祈りを聞かれたわたしヨハネの経験と世界の苦難を緩和するための祈りの重要性
それで、寒くなってこのコートが着れるようにと祈りました。すると、季節外れに寒くなって雪が降って、そのコートをその時に着ることができました。エホバ神は信仰を持つ人々の必要を不信仰な人々の必要よりも優先されます。
でも、わたしも不完全ですから、若い時から、完全に神の基準に適合してきたわけではなく、今もそうであるわけではありません。でも、足りない部分は、キリストの贖いの犠牲に基づいて、エホバ神に罪の許しをお願いします。
イエスは複数の人の祈りが聞かれやすいことを次のように言われました。「地上にいるあなたたちのうちの2人が,どんな重要な事柄でも,同意して願い求めるなら,天にいる父によってその通りになります。」(マタイ18:19)
ふたりか三人の神に是認されたクリスチャンが祈る時に神はその祈り
を聞いてくださる
(2)2019年10月の台風19号について祈りが聞かれた経験
追記をします。2019年台風19号が10月12日に日本全体、とりわけ関東地方に向かっていました。大型の勢力の強い台風ということになっていて、最大風速が最初は50kmはあり、最大瞬間風速は、最初は75kmくらいだったと思います。それで日本全体に壊滅的な打撃を与えることが心配されていました。
スピードがのろくて30kmでした。それで、ネットの気象情報をチェックしながら何度も祈りました。
とりわけ、日本には過去のはなはだしい流血の罪と現在の不信仰と偶像崇拝の罪があるので、これからも私は日本人が創造者に信仰を持つよう努力をし続けますから、キリストの贖い犠牲を適用して、自分を含め日本人の罪を許して台風のダメージが大きくならないように祈りました。
いつも衛星画像をチェックしましたが、台風の勢力は少しずつ弱まっていきました。また、台風の雲の範囲は少しずつ小さくなっていきました。12日の夜は、メディアでは、一晩中雨が降り続けて、大変な雨量になることが心配されていました。
12日の夜は眠たくて早く寝ましたが、夜中に風が激しかったので、床で台風がスピードが速くなって雨雲と共に早く過ぎ去るようにと祈りました。たぶん、それが夜中の真夜中12時の前だったと思います。でも、その祈りは、すでにもう何度もしていました。
夜中2時半ころ起きると、外では雨も風もなかったので、ネットで気象庁のサイトを確認しました。
すると台風のスピードは55kmになっていました。そして、雨雲は関東地方以西からほとんどなくなっていました。夜中の13日12時16分には関東地方への大雨特別警報は警報に切り替えられていました。ですから、エホバ神はわたしの祈りを聞いてくださって台風がスピードを出して過ぎ去るようにしてくださったんだと思います。
台風はその時には、東北地方で豪雨を降らせていました。ですから、東北地方の人のためにも祈りました。
もちろん、今回も何らかの死者や家屋の被害や停電被害は出たと思います。でも、祈ってエホバ神をなだめてその助けを祈り求めたので、その災いは日本が壊滅するような極端なことにはならなかったと思います。
おそらく他にも祈った人々がいたと思います。このような経験は何度もしました。祈って台風がものすごいスピード、70kmか80kmくらいのスピード早く過ぎ去るということも何度かありました。それで、台風関係の祈りは、必ずだいたいある程度は聞かれます。でも、通常、おざなりな一度だけの祈りではだめで、何度も祈らなければならないです。
でも、このことは、不信仰な人は、認めないか、偶然だと考えたり、あるいはそれが起きたことは認めても、それでも、聖書とその神に反対すると思います。聖書の中で書かれていることは、人間社会の現実で、これは、聖書時代だけでなく、このわたしたちが住む現代にも起こりうることだからです。
というのは、1世紀もイエスがさまざまな奇跡を行われました。それで、エルサレムの宗教指導者たちは、イエスがさまざまな奇跡を行っていることを認めざるを得ませんでした。(ヨハネ11:47,48)
しかし、それでも、ユダヤ教の指導者たちは、物事を間違って推論して、信仰がマイナスになると考えて、イエスに反対し続けました。そして、最後には、イエスを杭につけて殺してしまいました。彼らは間違った推論をしたので、間違った行動をして、ユダヤの国に災いをもたらしました。
それで、これからも祈るとエホバ神は聞いてくださると思います。そして、わたしも人々が神への信仰を持つように努力をし続けると思います。でも、多くの人はやはり、起きたことを偶然だと考えたり、たとえ実際にそのようになったと考えても、信仰が自分たちにとって不利になると考えたりするんだと思います。
あるいは、他の人は神の律法を守って偶像崇拝や性の不道徳をやめて、神を認めて生活するのがいやなんだと思います。それで、ある人々は奇跡的なことが起こることを認めても、その背後におられる神を認めることをしないと思います。あるいは神が働かれたということを認めず、偶然にそうなったと考え続けられると思います。
どうしたらエホバ神に祈りを聞いていただけますか
(1)どうすればエホバ神との良い関係を築き祈りを聞いていただけますか
ペテロの命を救い事態を変化させた
エリヤは雨が降るように七度祈ったかもしれません
それで、祈りが聞かれるまで、辛抱強く何度も祈ることが必要です。簡単に一度だけ祈っただけでは聞かれないことがあると思います。その祈りに対するわたしたちの本気度も試されるでしょう。
聖書の神エホバはどのような神ですかーエホバに従うならどのような結果になりますか
エホバ神の導きや助けがない生き方をするのは、今の危機的な真っ暗な時代に、懐中電灯もなしに歩くことになぞらえられます。その生き方は、おおむね。死亡率が高いと思います。また、神からの将来の永遠の命の保証も得られません。聖書の神に信仰のない人々はそのような気の毒な生き方をしています。
-危険や落とし穴を避けることができる
人は必ず死にます
人間を崇拝しても頼れない
また、聖書は人間は死ぬと「土に戻る 」と述べています。(創世記3:19)ですから、死者に祈っても、何にもなりません。土に戻っている人は生きている人間のために何もすることができません。聖書の神は、人間が死んで神になったわけではありません。
永遠に生きておられる全能者
(4)エホバ神はサタンと悪霊の崇拝に反対される
サタンはアダムとエバから永遠の命を奪った人殺しで人間の幸福を願ってはいない
ヨハネの聖書の解釈の変更のために読者を動揺させたかもしれないことに対するお詫び
0world changing nations
ですから、どの国民であっても、北の王でも南の王でも、また、他の国家であっても、エホバ神ははなはだしい流血に反対され、その応報を受けるようにされるからです。(ローマ12:19)
