戦は遅くなりました。
大本営発表の前後に流された歌は降伏を恥とし死ぬまで戦うことが美化されていた
そのためもあり、連合国軍が攻撃してきて、日本人に降伏を勧める場合もありましたが、沖縄や中国のある地域では、降伏するのは恥だと考え方があったので、自決をしたグループも多かったのです。
そして、日本は終戦末期に日本中の諸都市を空爆で焼け野原にされ、原爆を二つ落とされるという経験をすることになりました。これは、日本が柔軟にもっと早く和平を求めていれば避けられていた事でした。または、戦闘で負け始めたならば、早期に降伏する方が、後々になって日本にとって賢明な決定でした。
それで、昭和天皇がもっと早期に降伏をするという決定をくだしておられたなら、日本は、悲惨な結果を刈り取ることを避けられたと思います。そして、富を保全していれば、戦後の復興はもっと早く、さらに経済的な繁栄を維持できるという結果になったと思います。
降伏するのではなく死ぬまで戦うのが美しいという美学のために日本の惨禍ははなはだしいものとなった