0forgiveness for sins
それで、わたしが生きている間、聖書預言の研究に励んで、聖書の預言の意味をできるだけ解明し、できるだけ正確な預言の解釈にしたいと思います。
聖書はわたしたちの時代に聖書の知識が豊かに満ちあふれるようになると預言しています。ダニエル書には、「終わりの時」までに秘密にされていたことが、「多くの人」が「エホバの言葉」を求めて、巡り歩き,「真の知識が満ちあふれ」ることを預言しています。(ダニエル12:4。アモス8:12)
聖書は終わりの時に聖書に関する真の知識が満ちあふれることを預言している
子羊のような2本の角がある野獣である北の王がイランとトルコの連合国になる可能性について検討する
しかし、トルコの貿易関係を調べてみましたが、トルコは「小さな国民」によって支援されて、成長して「強大」になっているようにも見えません。(ダニエル11:23)それで、ダニエル11章にある北の王の特徴は、トルコに当てはまりません。
また、トルコが、米国に対する攻撃の先頭に立ち、成功するのでしょうか。しかし、現在のところ、トルコは親米国です。それで、現在のところ、トルコが米国に対する攻撃の先頭に立つとも、思えません。
イランには、現在のところ、啓示13章の前半の預言が成就しているようには見えません。それで、現在、啓示13章の初めの野獣の実体をわたしが取り違えているのかもしれません。まだ、北の王が登場する状況となっていないのではないかと思います。
啓示13章に基づいて北の王が二つの国の連合国家を形成する可能性
ダニエル11章によると聖なる所を汚す北の王が荒廃をもたらす像を据える
二本の角を持つ雄羊はメディアとペルシャの王を表わしていたので・・・
啓示13章の初めの野獣の実体と攻撃されるキリスト教の本拠地がどこかについての若干の解釈の変更
啓示13章には、前半と後半で二頭の野獣が登場します。今回の記事では、その「初めの野獣」に関する若干の解釈の変更を説明します。さらに、ダニエル11章に出てくる北の王が攻撃する「聖なる所」がどこになるかについて若干の解釈の変更も説明したいと思います。
(2)啓示13章の野獣を限定したEUあるいはNATOという解釈の方が現在の状況に合致しているのではないか
EUとNATOは密接な関係があります。そして、第二次大戦後に行われた国際紛争は、とりわけ、最近は、ダニエル7章の四つの古代帝国の領域で、しかも、その領域に存在する現代の諸国家によって行われることが多かったです。つまり、現代において、国際紛争はアメリカ主導で、NATOのメンバー国が加わって行われる場合が多くなっています。
ですから、啓示17章に登場する緋色の野獣が、EUもしくは、NATOであるという解釈の方が、それが国連軍であるという解釈よりも、より良く、この20世紀と21世紀初頭に行われた国際紛争の状況と合致しているのではないかと思います。
啓示13章に登場する初めの野獣はEUかNATOかGCCか
今回、啓示13章に登場する「初めの野獣」の実体を考え直しました。どのように考え直したのかを説明したいと思います。
ダニエル7章の四匹の獣はライオンのバビロン・熊のメディア・ペルシャ・豹のギリシャ・恐ろしい獣のローマとその派生国
それで、わたしは最初には、啓示13章に登場する野獣とは、歴史の中で、中東、ヨーロッパ、西アジア、北アフリカに登場してきた諸政府を、長い歴史を俯瞰してまとめて表しているのかと考えました。
ここで、解釈の変更をするので、申し訳ありません。ここで解釈の変更をすると、聖書預言の成就はまだ先になるということになるようです。
Maurice07EUはこれから啓示13章の初めの獣として発展していくだろうか
日本が太平洋大戦中に犯した流血の罪の神からの許しと被害者からの許しをどのようにして得られるか
わたしたちの祖父や父親の時代に、日本は、日中戦争や太平洋戦争で、何百万人、ひょっとすると何千万人ものアジアの人々の血を流しました。わたしは、日本人が、自分たちの父祖によって流されたアジアの人々の血の罪が命の与え主に対する罪であり、その罪を神に対して、また被害者に対してどのように償えるかを考えるべきだと思います。
(わたしは韓国との領土問題についてはまだ考えていないのですが、この動画が戦争犯罪について述べることをアジア人の視点から考えてみるべきなのは正しいと思います)
地上の王たちは、自国に何らかの災いが及ぶ場合に、自分たちの父祖の罪の応報が及んでいる場合があるかもしれないことを考慮する必要があると思います。
その理由のひとつは、日本人の先祖が行なった罪が、神の目にまだ残っているために、聖書の神は、日本人が戦後、ほとんど流血の罪を犯していないにもかかわらず、さまざまな災いをこうむることを許しておられるのではないかと思います。
しかしながら、少なくとも、国家に災いが起きている場合、それを緩和するためには、エホバ神中心に解決したら良いことをこの事例は示しています。
預言者ヨナの時代に、ニネベの王は、神を恐れてその流血を悔い改めため、自国の国民にも悔い改めることを勧めたために、ニネベの滅びは何百年も延期されることになりました。(ヨナ3:5-10。ルカ11:32)
ヨナが宣べ伝えることを聞いてニネベの王が悔い改めたのでニネベの滅びは延ばされることになった
自国が経験する災いをどのようにみなして北と南の間との抗争から離れていることができますか
わたしたちは自国が経験する災いをどのようにみなすことができますか。国家はさまざまな天災を経験したり、他国からの軍事攻撃を受けることがあるかもしれません。そうしたことがなぜ起こることをエホバ神は許されるのでしょうか。それをどのように考えて、北の王と南の王の間の抗争から離れていることができるでしょうか。
(1)流血を避けて北と南の間の抗争から離れているように勧める地上の王たちに対する聖書の助言
南の王との同盟国の地上の王たちは、どのように行動するのが最善の結果をもたらすのでしょうか。啓示18章では、地上の王たちが大娼婦と性的な不道徳をすることをとがめられています。(啓示18:3)地上の王たちが大娼婦と性的な不道徳をするということは、 軍事同盟を結んで、共に軍事行動に携わることを意味しています。
left to right, a Qatari F-1 Mirage, a French F-1C Mirage, a U.S. Air Force F-16C Fighting Falcon from the 401st Tactical Fighter Wing, a Canadian CF/A-18A Hornet and a Qatari Alpha Jet, during Operation Desert Shield.
諸政府が共同軍事行動をとることは神の目に淫行とみなされる
もし、南の王と共に軍事同盟を結んで、北の王や、関連諸国を軍事攻撃して、地上の人々の命を奪うならば、人間の命の与え主エホバ神の不興を買うことになります。
エホバ神はこのように言われています。「人が自分の兄弟の命を奪ったなら,その人に責任を問う。人を殺して人の血を流す者は,人に殺されて自分の血を流すことになる。」 (創世記9:5,6)
神の目に貴重な人間の命を奪うならば、エホバ神はそうしたことを行う国家に不興を覚えられて、さまざまな仕方で、その国家が災いを経験するようにされるでしょう。人間の命を奪うならば、人間の命の授与者エホバ神の不興を買うことは避けられないのです。
例えば、多くの諸国家が湾岸戦争やイラク戦争の時に米国と共になって中東諸国家に対する戦争に加わりました。その結果、多くのヨーロッパ諸国は、イスラム国によるテロを経験しています。イスラム国によるテロは、もちろん、正しいことではないとは言え、ヨーロッパ諸国が流した血についてのエホバ神の応報であるとみなせます。
わたしたちは聖書の神を崇拝し、その是認を得ようと願うならば、南の王を恐れて南の王に盲従して共に軍事行動をすることを避ける必要があります。そうしなければ、地上の王たちは、北の王から攻撃されて南の王と共に命を失う結果にもなりかねません。
また、反対に北の王が成功するにしても、北の王に盲従して、南の王に対する軍事行動に共に携わらないことが必要です。北の王に盲従するならば、北の王と共に、「第二の死」すなわち復活のない永遠の滅びをこうむることになるからです。(啓示13:8;20:15)南の王、北の王、どちらに盲従する立場も、神からの救いをもたらしません。
とりわけ、聖書は、大患難を生き残る「地上の王たち」に南の王が滅びる時に、同情して嘆くほど、南の王と良い関係を追い求める立場を勧めているように思います。
なぜなら、北と南の王との間の最後の争いである大患難を生き残るのは良い結果だからです。しかしながら、南の王との良い関係を追い求めることが勧められることではあっても、「離れたところに立つ」こと、北と南の間の抗争から距離をとって離れていることが求められます。(啓示18:10,15,17)そうしなければ、その抗争に巻き込まれて命を失う結果になるからです。
(2)国家が犯した流血行為の報いはどのようにしてもたらされるか
エホバ神はある人や国家がもたらした罪を後の時代になって応報をもたらされることがあります。民数記には、エホバ神に関してこのような描写があります。「罪がある人を処罰しないことは決してなく,父の過ちに対する処罰を子や孫やひ孫に及ぼす神」(民数記14:18新世界訳改訂版)
ですから、確かに、エホバ神は個人の罪に関しては、その個人の罪に応じて扱われますが、国家の罪に関しては、その子孫にもたらされる場合があります。イエスは、アベルから祭司ゼカリヤまでの流血の罪が、イエスの世代に求められると言われました。(マタイ23:35)ですから、神の人に対する応報が何百年も後になってもたらされたことになります。
アベルから祭司ゼカリヤまでの殺害に対する責任を神は何百年も後になって一世紀に問われた
神は国家に対する責任を子供や孫の時代に問われるかもしれない
確かにある国家によって多大な血が流された場合に、その流血の被害者になった国の人々の子孫は、何世代にもわたってその国家に恨みを抱いているということがよくあります。祖父や親は自分たちが経験した苦難を子供や孫に話して、ある国家に対して子供や孫がずっと悪感情を持ち続けるということがあります。そのため、両国の関係が改善されないで、後の世代になってから両国で戦争が起こるという場合もあります。ですから、父祖の罪に対する応報が子供や孫やひ孫の世代に来る場合があります。
なぜなら、過去に流した人の血に関して、エホバ神は当然の応報をもたらされ、北の王、あるいは南の王、あるいは地上の王たち、いずれであっても、「流血」の国家に対して、エホバ神は責任を問われるからです。(ナホム3:1)
ハバクク書では、アッシリアと思われる「流血の都市」の「レバノン」で表わされたエルサレムに対する「暴力」と「血」のためにエホバ神は「カルデア人」を起こされると述べられています。(ハバクク2:12,17)ですから、アッシリアの流血に対する報いは、レバノン、すなわちエルサレムを首都とするユダ王国によってもたらされるのではなく、その当時の世界強国であった「カルデア人」、すなわちバビロンによってもたらされました。
アッシリア人の流血と暴力の罪に対しては・・・
バビロニア帝国(緑)が台頭してアッシリアを滅ぼすようにすることによって神はアッシリアに責任を問われた
そのエホバ神からの応報は、必ずしも自国の軍隊が殺害した国家によってもたらされるのではなく、北の王、あるいは南の王によってもたらされるかもしれません。あるいは他の形、天災という形で災いがもたらされる場合があるかもしれません。
(3)流血は命の授与者に対する罪で神はその罪を犯した人あるいは国家に責任を問われる
例えば、日本は太平洋戦争後、基本的に長年平和国家となっています。しかし、過去に日本は、残虐にもアジアで多大の流血行為を行いました。何百万人、何千万人もの人々の血を流したと言われています。その罪は、エホバ神の目にとても、悪いことでした。本当は、日本人が殺害した人々の国家が復しゅうのために日本に戦争をしかけたとしても、不思議ではありません。
しかし、エホバ神は、過去に日本人が行なった流血を何もなかったことのように、ただ単に見逃すということはされません。上で述べたように、エホバ神は、人間の命の血が流されると、その血を流した人の命を求めることによって、責任を求められます。(創世記9:5,6)また、「私たち一人一人は,神に責任を問われることになるのです。」という言葉もあります。(ローマ14:12)
ですから、国家の流血は、人間の命の授与者に対する罪です。もし、わたしたち各自が流血の罪を犯すならば、エホバ神は、その国家、また、一人一人に対して命の血を流した責任を問われます。
エホバ神は・・・
地上の命の授与者であられ流血を行う国家や個人に対して責任を問われる
それで、現在、その罪の報いである災いがその子供や孫である日本人の子孫にさまざまな形で及ぶということもあると思います。キリスト教国家であるかどうかは関係がありません。日本のように主に仏教や神道を奉ずる国家であっても、エホバ神は流血の責任を問われます。キリストの贖いの犠牲に頼って罪の許しをエホバに求めるのでなければ消えないでしょう。
キリストの贖いの犠牲に基づいて・・・
エホバ神に罪の許しをお願いすることができる
聖書に、「私たち一人一人は,神に責任を問われることになるのです。」とあります。(ローマ14:12) ですから、国家の流血は、人間の命の授与者に対する罪です。もし、わたしたち各自が流血の罪を犯すならば、エホバ神は、その国家、また、一人一人に対して命の血を流した責任を問われます。キリスト教国家であるかどうかは関係がありません。日本のように主に仏教や神道を奉ずる国家であっても、エホバ神は流血の責任を問われます。
民族の記憶というのはなかなか消えないものです。ですから、地上の王たちは、自国に何らかの災いが及ぶ場合に、自分たちの父祖の罪の応報が及んでいる場合があるかもしれないことを考慮する必要があると思います。
さらに、地上の王たちは、自国が災いを経験する場合に、まず第一に自分とエホバ神との関係はどうなっているかを吟味する必要があると思います。国家の代表者としての王や大統領や首相の神との関係は、その国家の現在と将来にとても大きな影響を及ぼします。
イスラエルの時代も、国民全体はかなり悪くなっていましたが、ユダの王ヒゼキヤの祈りをエホバ神が聞かれて、国家的な苦難を乗り越えたことがありました。それで、国家の指導者の神との関係は、その国家の状況に大きな影響があります。
エホバ神が不興を覚えられる偶像崇拝を行って、エホバ神が自国に関する自分の祈りを聞かれない状況を造り出していないでしょうか。
エホバ神に祈りを聞いていただくためにはあらゆる偶像崇拝を避ける必要があ ります
その場合、エホバ神に祈って贖いの犠牲に基づいて、エホバ神の罪の許しを求める必要があります。さらに、自国の国民に対しても、エホバ神との良い関係を追い求めて祈るように勧める必要があるかもしれません。
預言者ヨナの時代に、ニネベの王は、神を恐れてその流血を悔い改めため、自国の国民にも悔い改めることを勧めたために、ニネベの滅びは何百年も延期されることになりました。(ヨナ3:5-10。ルカ11:32)
ヨナが宣べ伝えニネベの王が悔い改めを国民に勧めたので神からの災いはニネベにすぐには及ばなかった
(4)終わりの時に住む神の民に勧められている生き方
聖書は、終わりの時に住む神の民が、南の王からも北の王からも迫害を受け、さまざまな仕方で命を落としてしまうことを予告しています。大娼婦南の王は、聖なる人たちの血に酔うことが預言されています。(啓示17:6)それは、おおむね、軍事的な紛争に巻き込まれる仕方で行われるはずです。
大いなるバビロンは聖なる人たちの違反のためにその血に酔うことになる
さらに、北の王が南の王を滅ぼすまでは、成功することになっていて、全世界で崇拝を受けることになることを予告しています。しかし、聖書がわたしたち神の民に勧めていることは、例え、南の王によって神の民が命を奪われているとしても、北の王が南の王を攻撃し滅ぼすことに成功するとしても、北の王の崇拝者となって剣をとって戦って南の王に復しゅうする者とならないことです。
なぜなら、キリスト教徒であっても、あるいは、どんな宗教を持っている人であっても、他の人々の命を奪うならば、その責任をエホバ神から問われることになるからです。ですから、わたしたちは他の人々の命の血を流した場合、神がその責任を問われる道具が北の王になったり、南の王になったりする場合があります。また、他の形で災いが臨むことがあるかもしれません。そして、それはエホバ神が過去に流された自国による血に関して責任を問われたとみなせる場合があります。
それで、自国が他国から軍事攻撃による災いを経験している場合、あるいは他の形での災いを経験していると考える場合、復しゅうをエホバ神に任せて事態の進展に任せることができます。
「愛する皆さん,復讐してはなりません。神の憤りに任せましょう。「『復讐は私がすることであり,私が報復する』とエホバは言う」と書いてあるからです。」(ローマ12:19新世界訳改訂版)私たちが剣をとってその国家に復しゅうしなくても、エホバ神は流血を行う国家に対していずれかの形で、その応報を受けるようにとりはからわれるからです。
エホバ神は人の命の血をとても貴重なものとみなしておられるので、わたしたちがその点で神からの憤りと復しゅうを招かないようにする唯一の方法は、ひとえにキリストの贖いの犠牲に頼ることです。(啓示7:14。ヨハネ第一2:2)
そして、聖書はこのように勧めています。「できる限りのことをして,どんな人とも平和な関係でいるようにしましょう 」(ローマ12:18)この言葉は国家間の関係にも個人間にも当てはめられると思います。平和な関係を追い求めるならば、平和な良い結果を刈り取ることができます。聖書は「平和を作りだす」ことができると述べています。(ヤコブ3:18)
ですから、私たちがエホバ神の是認を得て、救いを得たいと願うならば、人間よりも神に従う必要があります。(使徒5:29)すなわち、「復しゅう」は神に任せて、殺人を避けて平和を追い求め、エホバ神の是認された崇拝者としてとどまるよう努めましょう。(ローマ12:18,19)
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(34)真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンはどのように不法な者の精神を避けること… https://t.co/rR6IGfzZbk #r_blog
— ヨハネ (@littleyohane) 2019年9月1日
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(34)真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンはどのように不法な者の精神を避けることができるか
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(1-2)モーセの権威が表わしていたのは統治体ではなくイエス・キリスト
エホバの証人の統治体の兄弟たちは、荒野で反逆したイスラエル人を裁いたモーセの権威を持っていると主張されています。そのために、統治体の兄弟たちや、統治体によって任命された長老たちの権威に従わなければ、エホバ神に裁かれてしまうと示唆されます。
しかし、先回の「イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(1)統治体はモーセの権威を持っていますか」の中で、モーセのような預言者は、イエス・キリストであって、私たち霊的なイスラエル人はとりわけ、イエス・キリストの権威に従わなければ、イエスに裁かれてしまうことを説明しました。
今回の記事では、イエスはモーセのようにどのようなクリスチャンを裁かれることになるのかを説明したいと思います。イエスが啓示の書の中で、霊的なイスラエル人の七つの会衆に語っておられる音信を検討したいと思います。
(1)統治体がイエスの右手にある七つの星とは天的な希望を持つ長老たちを表しているという解釈は正しいですか
エホバの証人の統治体は、七つの会衆に対するイエスの音信に関連して、イエスの右手にある七つの星とは、とりわけ、長老でなる天的な希望を持つクリスチャンを表しているとみなしています。(啓示1:16新世界訳改訂版)そのために、エホバの証人の統治体は、イエスの完全な制御下にあるのは、ご自分たち、聖霊で油そそがれたクリスチャンの長老たちであり、ご自分たちに従うことを求められます。
イエスの右手の上の七つの星とは天的な希望の長老たちですか
では、まず、七つの会衆とはどのような実体を表していたでしょうか。イエスは、「主の日」に、天的な希望を持つクリスチャン全体に語られました。(啓示1:10新世界訳改訂版)そして、その中で、七つのタイプの会衆に対して語られています。七つの会衆とは、「主の日」の男性も女性も含む天的な希望を持つクリスチャンたちで構成されています。(啓示1:5,6新世界訳改訂版)
七つの会衆とは主の日の天的な希望を持つ男女を含むクリスチャン会衆を表す
例えば、テアテラ会衆には、「かの女イゼベル」のような女性のクリスチャンが含まれていたので、七つの会衆の成員の中に女性も含まれていたことが分かります。(啓示2:20)
七つの会衆の成員にはテアテラのイゼベルのような天的な希望の不忠実な女性の成員も含まれている
そして、イエスは、「七つの星は七つの会衆の使いたち」を表すと言われています。(啓示1:20新世界訳改訂版)証人たちは、イエスは、「七つの会衆の使いたち」を通して、七つの会衆の個々の成員に音信を伝えているとみなしています。そして、統治体は、七つの会衆の使いたちとは、聖霊で油そそがれたクリスチャンの長老たちを表すとみなしています。
(2)啓示の書のイエスの右手にある七つの星また七つの会衆の使いたちとは誰ですか
ところが、七つの星、すなわち七つの会衆の使いたちとは、男女を含む天的な希望を持つクリスチャンであるということが、聖句を検討すると分かります。
イエスは、エフェソス、スミルナ、ペルガモン、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキアにある会衆の使いに語りかけておられます。(啓示2:1,8,12,18;3:1,7,14)そして、どの会衆の使いたちにも、「あなた」と呼びかけて、それらの会衆の状況を知っていると述べられています。
さらに、イエスは、その会衆の使いたちに対して、忠実であることを励まされて、もし、忠実であれば、 その人に「私の神の名と,私の神の都市すなわち天の神のもとから下る新しいエルサレムの名と,私の新しい名 」を記すと約束されています。(啓示3:12)
ですから、七つの会衆の使いたちに差し伸べられているのは、「新しいエルサレム」の一員になるという希望、つまり、天的な希望です。ところで、天的な希望を差し伸べられるのは、長老だけ、また、男性だけではありません。会衆の一成員に過ぎない女性も天的な希望を差し伸べられて、「新しいエルサレム」の構成員になるという将来の希望を持っています。
七つの会衆の使いたちには聖なるエルサレムの構成員になるという希望が差し伸べられる
会衆の使いたちは天的な希望を持つ男女のクリスチャンを意味する
ですから、イエスの右手の上にある「七つの星」また、「七つの会衆の使者たち」とは、七つの会衆の一部の成員を表しているわけではありません。
「7つの金のランプ台」で表わされる七つの会衆とは、天的な希望を持つクリスチャンたちを組織を全体的に表現しています。(啓示1:12新世界訳改訂版)
一方、イエスの右手の上にある「七つの星」と、「七つの会衆の使者たち」とは、男女を含む天的な希望を持つ個々のクリスチャンたちを表しています。(啓示1:20新世界訳改訂版)そして、イエスは、会衆の使いたちを通して、会衆の成員に語っているというよりは、会衆の使いたち自身に、音信を伝えているというのが正しいです。
イエスは右手の上の七つの星つまり七つの会衆の使いたちに対して音信を伝えられた
七つの会衆の使いたちとは天的な希望を持つ忠実また不忠実な男女のクリスチャン
(3)七つの会衆の使いたちは性別や長老であるかどうかにかからわずイエスに忠実であることが求められている
しかしながら、七つの会衆の天的な希望を持つクリスチャンがすべて、天的な希望をとらえるのではありません。イエスは、「忠実」であるなら、神の王国に入ることができると約束されています。(啓示2:10新世界訳改訂版)ですから、男女にかかわらずイエスの指示に従って忠実を保つ天的な希望を持つクリスチャンだけが天的な希望を捕らえることができます。
その点で、男性も女性もありません。パウロは、イエスの体を構成する成員としては、「男性も女性」も平等の立場にあると述べています。(ガラテア3:28新世界訳改訂版)そして、「家令に求められるのは,忠実であること」だと述べられています。(コリント第一4:2新世界訳改訂版)
長老であること、男性であることが求められているのではありません。男女とも、第一にイエスに忠実であることが求められています。たとえ、男性であっても、長老であっても、イエスの命令と指示に不忠実ならば、神の王国に入ることはできません。ですから、大切なのはとりわけイエス・キリストに忠実であることです。
このことを考えてみても、イエスがただ単に、聖霊で油そそがれたクリスチャンの長老たちだけを用いて通して、会衆の成員に音信を伝えたとは考えられません。イエスは、男女を含む聖霊で油そそがれたクリスチャンの個々の人に音信を与えたとみなすのが妥当です。
(4)イエスはどんな聖霊で油そそがれたクリスチャンを否認されますか
イエスの権威に逆らうならば、荒野でモーセの権威に逆らったイスラエル人のような経験をすることになるでしょう。では、イエスは啓示の書の中のアジア地区の七つの会衆にどのようなクリスチャンに敵対すると言われたでしょうか。
それは、まず「初めの頃に抱いていた愛を失った 」者、「忠実であり続け」ることを死に直面してやめてしまう者です。(啓示2:4,10新世界訳改訂版)
さらに、「偶像に犠牲として捧げられた物を食べ,性的に不道徳な行為をする 」者、「ニコラオ派の教えを固く守っている 人」です。(啓示2:14,15新世界訳改訂版)ですから、神の律法に違反する者は否認されるでしょう。さらに、個人に従うことを強調し過ぎて、神の言葉から離れてしまう者を否認されるでしょう。
また、「性的に不道徳な行為をさせ,偶像に犠牲として捧げられた物を食べさせて」いる「あのイゼベルのような女性を容認している」者です。(啓示2:20新世界訳改訂版)さらに、「サタンの奥深い事柄」を 「知るように」なる者、すなわち、神の律法に違反する者です。 (啓示2:24新世界訳改訂版)
また、「生きているといわれていますが,実は死んでい る」者、「行い」が「神から見て十分であるとは言えない」者、「生ぬるく,熱くも冷たくもない」者など、すなわち、クリスチャンの責務に不熱心な者です。(啓示3:1,2,16新世界訳改訂版)
以上のような神の律法を守らない者、愛を示す努力をしない者、クリスチャンの責務を果たすことをなおざりにする者たちは、イエスの権威に逆らっています。そのような者たちは、昔、モーセの権威に反逆した者たちになぞらえられます。
昔神はモーセを用いて反逆者たちを裁かれました。同じようにイエスは、エホバの代表者として、以上のようなタイプのクリスチャンたちに対して敵対されます。
(5)イエスはご自分に不忠実な天的な希望のクリスチャンにどのように敵対されますか
モーセは神と自分の権威に不忠実であったイスラエル人に裁きを執行しました。では、イエスはご自分の権威に不忠実な天的な希望のクリスチャンにどのような形で敵対されるでしょうか。
そのようなクリスチャンたちに対しては、イエスは、「ランプ台を取り去り 」、「口から出る長い剣 」で「戦い」、「病気にならせ 」、「姦淫をしている人たち 」を「大きな苦難に遭わせます。」また、「死に至る病気によって殺します 」(啓示2:5,16,22,23新世界訳改訂版)
また、イエスが、「必ず泥棒のように来」る時に不意を打たれるでしょう。(啓示3:3新世界訳改訂版)また、イエスはそのようなクリスチャンを「口から吐き出」します。(啓示3:7新世界訳改訂版)
すなわち、イエスは神の王国に入るという特権を不忠実なクリスチャンから奪います。さらに、聖書の言葉を用いてそれらのクリスチャンと戦います。さらに、それらのクリスチャンが霊的また身体的な病気にかかることを許されるかもしれません。
さらに、「大きな苦難」に巻き込まれて命を失うようにされます。さらに、イエスが天で王になられる時に、不意を打たれ、準備ができていないために、やはり、神の王国に入ることができないでしょう。
そして、このことは、昔、イスラエル人がモーセの権威に逆らった時に、さまざまな神からの裁きを受けたことになぞらえられます。ですから、モーセの権威に逆らった不忠実なイスラエル人が神の裁きを受けたことは、今日の不忠実な聖霊で油そそがれたクリスチャンが、イエスの権威に反逆するならば、イエスから神の王国の特権を奪われ、「大きな苦難」に遭わせられ、霊的・身体的な病気にかかるという形で、裁かれることを意味しています。
基本的に、荒野でモーセの反逆して裁かれたイスラエル人の事例は、わたしたちが第一にイエス・キリストの権威に従わなければどんなことが起こるかを示しています。
啓示の書は、イエスの権威に敵対する者たちが、荒野のモーセの権威を認めなかった者たちが、災いをこうむったように災いを経験し、命さえ失うことを述べています。ですから、エホバの証人の統治体の兄弟たちは、確かに神の言葉から語って神の律法に従うように勧めておられますから、その言葉に従わないなら、災いをこうむることもあるでしょう。
しかしながら、第一の権威は、イエス・キリストにあります。ですから、他の天的な希望のクリスチャンや大群衆のクリスチャンが神の律法に従いながら、神の言葉に基づいて論じている場合、その人は、統治体と異なることを語っていても、イエスの言葉に従っていれば、神とイエスの不興をこうむって、神とイエスの是認を失うと言うことはありません。
イエスはみ言葉聖書によって語られ権威を行使されます
統治体と論じていてもイエスの権威に従って聖書から論じていればイエスの是認を失うことはありません
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(1-1)モーセの権威を持っているのは統治体ですかそれともイエス・キリストですか
エホバの証人の統治体は、大会でも、ものみの塔の研究記事の中でも、ご自分たちの権威を強調なさいます。そのことを裏付ける聖書的な根拠として、荒野でイスラエル人を導いていたモーセとアロンの権威に逆らった一部のイスラエル人が、神罰で命を失ったことを挙げます。(民数記31:31-35)
昔反逆者を裁いたモーセの権威は誰の権威を表していましたか
ご自分たちの権威は、その当時のモーセとアロンの権威を表していると考えておられます。そのために、ご自分たちの権威に逆らうならば、エホバ神の不興をこうむり裁かれることになると主張しておられます。
では、その当時、荒野で起きた一部のイスラエル人の反逆に対するエホバの対応は何を予示していたのでしょうか。わたしたちは、そのことから、どのような教訓を得られるのでしょうか。今回、シリーズで考えてみます。
最初は、エホバの証人の統治体の兄弟たちが持たれる権威は、゜荒野で反逆したイスラエル人を裁いたモーセが持っていた権威と同じ権威を持っていると言えるかという点を検討したいと思います。
モーセの権威は誰の権威を表していたのでしょうか。申命記の中では、モーセのような預言者を立てることが預言されていました。神はそのモーセのような預言者がエホバの「名によって話す」言葉に「従わない人に責任を問う」と言われました。(申命記18:18,19新世界訳改訂版)
不従順のために責任を問われたクリスチャンは、命を失うことになるでしょう。それで、エホバ神は、モーセのような預言者に民の従順を求める権威を与えることを予告されていました。
モーセのような預言者とは誰でしょうか。それは、イエス・キリストです。モーセは古い契約の仲介者であり、イエス・キリストは、「新しい契約の仲介者」です。(ヘブライ9:15新世界訳改訂版)ですから、モーセのような権威を与えられているのは、イエス・キリストご自身です。
新しい契約の仲介者であるイエス・キリスト
イエスはクリスチャン「会衆という体の頭」としての立場にあります。(エフェソス5:23新世界訳改訂版)ですから、わたしたち、とりわけ、天的な希望を持つクリスチャンたちが、第一に従わなければならないのは、一部の天的な希望を持つクリスチャンたちに対してではありません。イエス・キリストご自身に第一に従わなければなりません。
(2)荒野のイスラエル人は新しい契約に入る霊的なイスラエル人を表していた
では、荒野にいたイスラエル人は、将来のどんな実体を表していたのでしょうか。イスラエル人は、シナイ山でモーセの律法契約、いわゆる古い契約を与えられました。イスラエル国家は肉のイスラエル人で構成されていました。そして、イスラエル人は、その当時神と古い契約を結んでいました。
そして、イエス・キリストは、新しい契約の仲介者になられました。(ヘブライ9:15新世界訳改訂版)新しい契約を神と結ぶ民とは、イエスを仲介者として神の王国に入る希望を持つ多国籍のクリスチャンたちです。(ルカ22:20)
それで、荒野にいた古い契約に入っていたイスラエル人が表していたのは、イエス・キリストの到来後、新しい契約に入る天的な希望を持つクリスチャンたちを表していました。
古い契約であるモーセの律法契約に入った肉のイスラエル人は・・・
上記はイメージ画像
イエスを仲介者としてエホバと結ばれる新しい契約に入った多国籍のクリスチャンを表す
ですから、今日の天的な希望を持つクリスチャンと地的な希望を持つ大群衆が第一に従わなければならないのは、特定の聖霊で油そそがれたクリスチャンではありません。昔のイスラエル人がモーセの権威に従わなければならなかったことは、とりわけ、天的な希望を持つクリスチャンたちが、イエス・キリストの権威に従わなければならないことを意味しています。
新しい契約に入るクリスチャンたちはまず第一に人間ではなくイエス・キリストの権威に従わなければならない
ですから、反逆者を裁いたモーセによって表わされていたのは、イエス・キリストです。エホバの証人の統治体が、モーセによって予示されていたのではありません。
エホバの証人の統治体の兄弟たちも、霊的なイスラエル人に含まれています。ですから、荒野でモーセの権威に逆らって裁かれたイスラエル人のようにならないように、気をつけなければならない立場にあります。
エホバの証人の統治体の兄弟たちを含めて天的な希望を持つクリスチャンたちは、イエス・キリストの権威に第一に従わなければならず、イエスの権威に反逆するならば、荒野のモーセの権威に逆らったと同じことが起きることになります。イエスがモーセのような預言者だからです。
それで、次回は、わたしたちが霊的なイスラエル人としてイエス・キリストに裁かれてしまわないようにどんな点に気を付けなければならないかを検討したいと思います。
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(33)イエスの兄弟たちは力ある業を行っていても不法を避けなければならない
(1)真正な油そそがれたクリスチャンには不法を避けていることが求められる
エホバ神の真の崇拝者である真正な油そそがれたクリスチャンの場合は、そのクリスチャンが「不法」つまり、「罪」を退けていることが必要です。(ヨハネ第一3:4)
現代は、聖書に対する信仰や信頼が弱くなっています。また、聖書の神とその律法を無視して、自由に生きたいと願う人も数多くいます。また、聖書が述べる事、聖書の預言が気に入らないという人も多いです。ですから、人々は聖書が広められることを気に入らないかもしれません。しかし、一般の人々に不人気であったとしても、不法、つまり罪を退けることを唱道することが求められます。
つまり、淫行、殺人、偶像崇拝、心霊術、悪魔崇拝、盗み、飲酒などの神の律法に違反する業を断固として退ける努力を払うことが必要です。(啓示21:8)また、そのことが神から求められていることを人々に教えることが必要です。
ある人がエホバ神の選ばれた者であり、イエスの霊的な兄弟であると主張していても、その人が婚前交渉、不倫、同性愛などの性の不道徳や殺人や流血、また、偶像崇拝を行っていれば、その人は、エホバ神から是認されている油そそがれたクリスチャンではありません。聖書は「偽キリスト」が存在すると述べています。(マタイ24:24新世界訳改訂版)
不倫などの性の不道徳などの罪を犯すならその油そそがれた者はイエスから退けられてしまう
最初に述べたように、わたしヨハネは、神の律法に違反することは避けるように努力を払っています。エホバ神とイエス・キリストに是認されるように性の不道徳や偶像崇拝、心霊術、悪魔崇拝などの神の律法違反に陥らないように努力を払っています。
聖書の預言は、エホバ神の律法と結びついています。世界で、災いとなるある出来事が起きることになる原因のひとつは、政治指導者たちや宗教指導者たちや一般の人々が、神の律法に違反するために起きます。ですから、聖書中にある否定的な災いは、神の律法「違犯」のために起きます。(ダニエル8:13)そのためにも、エホバ神に是認される聖霊で油そそがれたクリスチャンは神の律法の遵守が求められます。
(6)強力な行いやしるしがイエスの是認を証明するか
油そそがれたクリスチャンが行なう強力な行いやしるしには、さまざまな種類のものがあると思います。それは、はなばなしいもので、人々の注意を引くものかもしれません。そして、聖書によるとそれは、多くの人々を死に至らせたり、あたかも天から火を降らせたりというような種類の人々の注目を集める出来事かもしれません。(啓示13:11-13)
しかし、多くの人々の注目を集めること自体が、エホバ神の是認を証明しません。キリスト教会が是認している奇跡の中には、非常に大勢の人が目撃した奇跡などもあります。カトリック教会が公認しているようなファティマの聖母の奇跡などのように大勢の人が見た奇跡もあります。けれども、こうした奇跡は大勢の人々に目撃されたとしても、それ自体が聖書の神の後ろ盾を証明するものとはなりません。
さらに、聖書は悪魔が天から火を下らせることができることを示しています。(ヨブ1:16)子羊のような二本の角のある野獣は、「大きな奇跡を行い,人類の前で火を天から地に降らせることさえする。」と預言されています。(啓示13:13)しかし、 その野獣は、「偽預言者」と呼ばれます。(啓示19:20)
ですから、その業が人目を引くものであっても、人々の命を奪ったり、世界の環境を破壊したりというものであれば、それは、聖書の神の是認を得ているとは言えません。
しかしながら、それらの油そそがれたクリスチャンによって行われる行いが人々を助けるものであったり、信仰の仲間や一般の人々に対する愛や親切を表わすものである時、それは確かに、それがイエスの是認を得ていることを示すものにはなり得ます。イエスは、ご自分の弟子たちに、仲間同士愛し合うように、また、他のすべての人に良いことを行うことを奨励されたからです。(ヨハネ18:34。テサロニケ第一5:15)
そして、良い木か悪い木であるかどうかは、その生じる実によって見分けられるとイエスは言われました。(マタイ7:17,18)ですから、ある油そそがれたクリスチャン、あるいはあるキリスト教の組織が行なっていることが、愛や親切や平和を産み出している時、それは、エホバ神とイエスの是認を得ていることを示すかもしれません。
しかしながら、そうした良い行いをする時に、上記で指摘したような神の律法違反を伴うことのないように努力する必要があります。例え、良い行いや「多くの強力な行い」をしていても、「不法」を働いているならば、否認される場合があると言われました。(マタイ7:21-23)ですから、良い行いをしている人たちが、神の律法に「故意に」繰り返し違反しているならば、エホバ神の是認が得られているとは言えません。(ヘブライ10:16)
でも、わたしたち人間は弱く不完全な罪人なので、誰もが罪を犯します。(ローマ3:23)故意に繰り返し行われる罪でない罪は、イエスの贖いの犠牲に頼って、エホバ神に罪の許しをお願いし、神とイエス・キリストに是認された状態を保つ必要があります。
ですから、この記事では、奇跡は真正な油そそがれたクリスチャンであることを証明するものとはならないということを説明しました。ある個人、あるいはキリスト教のグループが行なう強力な行いに関しては、識別力を働かせて、判断する必要があります。
その奇跡に見える業や力ある業が、まことの神とイエス・キリストの是認を得ているかどうかは、さまざまな条件を満たしている必要があります。その業が単に「強力な行い」であるだけでなく神の律法に調和して行われていることが求められています。
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(33)イエスの霊的な兄弟たちは奇跡では判断できない
神に是認される油そそがれたクリスチャンを見分けることは必要なことです。なぜなら、先回の記事にあるように聖書の中に示されているエホバ神やイエス・キリストの感じ方や言葉を考えると、天的な希望を持つことを表明するイエスの霊的な兄弟たちにふさわしい敬意を払った方がいいと思います。
表象物にあずかり天的希望を表明するクリスチャンにふさわしい敬意を表すのが正しい
彼らに親切に協力するかどうかで、将来永遠の命を受けるか永遠の死を受けるかが決まるからです。(マタイ24:45,46)
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(27)目立たない油そそがれたクリスチャンに親切にするかどうかで永遠の命かどうかが分けられる
わたしヨハネの場合、わたしにかかわるビジネスに巻き込まれているために、奇跡を行っているとみなされる可能性があると思います。しかしながら、それは、悪魔サタンや悪霊による奇跡ではないと思います。
わたしは、魔術やオカルトに関係した物品を持ってはいませんし、心霊術者や霊媒に相談に行ったりして、悪魔崇拝や悪霊崇拝に関わることは避けています。(使徒19:19。レビ19:31)また、偶像崇拝は避けています。 (コリント第一6:9,10)エホバ神ではなく、死者を崇拝することもしません。(伝道の書9:5)
ですから、ヨハネに関わるビジネスは、心霊術に伴う奇跡ではありません。わたしはこれがどのようにして行われるのか十分理解していませんが、何らかの最新現代科学が関係しているのではないかと思います。
今回の記事では、神とイエスに是認される油そそがれたクリスチャンを彼らが行なう奇跡や強力な業では判断できない事について説明したいと思います。
(1)イエスや初期クリスチャンたちは奇跡を行えた
一世紀には、エホバ神はある神の僕をご自分が是認されていることを聖霊によるさまざまな奇跡しるしで確証を与えられました。エホバ神は背後でイエスをさまざまな仕方で支援されました。(ヘブライ2:4)エホバ神は天からの言葉でイエスがご自分の子であることを語られたこともありました。(マタイ3:17)また、イエスが神の子であり、メシアであることを、さまざまな奇跡としるし与えて人々に示されました。(ヨハネ1:32-34;20:30。使徒10:38)
エホバ神はイエスが神の子であることを証しするために多くの奇跡を行う力を与えた
イエスの奇跡やしるしを見た人は、神の後ろ盾のある人でなければ、そのようなことを行えないと判断しました。(ヨハネ3:2;9:30-33)
さらに、イエスは十二使徒たちに病気の人をいやしたり、死者を復活させたり、悪霊を追い出す権威を与えました。(ルカ3:14,15。マタイ10:8)また、イエスは七十人の弟子たちにも、いやしや悪霊たちを制御する権威を与えたことが記されています。(ルカ10:8,9,19)
例えば使徒ペテロは病気で死んだドルカスをよみがえらせました。(使徒9:36-41)また他に、使徒パウロも奇跡を行えました。(ヘブライ2:4。使徒4:16;5:12;14:3;15: 12。コリント第二12:12)
エホバ神はペテロにドルカスをよみがえらせる力を与えてクリスチャンたちに対するご自分の支持を示された
そのようにして、エホバ神は、彼らに与えた奇跡やしるしによって、イエスの弟子たちがエホバ神の是認と後ろ盾を得ていることの証明をされました。
(2)エホバ神が奇跡を行う力をイエスやイエスの弟子たちに与えたのはなぜか
エホバ神がそのような奇跡を行う力をイエスやイエスの弟子たちに与えたのはなぜでしょうか。それまで、エホバ神はモーセの律法下にいた肉のイスラエル国民との契約関係を尊重しておられました。けれども、イスラエル国民は、背後に神がおられる証拠を豊富に示したイエスを殺害しました。(マタイ27:25,26)また、イエスの弟子たちのある者たちを殺害しました。(マタイ23:37,38。ヨハネ19:7)そのようにして、イスラエル国民はエホバ神を退けました。
イスラエル人は神の子イエスを殺したため神との契約関係を失った
そのために、神と肉のイスラエル人の間の契約で合ったモーセの律法契約は破棄されました。代わりに、イエスを仲介者とする新しい契約が神とイエスの弟子たちの間で成立することになりました。(エレミヤ31:31,32)それで、エホバ神は、その大きな変化をイエスと彼の弟子たちにさまざまな奇跡を行わせることにより、確証を与えられました。
古い契約は神とイエスの弟子たちの新しい契約に変えられた
神はこの大きな変化を奇跡によって確証された
奇跡やしるしがその当時、必要であった理由は他にもあります。一世紀当初は、まだ聖書全体が完成していませんでした。また当時は、聖書は希少な本で、みんなが十分手に入れることも難しく、また、科学も考古学も発達していないという状況でした。
そのために、イエスの弟子たちが効果的に宣教を行うために、彼らが奇跡を行えることが必要でした。
さらに、時間の経過と共に、奇跡的な聖霊の賜物は必要がなくなってきていました。ユダヤ教の体制から、キリスト教の体制へと移り変わったことは、イエスと初期クリスチャンに与えられていたしるしによって十分証明されたからです。 そして、イエスから奇跡を行う力と権威を与えられた弟子たちの死と共に、奇跡の賜物は、過ぎ去っていきました。
それで、聖霊による奇跡は過ぎ去ることが予告されていました。(コリント第一13:8-11)そのために、誰が本当に聖霊で油そそがれたクリスチャンであり、エホバ神の後ろ盾を得ているかは、一世紀のように誰かが行なう奇跡で判断することは基本的にできなくなりました。
そして、今日、エホバ神とイエス・キリストがご自分の是認される僕にどんなことを求められているかは、今まで出した記事でご説明しました。
イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(31)勘違いで表象物にあずかると証人から排斥されてコラのようにエホバから裁かれるというのは正しいか
(3)奇跡やしるしや強力な業は偽預言者も行えることになっている
今日、誰が神に是認された油そそがれたクリスチャンであるか判断する方法は一世紀と異なります。必ずしもそのクリスチャンが行なうしるしや異兆や不思議によって判断できないことを聖書は示しています。
イエスはご自分の名によって「預言し,・・・邪悪な天使たちを追い出し,・・・多くの強力な行い」をする人々を否認される場合があると言われました。(マタイ7:21-23)預言や悪霊を追い出すこと、多くの強力な行いは神に喜ばれるように見えるのに、このイエスの言葉は不思議です。
イエスは、そのようにしたある者たちに対して「不法なことをする人たち,離れ去りなさい」と言われます。(マタイ7:22,23新世界訳改訂版) このことは、真正な油そそがれたクリスチャンの場合は、「不法」つまり、「罪」を犯すことを退けている必要があることを示しています。(ヨハネ第一3:4)
さらに、イエスは「偽キリスト」や「偽預言者」が、「大きな奇跡や不思議なことを行う」とも言われました。(マタイ24:24新世界訳改訂版)ですから、神に本当に是認された聖霊で油そそがれたクリスチャンを奇跡や不思議を行なうことによっても見分けられないことが分かります。
パウロは「不法の者」に関して、「サタンの力によって,あらゆる強力な行い,偽りの奇跡,不思議なことを見せ」ると述べられています。(テサロニケ第二2:10。マタイ7:23新世界訳改訂版)この聖句からも、人目を引くような「強力な行い」や「奇跡」や「不思議なこと」を見せることだけが、真正な聖霊で油そそがれたクリスチャンを証明するものとはならないということが分かります。
なぜなら、その奇跡や不思議なことや強力な業は、「サタンの力によって」行われる場合があるからです。
(3)神の僕だけでなく悪魔サタンと悪霊たちも人々に奇跡を行わせることができる
実際、昔から奇跡だけでは、それがまことの神エホバの崇拝であるかどうかを見分けることはできませんでした。
悪魔サタンや悪霊たちは、エホバ神と同じように自分たちの崇拝者たちに奇跡を行わせることができます。例えば、イスラエル人がエジプトにいた時、モーセは、エホバ神の後ろ盾により、さまざまな奇跡を行いました。モーセは杖を投げて、蛇に変えることができました。(出エジプト4:1-5)しかし、エジプトにいた魔術師たちも、同じことができました。(出エジプト7:10-12)杖を投げて蛇に変えることができたのです。
エジプトの魔術師たちもモーセと同じく杖を蛇に変えることができた
魔術師たちは、モーセには決してかないませんでしたが、さまざまな奇跡を行うことができました。ですから、悪霊たちも自分の崇拝者たちに奇跡やしるしを行わせることができたのです。
一世紀にもシモンという人は、魔術によって「注目」を集めるような大きな事を行なっていましたが、それはイエスの是認を得てはいませんでした。(使徒8:9-11;18-24)当然、魔術を行うことによって神とイエスの是認を証明することはできません。
聖書は、占いなどを含む心霊術や魔術も神の王国を授けられることのできない業であると述べています。(ガラテア5:19-21)なぜなら、それらは、悪魔サタンと悪霊たちによって行われているからです。
占いや魔術などの心霊術の背後には悪魔サタンと悪霊たちが存在する
悪魔サタンと悪霊たちも自分たちの崇拝者たちに奇跡を行わせることができる
ですから、エホバ神は、ご自分の力によって奇跡を行わせることができますが、悪魔サタンも悪霊も自分の崇拝者たちにさまざまな奇跡を行わせることができるのです。ですから、エホバ神は、ご自分に対する真の崇拝を奇跡によって証明することはやめられました。
(4)今日奇跡やしるしが必要でない理由
一世紀の末に聖書全体は完成したので、それ以上に奇跡的に神からの音信を付け加えることも取り去ることもしてはいけなくなりました。(啓示22:18,19)それ以降、後世のイエスの弟子たちは、すでに完成した聖書を研究することによって、聖書の正確な知識を探求できました。それで、奇跡的に神からの音信や預言が与えられる必要性はなくなりました。聖書の写本を参照すれば良かったのです。
一世紀の末に聖書が完成したのでもう奇跡的な音信を付け加える必要がなくなった
また、初期クリスチャンの熱心な宣教によって、ある程度聖書から離れていましたが、キリスト教がローマ帝国の国教とされました。さらに、ローマ帝国のキリスト教の団体は、熱心にローマ帝国の外に宣教活動を推し進めて、キリスト教を普及させていきました。それは、人々がキリスト教と聖書に親しむ機会を与えました。
そして、現代は、とりわけ、聖書は身近なものになっています。聖書は膨大な数全世界で頒布されています。無料で聖書を手に入れる人も多いです。また、ネットには無料のオンラインの聖書があり、IT検索ツールなどがあるので、ネット上で聖書を読むことができます。また、望めば、お金を払って書店やネットで紙製の聖書を手に入れられます。
また、ネットを用いて、聖書が歴史的に真実な記録であることを裏付ける豊富な情報に接することができます。それらは、奇跡的な助けの代替手段になっています。
また、現代医学の進歩や、物流の改善によって、医療や薬や薬用植物などを手近に利用できるようになっているので、いやしなどの奇跡の代替手段になっていると思います。病気になっても、奇跡的ないやしに頼るのではなく、神に知恵を祈り求めて、病気の治療のための実際的な方策を講ずることができます。
ですから、エホバ神はイエスや初期クリスチャンに奇跡を行う力を与えて、その後ろ盾となられましたが、聖書は偽キリストや偽預言者も奇跡を行えることを示しています。また、悪魔サタンや悪霊たちも彼らの崇拝者たちに奇跡を行わせることができるため、今日、エホバに是認される油そそがれたクリスチャンをその奇跡によって見分けることはできません。また、今日、奇跡はその代替になるものがあるために、奇跡は必要がなくなっています。